三、停滞
何もせず、ソファーに寝ころんでいた。ふと時計を覗くと、針は二十三時を指している。時を刻む音だけが聞こえて、静かだった。時々ずずずっと、冷め切ったコーヒーを啜る音で静寂を汚した。
この世のことなんて何もわからないが、少なくともこの空間には自分とソファーとコーヒーと時計だけが存在した。
世界と繋がりたくて、携帯電話を取り出した。適当に世界の果てのニュースなどを見た。
ある国では大規模なクーデターが行われているらしい。政府による市民の虐殺が行われているらしい。味方だと思っていた人間に銃口を向けられて、何もわからぬまま少年少女たちが殺されているらしい。
他人にまつわる事実ばかりが羅列していて、同じ世界だと思うには無理があった。
結局、自分と世界は繋がってなどいない。物理的にそうだと言われても、自分がいる世界は手の届く範囲しか実態を持たず、それより遠いものは蜃気楼のようなものだ。
すぐに携帯電話の電源を落とし、ポケットにしまった。
数十分くらいたっただろうか、見る場を失った両目は、天井ともその間の空間とも取れない場所を見つめ続けていた。
彼女がリビングに入ってくるまで、やはり世界には俺と、ソファーと、コーヒーと、時計しかなかった。
「あんた、こんな時間まで何してんの」
彼女は濡れた長い髪を、白のバスタオルで押さえていた。風呂上がりの女性というのは、例え近しい間柄でも少しドキッとする。火照り赤くなった顔と少し上がった息が、いつも見る顔に普段とは違う化粧をさせているのかもしれない。
「別に、なんか面白いことないかなって考えてただけ」
「だから何でもいいから部活入んなさいって言ったのよ」
彼女は眉間にしわを寄せて俺を詰り、ぺんぺんと俺の足を軽く叩いてきた。すぐにソファーに座りなおすと、彼女が隣に座った。
俺たちは小一時間ほど話をした。最初は無人島に何を持っていったらいいのかとか、そういったことを真剣に語っていたが、徐々に日常的なことに落とし込んでいっていて、その話の導線は上手くできているなと思った。流石メンタルヘルスケアに関わる職に就いているだけはあって、彼女の会話のスキルについては見習うものがある。それから疑問形が多くなって、彼女は俺のことを知りたがった。
そして、俺の高校生活が相変わらず淡泊なことを彼女は弄り、笑っていた。
「ねえ楸、何かを始めることは嫌い?」
「そんなことねえよ。ただ部活を始めてみて、たいして好きになれずに終わったら始め損だろ。三年間の貴重な青春をベットしかねてるだけだ」
これは実際、本心である。特に好きなこともなく、流れに身を任せて生きてきた自分にとって、本当に好きになるようなことができるのか分からない。しかし一度部活に入ってしまったら、性格上辞めるに辞められない。色々なものを失うもしくは、欲しくないものを得てしまいそうな気がする。それは部活上での友人であったり、「部活を辞めた四尾連楸」というレッテルであったり。
そんな状態で適当に部活に入ったところで、無駄だ。無駄なことはしないことに限る。心の平穏は、見知らぬ土地に足を踏み入れず、風が吹き荒れる外に出ないことで訪れる。
「別に部活じゃなくてもさ。習い事とか」
「やりたいことが見つかったらそん時は言うよ」
そっか、と彼女は呟く。
「何かに関わるのが怖い? もしそうなら」
「最近のカウンセラーは家でも仕事すんの?」
彼女の話を遮り、冷えた言葉をぶつける。怒りとかそういう感情があるわけではなかった。多分、どんなことを言っても彼女なら許してくれるとか、そういう甘えからくるものだった。
気まずさと恥ずかしさの混ざったものが心に充満し、思わず立ち上がった。慌ててマグカップをつかみ、キッチンに運んだ。
シンクに残ったコーヒーを流そうとしたとき、ずかずかと彼女が近づいてきた。
「あんたねえ!」
背中を殴られた。彼女が握った手は、そのまま俺の背中に残されている。
「いい加減何かに関わりなさい。それが気に入らなかったらまた他のものに関わればいいの。嫌いだったり、苦しいものは捨てればいいの。人間はそうやって何かに関わり続けるの。そうやって生きていくのよ」
彼女は何が不満なんだろうか。学校も行っている。勉学も疎かにしているわけではない。友人も少なからずいる。これで十分じゃないのか。これ以上俺に何を求めているのだろう。俺なんかより、彼女の方が贅沢者だった。彼女の放つ言葉の意味が解らない。判らない。分からない。