速まるカウントダウン
翌朝は強風だった。案の定、飛行船SS号の公式アカウントでは、飛行中止のお知らせが投稿されていた。
ここ1ヶ月くらいで、私は朝起きるとまず風を気にするようになった。お天気のアプリを開いて、風速を確認したりなどもする。風の強さなんて、今まで生きて来た中で気にした事もない。紛れもなくこんな習慣は初めてだ。
今日は水曜日。5月下旬のあの日、初めてSS号を見つけたのも水曜日だった。札幌中心地での販売ルートの日だったので、よく覚えている。
私が5月に歩道で飛行船SS号を見つけた、街中の企業さんでの販売を今日も終えて、車に乗り込む。強風じゃなきゃまたここで見られたかもしれないのになぁ、と思いながら、フロントガラス越しの空を見上げる。白い雲がすごい速さで流されて行く。
エンジンをかけようとした時、スマホが鳴った。アプリの通知音。SNSの、SHUNさんのアイコンが小さく表示されていた。青空を飛ぶ飛行船SS号を写した、彼らしいアイコンだ。これを見ると私はいつも嬉しくなってしまう。
『今日、仕事が終わってから係留地まで来れますか?話したい事があります』
元々係留地には今日も行くつもりだったけれど、何かあったのだろうか。話したい事。良い話ならいいけれど、その一文を見た時、何となく少しだけ不安になった。
「え、金曜日に……?」
強風に身を躍らせる飛行船の前で、私は立ち尽くしていた。風の音が強過ぎて聞き間違えたのかと思ったけれど、どうやら本当の事らしい。
「えぇ、急遽決まったそうです」
少し寂しそうなSHUNさんの声も、唸る風にかき消されそうだ。
日中に飛行船の番をしていた橋立さんから聞いた話では、飛行船は日曜日にここを離れる予定だったが、急遽金曜日に変更になったとの事だった。理由は、移動経路の天候不良。今現在も吹いているこの風は明日いっぱいまで続き、金曜日に治まる予報らしい。その1日が移動のチャンスとの事だった。通常なら函館近くの町に係留して一泊するが、それも飛ばして、一気に津軽海峡を渡るのだそうだ。
「もしも明日はるさんがここに来られなかったら、今年はもう見られないだろうなと思って。それで呼んだんです。余計なお世話だったかな」
SHUNさんは弱々しく笑った。
「全然そんな事ないです。ありがとうございます、呼んでくれて。明日ももちろんここに来ます」
笑顔を作ろうとするが、何だかうまくいかなかった。
想定よりたった2日、早まるというだけの話なのに。受け入れたくないという気持ちがどうしても湧いてしまう。駄々をこねる小さな子供みたいに。
「自然相手だとどうしても、しょうがないんですよね。去年もそうでしたよ」
飛行船滞在期間中の北海道は強風の日が多く、飛行中止になる事は多々あるそうだ。強風が吹きやすい事には、この辺りの地形の関係もあると言う。今年は多く飛べていた方だと思う、と彼は言った。
初めてここでSHUNさんを見た時も、飛行船はこんなふうに風に振り回されていた。随分前のような気もするし、つい最近の事のような気もする。
金曜日という事は、私はここに来る事は出来ない。カレンダーどおりに休日が来る会社さんを対象に仕事をしている私達販売員は、平日に、それも急に休みを取るなんて事は出来ない。飛行船やクルーを見送りに行く事が出来なくなってしまった。
という事は、今年は飛んでいる姿ももう見られないのか……。
突然突き付けられた現実に、タイムリミットへのカウントダウンが急激に速まった事を感じた。そして私は、もう後のない崖っぷちに立たされているかのような気持ちになってしまう。
手作りパンの移動販売と言う業界では、夏場は基本的に売上が落ちる。その対策として、暑くても食べたくなるようなユニークな新商品が考え出され、毎年いくつか発売される。今年もそんな時期らしく、山上係長と葵さんが夜の詰め所に新商品のパンを数種類持ってきた。
販売員は、新商品が出る際には事前に必ず試食を行わなければならない。みんな試食してねー、という係長の声と、販売員達がパンの袋を開けるガサガサという音が聞こえてくる。
「どうした、春琉。試食来てるよ」
テーブルにだらりと突っ伏していた私に、葵さんが声をかけてきた。
「いらない」
「いや、いらないて。振る舞ってんじゃないんだわ。仕事だからこれ」
隣の席に座って、私の顔を覗き込む。
「何さ、具合でも悪いの?」
「具合は悪くないけど、心の具合が悪いかも」
「何よそれ。なんかあったの? 話聞くよ、お姉さんが何でも」
葵さんはニッコリ笑う。こういう時、彼女のこの陽気さと笑顔はじわりと心に沁みる。
わざとらしく突っ伏して、こんなの、「私を心配して下さい」 と周りに叫んでいるのと同じじゃないか。もう1人の自分の声が、耳と心に痛い。
他の販売員さんの邪魔にならないよう、会議用テーブルの端っこの席で、葵さんが話を聞いてくれた。また飛行船の話か、とか、そんなんしょうがないじゃん、とか言われるかなと思ったけれど。
「なんかさ、春琉がここで働き始めた頃の事思い出したわ」
葵さんは穏やかな口調でそんな事を言った。
「飛び込み販売、緊張してうまくしゃべれないって、すごい落ち込んでた時あったじゃん。落ち込むって事は、出来るようになりたいって真剣に思ってたって事でしょ。実際今のあんたは見違えるほど難なく仕事こなせるようになったもんね」
話題とは特に関連性を感じない返答に、私はきょとんとしてしまう。このタイミングで私は褒められているのだろうか。
「まぁ、今でも飛び込みはあまり得意ではないけど……」
「でも出来ないってわけじゃないじゃん。あの時も私に相談してくれて、一緒に飛び込みの練習行ってさ。ちゃんと出来るようになったしょ」
「うん、まぁ……一応?」
「今は全てを無難にこなしてるって思ってるよ。特別何かすごいってわけでもないけど、特に大きなミスもないし。ホント、無難に」
葵さんは、やたらと無難を強調する。
「仕事に関してはそうだけどさ。私は、あんたに足りないのは『充実』だとずっと思ってたの」
「充実……?」
「好きな事やって心潤ってる人って、やっぱ雰囲気が違うのよ。前までの春琉には、春琉自身が充実する、っていう事が足りてなかったと思う」
別に褒められてるわけではないのか、と思いながら、とりあえず葵さんの言葉に頷く。
「寝食忘れて打ち込める趣味とか、何なら恋愛だっていいし。別になくても生きていけるけど、何かひとつでも、これ! っていうものがあったら、あんたはもっと成長出来るんだろうなぁって思ってたのよ」
「趣味はドライブだけど、別に寝食は忘れないしなぁ……恋愛なんか専門外だし」
私の答え方がおかしかったのか、葵さんはアハハっと明るく笑った。
「でもさ、今は充実出来るものが見つかったって事でしょ。お金も時間もかけて色んなとこ追っかけてくくらいに。そんなふうに、この世の終わりみたいな顔して落ち込めるくらいに」
これまでの人生の自分自身を思い返した。仕事もプライベートも本当に無難に、ごく平凡に過ごしてきた自分の事。平和だけど刺激もなく、可もなく不可もない、ひたすら平坦な日々。
離れてしまうのが嫌で落ち込むほど、引き留めたいと思うほど好きになったものなんて、今までにはなかった。それこそ、恋愛ですらも。
こんな気持ちになるのは、今の私が“充実”しているから、って事?
「それってめっちゃ良い事だよ。春琉をそうしてくれた飛行船に私も感謝だわ。これからも大事にしなよ、飛行船」
葵さんの言い回しが何だか面白くて、つい笑ってしまった。
「うん……飛行船、大事にする」
「ははっ、そうだよ。っていうか、あれって毎年飛んでんじゃん。また来年も見れるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、次への楽しみが出来ていーっしょ! 一生の別れじゃないんなら」
「うん……」
「お別れした瞬間から、次に会う日までのカウントダウンが始まるんだ、って考えてみな。またワクワクして待てるじゃん!」
「うん……そうだよね」
葵さんの言葉に、ずっしりと沈んでいた心がふわりと少し浮き上がったような気がした。この人は本当に私の気持ちを軽くしてくれるプロだ、と思う。普段はあんな感じだけれど、実はとても愛に溢れていて、人の心にしっかりと寄り添ってくれる。そんな葵さんが私は大好きだ。所長をしているのも、販売員としての経験や技術だけが理由じゃないと思う。
「個人的には、金曜日仕事休んでもいいよって言ってあげたいくらいだけどね。お客さんの事もあるから、ちょっとそれは難しい。ごめんね」
「それは、もちろん! 絶対仕事に穴は開けないから」
何となく胸が痛んだ。そこまで言わせてしまうつもりはなかったのだけれど。
「私が代わってあげられたらいいんだけど……」
「そんな。そこまでじゃないよ」
「いや、春琉の成長がホントに嬉しくてさ。春琉にホントなら飛行船見送りに行ってもらいたいなぁって、私が思ってるんだ、個人的に」
葵さんはとても穏やかに笑う。心からそう思ってくれている事が伝わる優しい微笑み。じわっと、温かいものが胸の中に滲むのを強く感じる。
「葵さん……ありがとう。本当に」
その時、ぐぅぅ、と小さな音がした。聞き逃さなかった葵さんは、フフッとおかしそうに吹き出す。
「春琉さぁ、お腹空いてたんでしょ」
「……ごめん……変なタイミングで」
何で私のお腹はいつも空気を読めないのだろう……。
「だから尚更なのよ。人ってさ、空腹だと悲観的になっちゃうんだよね」
「あはは……そうかも」
頬を掻きながら苦笑すると、お腹がさらにきゅ~っと音を立てた。そういえば今日一日、飛行船の事ばかりを考えていてあまりちゃんと食事をとっていなかった気がする。急な空腹感に項垂れる私を見て、葵さんはニヤッとした。
「行くんでしょ、この後。今年ラストのご挨拶に」
テーブルの中央にたくさん広がっていた試食用の新商品を適当にひとつ取り、私の目の前にシャーッと滑らせた。“あちらのお客様からです”みたいに。
「そんな腹ペコじゃ行けないよ。さっさと試食して、力付けて行ってきな」
軽く背中を叩かれて、私はまたアハハと笑った。




