孤島のアパート
カーテンの隙間から差し込む大きな光で目が覚めた。体感、今日も猛暑日だろうか。起きたらすぐ携帯をチェックする。それが私のルーティーンだ。でも今日からは違う。そう決めたのだから。さっそく顔を洗いに洗面所に向かう。普段は何気ない小鳥のさえずりも今日はなんだかやけに大きく聞こえる。大体の荷物はすでに届けてもらっているから、今日はいつものトートバッグに財布にメモ帳、筆箱、メイクポーチとヘアアイロンを入れればもう出られるだろう。今日からは携帯ともパソコンともしばらくおさらばだ。さっとメイクを済ませ戸締りをし、鍵をかけたことをよく確認してから家を出た。空港で何か軽食を買って朝はそれで済ませよう。昼からは忙しくなる。腹ごしらえはちゃんとしておかなければ。
空港に着くと人で溢れかえっていた。そうだ今は夏休みだった。大学を卒業してどれほど経っただろうか。周りは結婚している人も多く、横に立ってている男の子と同じ歳の子が自分にいてもおかしくはない。そんなことを思いながらチェックインを済ませた。空港の中でサンドウィッチとお茶を買い、しばらく離陸までくつろぐことにした。昨日までとは違う。今日からは仕事もなく、周りの人達や普段のストレスからも離れてゆっくり暮らすのだ。これまでは毎日朝6時から起き、満員電車に揺られ会社に着く頃にはもう疲れ切っている。それなのに夜は8時まで働きっぱなしで昼食も作業をしながら済ます程度だ。しかし一昨日、そんな日に急に終止符が打たれることになった。祖父の急逝。それなりに歳はとっていたが、なんの前触れも無く急に朝冷たくなっていたという。そう祖母から電話があり、病院へ駆けつけた。祖父は眠ったような表情をしており、まだ亡くなったという実感がない。ただ横で祖母の啜り泣く声だけが部屋に響いていた。私の両親は私が生まれてすぐに離婚し、私は祖父母に育てられた。祖父母は私のために必死に働き、大学まで行かせてくれた。働きずめだったせいで身体に負担が来ていたのだろうか。私も恩返しのために精一杯勉強し、なんとか国立の大学に合格し、安定した職に就けた。それも祖父母のおかげだ。でももうその祖父はこの世にはいない。私は恩返しできていただろうか。自慢の孫だっただろうか。そんなことを考えていると祖母から声がかかる。それは一緒に田舎で暮らしたいという提案だった。大学を卒業してから私は一人暮らしだったし祖母も急に祖父を失って一人で暮らすのは辛いはずだ。無理もない。これも恩返しだと思い、二つ返事で一緒に暮らすこととなった。
気がつくともう飛行機は着陸しており、乗客は少しずつ立って荷物を上の棚から下ろしていた。眠ってしまっている間に着いていたようだ。降りてみると都内より少し涼しく、緑と青が一気に目に飛び込んできた。こんな景色は初めて見た。降り立った先は静岡からはるか南の方にある小さな島である。空港と呼べるのかもわからないその場所から、海も山も見える、そんな島だった。少し歩くとすでに私のことを待っていてくれた祖母と合流した。祖母は私より一日早くこの島に着いていた。そして合流してすぐこれから住むことになるアパートへと向かった。
1時間ほど歩いただろうか。こんなに歩いたのは久しぶりだ。舌の乾いた感覚とワンピースの生地が肌にまとわりつく感覚があった。例のアパートは山奥にあった。ここだけは大きな木に囲まれているせいか、それとも川が近いせいか、一際涼しく感じる。アパートは想像通り古く、錆びれている感じだったが、一番に感じたのはそこではない。その大きさである。天高くそびえる大木と並ぶほど高いのだ。敷地面積はそれほどだろうが、縦に長いその建物には、威圧感があった。祖母に案内されるがまま中に入るとまた驚かされた。そこは都内の空港と同じほど人で溢れかえっていたのである。こんな田舎の島の、森の奥にある古いアパートに。その威圧感と驚きでまた一気に体が冷え込んだ。祖母曰く、ここは妙な噂で有名なアパートなのだという。なぜここを一緒に住む場所に選んだのだろう。祖母は昔から大勢でいるのが好きだったからだろうか。アパートを入ると外装からはとても想像できない大きく清潔な空間が広がっており、管理人、というよりコンシェルジュに近い人が中央のデスクに座っていた。その人から鍵を貰い、私達は2階の部屋に移動した。203号室。ここがこれから祖母と暮らす部屋だ。中に入るとすでに送ってあった家具が配置されており、祖母はお茶を淹れてくれた。喉が渇いていた私はそれを一気に喉に流し入れ、祖母に先程の人だかりの話をした。すると聞かされたのは、とある噂だった。
「孤島のアパート」そう呼ばれているらしいこのアパートにはある噂があった。それはその立地や眼を見張る高さ、内装の綺麗さなどではなかった。上の階に行くにつれて治安が悪くなり、最上階には人間ではないものが住んでいる。と言ったものだった。私はオカルトなどには興味はないし、普通に考えれば上の階に行くほど家賃も高く、治安も良いのではないかと思った。しかしこの噂のどこまでが真実かはわからないが、確かに先程の人混みを思い返せば、有名なことは事実なようだ。1階は大きな広間となっており、中央のフロント以外は柱とテーブルが4つ。その各テーブルの周りに椅子が4つづつ並んでいるだけの大きな空間だった。2階から上が住居エリアであり、全てで33階建てだという。何故こんな島の森の中にこんなに大きな建物が立っているのか、外装は汚れているのに何故一階にはコンシェルジュがいるのか。謎はまだ増えていく一方である。
もう昼頃だ。ある程度の荷解きを終えた私は祖母に声をかけた。しかし驚いたことにこの島にはスーパーやコンビニがないという。確かに空港からアパートまで歩いている間も何も建物はなかった。それではここの人たちはどうやって暮らしているのだろう。川で取れる魚や畑など自給自足だとでもいうのか。その通りであった。通貨も使っておらず、物々交換で皆成り立っているのだそうだ。アパートの裏には人だかりができていた。徐に足を運ばせ、祖母は手に持っていた季節外れの手編みのマフラーを人に渡し、鮎と椎茸を貰っていた。これが今日の食事だそうだ。社会人になってからというもの、自炊する気力もなく、毎日コンビニで食事を済ませていたが、これからの食に満足できるだろうかと不安がよぎる。しかしここの住人は皆こうして暮らしているのだ。特に痩せ細った人も老人の他にはいないように見える。部屋に戻り食事を済ませると何もする事がなくなり、ふと携帯を探す。そうだった。ここでの生活のために東京の家に置いてきたのだった。この島に電話回線やインターネットがないと聞かされた時から、意を決し、しかし同時にどれだけその生活に耐えられるのか、祖母が落ち着くまで一緒にしばらく暮らし、すぐに都内に戻ってこようと思っていた。インターネットから離れるのは現代人にとって良い機会だと思うがそのままで生きられるのか自信はなかった。
夜になるとまた一層涼しさは増し、真夏だというのに長袖が必要なくらいだった。祖母は早くに寝てしまったが、私はあの噂が気になって眠れなかった。窓を開けてみると風が音を立てて流れ込み、眼下にはまだ人だかりがあった。いつでも人の交流が絶えないようだ。私もここに馴染めるのだろうか。そう思いながら外に出る。アパートの裏はマーケットのようなところがあり、そこから少し離れたところに川がある。木で作られた橋が架けられており、見た目には頑丈そうだった。恐る恐る渡ってみると川には月が反射していた。満月より少しだけ欠けている。川岸には夜中だというのに人がいて、何やら丸くなって談笑していた。改めてこのアパートの住人の繋がりの深さを感じる。そして自分の孤独感も。
両親がいないことは決して悲しくはなかった。顔も覚えていないし、祖父母は実の両親のように接してくれた。子供時代に少し両親がいないことで虐められもしたが、毎晩祖母が優しく慰めてくれ、祖父も学校側に責任の追及をして、私を虐めていた子たちの親が謝りに来たこともあった。寂しくなんてなかった。いや、そう自分に言い聞かせ、思い込んでいたのかもしれない。中学からは私立の女子校に入り、高校まで平穏な日々を過ごさせてもらった。友達もでき、部活動には入っていなかったが週に一度は友人と遊ぶくらいの生活だった。ただ社会人になり一人暮らしを始めると仕事以外はずっと家に居て、ストレスのせいか休みの日も外に出かける気力は出なかった。今思い返してみると生まれてからずっと孤独感を感じてきたのかもしれない。祖母と暮らし始め、そして結束の深い住人たちのいるこのアパートなら、孤独を消してくれるかもしれない。
雨の音がやけに大きく、目が覚めた。まだ時間に余裕はあるため朝ごはんの支度を手伝いに台所へ行く。祖母はもう起きており、祖父ももう仕事に出たそうだ。今朝は白米に味噌汁、たくあんと秋刀魚の塩焼きだった。もう既に出来上がっていたが、手伝たがる私のためにたくあんを少し切らせてくれた。学校に着くと机の上には彫刻刀で彫られたような字で「びんぼう」「ママはどこ?」「パパがほしいよお」などと書かれてあった。もうこんなことには慣れている。気にせずに授業を受ける。昼休みはお弁当ではなく給食なのだが、たまに自分の分だけ量が少ない時がある。これにももう慣れた。毎朝テレビで見る星座占いのようなものだ。今日はハズレの日。ただそれだけ。ただ今日はただのハズレではなかった。 授業も終わり下校しようとした時、靴箱と傘立てに、あったはずの物がなくなっていたのだ。まだ雨は強く地面を打ちつけている。でも仕方ない。これが私の人生だから。走って家まで15分。祖母は慌ててタオルを持って来た。
いい匂いで目が覚めた。祖母が昨日貰った椎茸の余りでスープを作ってくれていた。嫌な夢を見た。何の縁か目が覚めても雨だ。今日は雨だから外には出ずに部屋の片付けと掃除をすることにした。気のせいか少し水場はカビ臭かった。こんな雨の日でもここの人は集まるらしい。下の方で賑やかな声が聞こえる。掃除が一段落してから祖母と一緒に編み物をしてその日は過ごした。夜になって空を見上げると更に月は小さくなっていた。
引っ越してから1週間ほど立っただろうか。今夜は空に月が出ていない。新月なのだろう。そしてもう一つ気になることが。上の方が何やら騒がしい。いつもは下から賑やかな声が聞こえてくるのだがどうやら今日は違うようだ。祖母はもう寝ている。少し様子を見てみようと部屋を出て気づいた。このアパートは33階建てのはず。でも、エレベーターがない。いつもは2階に上がるだけで今まで気がつかなかった。上の階の人たちは毎日この階段を使って生活しているのだろうか。しかし逆にそれしか考えられない。ここでは上に行けば行くほど生活の質が低いと聞いている。最上階にはどんな人が住んでいるのだろう。もし本当に人ではないものが住んでいたら。そんなことが頭によぎるも意を決して階段を登り始めた。10階まで登って来たが、ここまでなんの変化も感じない。やはり噂はただの噂だったのだろうか。そう安堵していると急に背筋が凍る音がした。横を見ると33という数字が。いつの間にか最上階まで来てしまっていたらしい。階段を登り終えた時点でわかる。ここは何かがおかしい。見た目は他の階と何の変化もないが、脊髄で感じる。ここにいてはダメだ。騒ぎの音はいつの間にか止んでおり、そこにはただただ暗い静寂があった。恐る恐るその闇へ足を踏み入れる。部屋の前でまた新たな異変に気づく。この階には部屋が一つしかない。普通なら各階に等しく4部屋ずつあるはずだ。ただここ最上階には扉は一枚しかなかった。でも先程まで声が聞こえていたこと、ドアが開く音はしなかったことは確実だ。降りなければと全身で感じているが、気になって仕方がない。静かにその一枚の扉の前まで歩き、ノックをしてみる。反応がない。もう一度強く叩いてみた。それでも中には人のいる気配は感じない。やはりどこかおかしい。そっとドアノブに手を掛けた。鍵は開いているようだ。普通ならやめておくべきだと分かってはいるが、この状況では入る以外考えられなかった。