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遠い日の飛行船  作者: 清松
第5章
14/22

奇跡の朝

朝霧が立ち込め、辺りは真っ白だった。信じられないくらい白い。冗談抜きで、4、5メートル先も見えない。こんな濃霧は見た事がなかった。


早朝5時過ぎの静かなトイレの鏡に、自分が映る。ひどい顔してる、と思う。目の下にうっすらとクマが出来ているようにも見えた。だが眠くはないし、体も元気だ。

携帯用の櫛で髪を整えて、軽いメイクをする。数年前に百均で買った少し大きめの舟形ポーチには、同じく百均で買った化粧道具やウェットシート、寝癖直しのスプレー、小さめのタオルなんかが入っている。これを1つ持っていれば、こういう時に役に立つ。


私は普段からおしゃれを全然しない。化粧も本当に最低限だ。そもそも、顔面の皮膚に何かを塗るという事に抵抗がある。世間が許すなら年中ノーメイクでも良いと思っているくらい。

服装だって、パーカーとTシャツとジーンズがあれば生きていけると思っている。スカートも、制服や行事以外で着用した事はない。

ついでに言えば、恋愛だってした事もないようなものだ。高校の時に一度だけ付き合った人がいたけれど、すぐに終わってしまった。私があまりにもつまらない女だから。

綺麗になりたいとか、かわいく見られたいとか、そういった感情が微塵も湧かないのは何故なのだろう。全然女子らしくない。感覚も行動も、何というか男っぽいよなぁと、自分でもよく思う。

私が今ここにいるのも、だからこそなのだけれど。




「あれっ、はるさん! 何で……?」

SHUNさんは、かなり面食らった様子だった。

「私も離陸を見たくて来ちゃいました」

「来ちゃいましたって……札幌から?」

彼が素っ頓狂な声を出しているのが面白くて、クスクスと笑ってしまった。

「昨日、道の駅で車中泊したんです。行き当たりばったりのドライブが大好きなので、こういうの実は慣れてるんですよ」

「ま……マジですか。はるさん、その場のノリで車中泊とかしちゃうんですね」

引かれたかと思ったが、逆だったようだ。SHUNさんは、そういうの大好きですよ! と笑っていた。




挿絵(By みてみん)




あれだけ濃かった霧もすっかり晴れ、太陽と青空が見えていた。

今の時刻は8時過ぎ。係留地には、スカイブルーのパーカーやポロシャツ姿のクルーが既にたくさん集まっていた。

飛行船はマスト(私がずっと柱と言い続けて来たものは、マストと言うそうだ)にくっついてふわふわと揺れながら、旅立ちの時を待っている。私とSHUNさんの他に、カメラを持った男性が2人いた。都市から離れているからか、ここは見学客が少ないようだ。


「札幌まで、予定どおりに飛べるみたいですよ」

SHUNさんはここに着いた時にクルーと話したようで、そう教えてくれた。

「あぁ、良かった。離陸が見られるの嬉しいです」

「初めてですか、離陸見るのは」

「はい。なんか緊張します」

既に私は鼓動が速くなりつつある。

「SHUNさん、何時からここにいるんですか」

「7時に着きました」

「そんな早くから?」

「えへへっ、早く見たくて」

昨日のように、少年の顔になって笑う。この人は私と同じだ、と思う。気持ちを抑えられず、“その場のノリ”で車中泊してしまう私と。


離陸の準備が続く。飛行船の周りにクルーが集まり、それぞれが様々な動きをしていて、作業には特に統一性がないように見える。何をしているのかは、私にはさっぱりわからない。

マストの頂上にもクルーが1人。飛行船は時々、今にも飛び立ちそうなブーンという音を立てている。ゴンドラの中に人がいるが、あれはパイロットなのだろうか。


しばらくそんな状態が続いていたが、ついに飛行船がマストから外された。私の全身に緊張が走る。

SHUNさんは少し前からスマホで動画撮影をしていて、何も喋らない。

ヨーライン(飛行船の先端から伸びる2本の長いロープのようなものをそう呼ぶらしい)を掴むクルー達と、ゴンドラを直接手で掴むクルー達に囲まれて、飛行船はゆっくりと運ばれていく。こんなに巨大な乗り物なのに、人の力がなければ移動する事は出来ないと言う。

離陸地点に到着したようで、動きが止まる。飛行船は私達に右斜め後ろ側を向けたような形で静止していた。いよいよ飛ぶのか。胸の内側を激しく叩く鼓動が、ドクンドクンと耳に直接聞こえてくる気がする。


一気にエンジン音が高まる。飛行機が滑走するかのように徐々にスピードを上げて、空へと飛び上がった。

飛行船はやがて低い位置でゆったりと左向きに旋回し、私達の方へと近づいてきた。物凄い低空飛行。あまりにも低過ぎて、落ちてしまうんじゃないかと思うほどだ。

頭の上の、本当にすぐそこの所を、飛行船が駆け抜けて行く。エコーがかかったかのように辺り一帯に響き渡る轟音。




挿絵(By みてみん)



すごい。すごいとしか言えない。こう言う時、感情を表せる適切な言葉が出て来ない。

手が届くような目の前の空を飛行船が横切ったほんの数秒、まるで夢の中にいるかのようだった。私は、かなり間の抜けた姿で、ぽかんとして立っていたと思う。


飛行船は高度を上げ、係留地の空からゆっくりと離れて行った。どんどん高く小さくなって行く姿からも、私はまだ目を離す事が出来ない。既にSHUNさんは撮影を止めてスマホをポケットにしまっている事も知っていたが、私はまだ彼に話しかける事すらできない。話したい事がいっぱいあるはずなのに。

その間SHUNさんも、私に声をかけてくる事はない。彼は私が今どんな状況かわかっているのだと思う。




ようやく私が現実に帰って来た頃、係留地では初めて見る光景が広がっていた。

5人くらいのクルーが、まるでマストと綱引きをしているように見えた。あの飛行船を一点で支えていた大きなマストが、ゆっくりゆっくりと地面に倒されて行く。


やがて、ここは何もないただの緑地に戻った。マストがなくなるだけで、一気に雰囲気が変わる。

撤収作業も撮影していたSHUNさんがスマホをしまい、ふぅっと軽快に息をつく。

「どうでした?」

笑顔で一言だけ聞いて来た。

「すごかったです。それ以外の言葉がなくて」

「わかりますよ。移動フライトの日ってあんな感じで、見送りに来てくれた人達にファンサービスの低空飛行を見せてくれるんですよ」

「そうなんですか! 飛行船が、ファンサービスだなんて」

やっぱり地上の人とのコミュニケーションを大切にしてくれているのだなぁと、何だか温かな気持ちになる。

「はしら……じゃなくて、マストをしまうのも見られるなんて。これって、なかなかないですよね」

「移動フライトの日限定ですね。これから地上クルーは岩水に向かって、そこにまたマストを立てて飛行船を待つんですよ」

黒汐から岩水まで、飛行船よりも先に向かってマストを立てるなんて。

「飛行船はその間、ずっと飛んでいるんですか?」

「そうです。飛行船って半日以上も飛び続けていられるみたいですよ」

「えぇ、そんなに? それならその間にクルーさんも移動できますね」

SHUNさんと会話すると、私の知らない飛行船の世界を色々と知る事が出来る。3年もするとこんなに物知りになれるのだ。私も3年後には、SHUNさんみたいになれているだろうか。


作業をしていた橋立さんが、驚いた顔をして私の方へと近付いて来た。

「おはようございます。びっくりしました、今日も見に来て下さったんですか」

「お邪魔してました。実は昨日、道の駅で車中泊したんです。どうしても今日の離陸を見たくて」

「そうですか! いやぁ、ありがたいです。そこまでして来て下さったなんて……」

ちょっと待ってて下さい、と言って橋立さんは、分解したマストの積み込みを行っているトラックの方へと走って行った。

すぐに戻って来た彼の手には、透明のビニールに包まれた何かが握られている。

「昨日お渡しするのをすっかり忘れてました。在庫切れだったんですがようやく届いたので」

Smile Skyのキャラクター・スカイ君の、ストラップ付きのぬいぐるみだ。紺色の帽子を被った、笑顔の白熊。

「わぁ、かわいい! どうもありがとうございます」

手のひらサイズだが、しっかりと存在感のある作り。

「僕も2つ持ってますよ、それ。飛行船を見に来た人しかもらえないレアものですよ」

SHUNさんはそう言って、腰に巻いたウインドブレーカーを捲った。ベルトから、スカイ君が2つぶら下がっている。私は思わず吹き出してしまった。

「SHUNさん、かわいい。そんな所に隠してたなんて」

「へへっ、隠してたわけじゃないんですけどね。隠れちゃうんですよ」

私も真似をして、ズボンのベルトを通す部分に小さなフックを引っ掛け、スカイ君をぶら下げてみた。飛行船好きの証を手に入れたようで、何だかちょっと嬉しい。




挿絵(By みてみん)



その後、私達はクルーの出発を見送った。トラックとワゴンに分乗した彼らは、全員が笑顔で手を振ってくれた。橋立さんはワゴンの運転手をしていた。去り際に窓を開けて、ありがとうございました! と声を掛けてくれた。




誰もいなくなった、がらんとしたただの緑地。カメラを持った2人の男性客も、出口へ向かって歩き出す。

「SHUNさんは、これからどうするんですか」

何気なく聞いてみた。

「僕は一度帯広の親戚宅に寄ってから、札幌に戻ります。っていうか、岩水海岸公園に向かいます」

「やっぱり、ですよね。私もそうしようかと思ってた所でした」

顔を見合わせて笑う。考えていた事は同じだったようだ。

「はるさん、すごいですね。アクティブだな」

「SHUNさんだって」

「僕は去年もそうしたんですよ。黒汐で見送った飛行船を、岩水でお迎えしましたよ」

「すごく楽しそう。聞いただけでワクワクします。私もそれをやってみたいです」

どうせ札幌に戻るのだから、そのまま着陸も見届けたい。今の私にとってそれはごく自然な流れだ。


私は、飛行船に完全に振り回されていると思う。でも、もっと振り回されたい。

どうしてこんなふうに思えるくらい好きなのかはわからない。でも、それで良い。理由なんてない。飛行船が向かう所へ私も向かう。ただそれだけの事だ。



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