黒汐町
翌朝9時頃、地図のコピーとメモを持って家を出た。
私の車には、カーナビなんてものは付いていない。付いていたとしても使いこなせないし、おそらく使わないと思う。
例えば夜になってしまったとか、道を間違えていつの間にか東の果てまで来ていたとか、そんな事があったって全く構わない。私は1人だ。誰にも迷惑をかける事はない。無事に札幌に戻り、月曜日にまた仕事に行く事が出来れば、それで良いのだから。
葵さんや山上係長には、黒汐町へ行く事は言っていない。また笑われるからではない。特に言う必要がないからだ。係長なら、もしかするとまた道順を教えてくれたのかもしれない。でも私は、自分の力でそこへ行きたいと思った。何となくだけれど。
高速道路を走るのは3年ぶりだ。久々で少しだけ緊張したが、流れに乗ってしまえば何も不安はない。
高速道路に乗る時、私は毎回必ず自動車学校時代の高速教習の時の事を思い出す。スピードを出す事を恐れる私に、助手席の教官が、もっとアクセルを踏んで! と何度も声を掛けてきたっけ。高速道路では、しっかりと加速し流れに乗る事が何より安全なのだと強く教わった。本線に合流する際、私の脳内には必ず、その時の教官の声が蘇る。
パーキングエリアで一度だけ休憩をして、ひたすら進んだ。帯広から向こう側は未知の世界だ。あまり馴染みのない地名とカントリーサインが、脇を駆け抜けて行く。その中に、メモしてきた町の名前が必ず出てくる事を確かめながら、アクセルを踏み続けた。
もう後戻りは出来ないという思いと、これは果たして意味がある行動なのかという不安が、胸を覆い始めていた。
勢いでここまで来てしまった事を、後悔はしていない。けれど、行き着く先で私が何を知る事になるのか、少しだけ怖い気がした。
その後降りるインターチェンジを間違えてしまうというハプニングがあった。せっかく調べて来たのに、なんて間抜けなのだろうか。
道に迷ってタイムロスが生じ、想定よりも1時間ほど遅れてしまったが、何とか黒汐町に辿り着いた。
「くろしお」と書かれた魚のキャラクターのようなカントリーサインを見つけた途端、私の鼓動は少し速くなっていた。果たして飛行船はいるのだろうか。今の所、飛んでいる様子はない。
スカイスポーツ公園へ続く道は、周囲に畑と草原しかなかった。草の色がとても綺麗だと思った。十勝地方の緑は、他の町にはない特有の美しさを持っていると感じる。
上空に2機のパラグライダーが飛んでいるのが見えた。珍しくて、思わず見入ってしまう。パラグライダーを見たのなんていつ以来だろうか。空を飛ぶものには無条件にワクワクさせられる。と言っても、飛行船には敵わないのだけれど。
分岐点ごとに出てくる小さな案内看板に導かれ、ついにその場所に到着した。
広い芝生に、いくつかの遊具が見える。土曜日とあって家族連れらしき人達の姿が見えるが、そんなに多くはない印象だ。
「黒汐スカイスポーツ公園 駐車場」と書かれた看板に従い、車を停める。
ついにここまで来てしまった。
稲田部長の話では、この公園の向かい側の敷地で飛行船を見たとの事だ。ただ公園があまりにも広大で、どの位置からの向かい側なのかがわからない。
車を降りた途端、炭焼きの強い匂いがした。駐車場の近くにタープテントがいくつか張られ、バーベキューが振る舞われているようだ。肉の焼ける匂いに、急激に空腹を感じた。すっかり忘れていたけれど、昼食をとっていない事に気がついた。腕時計を見るともう14時を過ぎている。
とりあえず今は飛行船を探す事にした。駐車場から道路を挟んで向かい側は、林のようになっている。この木々が途切れる所まで歩いてみよう、と思った。
ここまで来て、見られずに終わる可能性は十分にある。それは承知の上だ。そうだとしても、自分の目で現実を確かめたかった。
そして、その可能性というのは意外にもすんなりと打ち砕かれる事となった。
100メートルほども歩いたかという辺りで林は終わり、木々の陰から、係留された飛行船SS号の姿が現れた。
「!」
突然の事に息が詰まり、足を止める。それはあまりにも急であり、同時にあまりにも自然だった。
広がる草原の真ん中に立てられたあの柱にくっついて、飛行船は優しい風にふわふわと揺れている。奥の方には、トラックが2台停まっているのも見えた。
飛行船はやっぱり居た!
望んでいた景色が今目の前にあるのに、それは何だか現実味がなくて、幻のようだった。
顔が勝手に綻んで行く。周りに人はいないので、感情に任せて思いっきりニヤニヤと微笑んでしまった。
本当に居た。居てくれて良かった。
表通りから交差する小道を入った所に、敷地内への入り口らしき場所があった。トラックが近い。だが、スタッフさんらしき姿は見当たらない。
敷地のさらに奥の方には、一際目立つ深緑色の巨大な建物が見えている。ずっと視界に入ってはいたが、あれは何なのだろうか。
トラックの横を抜け、視界が開ける。
目の前に飛行船。嬉しさに、胸の奥がぞわぞわと波打つ。
最高のゴールだ。ここまで来て本当に良かった。再会の喜びと、自力でこの場所まで辿り着けたという達成感に満たされる。高速料金を余計に支払った事も、タイムロスも、もうどうでも良い。
ヒナバッタの鳴き声が時折聞こえてくるだけの静かなこの場所に突然、ぐぅっとそぐわない雑音が響く。忘れていた空腹を思い出し、急にふらふらと力が抜けるような気がした。
飛行船の存在は確認出来たので、一旦撤収してご飯を食べて来よう……。
そう思って振り返ると、3メートルほど後ろに人が立っていた。




