五、疑念
今日はノー部活デイだったらしく、学校にはほとんど人がいなかった。そんな日でも律儀に図書室を開けていたのだから、図書委員には頭が上がらない。
俺は靴を取りに一度教室まで戻った。うちの高校は特殊な構造をしており、廊下がベランダのように屋外に設置されている。屋根はあれど強い雨が降ればびしょ濡れだし、その構造のせいで、靴を履き替えるために各教室の前にある靴箱まで戻らなければならないのが、非常に面倒くさい。
とはいえ、この圧迫された集団生活の中で、少なからず開放感を得られるという点では悪くはない。
誰もいない廊下を幽霊のように進む。
数刻歩くと、すぐに教室の前に着いた。装飾がはげた緑色の靴箱を開けて、運動靴に履き替える。踵まですっぽりと足を入れた後、とんとんとつま先を床に打ち付けた。生まれてから何千回とするその作業は、目を暇にする。俺はなんとなしに空を見た。
太陽が夜に抵抗するように、オレンジ色の光を残した空は、鮮やかだった。
この世で平等なものは、こんな景色だけだ。もしかしたら、福沢諭吉もそういうことを伝えたかったのかもしれない。
さて、いい加減帰るか。いつまでも学校にいるわけにもいかないし、今日は持ち合わせがない。家に帰りたくはないが、家出するにはいささか準備不足だ。それに、彼女に心配をかけるのも不本意ではある。
先ほど上ってきた階段を目指し、歩き始めた。
そしてふと中庭を見た瞬間、心臓が飛ぶ感覚がした。
あれはなんだ?
陰で薄暗いうえ、三階の廊下から見ているのでぼんやりとしかわからない。それでも、黒い塊がずずずと動いているのは見えた。それは結構大きなもので、少なくともここらで見るような動物やゴミではないのは確かだった。風に吹かれている様子もなく、誰かが押しているわけではない。どう考えても、あれはあれの意思で移動している。
俺は何かに取り憑かれたように走りだした。いつも見回りをしている世界史の教師は、今日はもういなかった。
息を切らしながら思考を巡らせる。
普通に考えれば、休日返上で仕事をしていた演劇部の小道具やら衣装やらの類だろう。しかし、都合のいい考えをすれば、あれは、俺が今日一日中調べていた「司祭様」ではないのか。
次第にどくどくと心臓が脈打つのは、普段殆ど体を動かさない報いか、それとも。地団太を踏むように、階段を駆け下りた。
考えが纏まらないうちに、中庭に辿り着いた。肩で息をしながら、辺りを見渡す。校舎に囲まれた中庭には、夕焼けのような弱弱しい光が付け入る隙はなく、既に夜と化していた。
そこは、藻で充満した小さな観察池、アスファルトを貫く老いた巨木、風化しかけた何本ものポールがあるばかりで、自分以外の生気は全く感じられなかった。
俺は深緑のベンチに腰掛けた。何枚かの落ち葉が尻の下敷きになったが、そんなことはどうでもよかった。ポケットの携帯を取り出し、電源をつけずに親指でなぞる。
まだ空は、ほのかに焼けていた。
何故あれを追ったんだろう。一瞬だけその答えを探そうとしたが、すぐにやめた。一日かけて作った砂の城を波がさらってしまうように、自分がどこか遠くに行ってしまいそうな気がした。