十、喫茶店
坂を一人下る。勾配は少しきつく、足を前に出す度に体重が乗る。その勢いでまた後ろの足が出る。
バスのロータリーを抜けると、すぐ目的地に到着した。
この喫茶店は地元では名の知れたチェーン店で、客層は結構高いイメージがある。しかし近年はかき氷やソフトクリームが乗ったパイデニッシュ「シロノワール」等のスイーツが女性に人気で、若い連中も入り浸っているらしい。
俺はこげ茶色の少し重い扉を引き、中へ入る。からんころんと鈴が鳴った。
中を見渡すとスーツを着たサラリーマンや、余生を過ごす老夫婦が目に入った。どうやら神ノ池はまだ来ていないらしい。俺は安堵のようなため息を吐き出した。
奥の四人掛けのソファに座って、アイスコーヒーを注文する。先に出された水で唇を潤し、彼女を待つ。
よく考えてみれば、彼女は俺に何の話があるのだろう。俺が「司祭様」について誰にも話していないか確かめるためだろうか。しかしそんなことを聞いたところで俺が本当のことを言う保証はないし、意味がないはずだ。
「あら、早かったのね」
俺が十数分ほど待ったところで、彼女が到着した。凛とした声は相変わらずで、背筋がピンと伸びる感覚があった。
彼女は俺の前に座り、カフェ・オレを頼んだ。
「司祭様は重役出勤ですか」
「そのことは誰にも言ってないわね?」
彼女は俺に顔を近づけ、小声で話す。少し面を食らってしまうが、昼の野郎どもから受ける印象とは大違いだ。
「ああ、もちろん。昨日の今日だしな、流石にな」
「何日経ってもダメよ」
「はいはい」
軽口を叩けるほどの余裕は残っていた。無関心とコーヒーの香りが立つ店内は、この密談にはぴったりだった。もしもここが、なんとかフラペチーノやら、手のひら程のスコーンを出すような若者御用達のカフェであれば、こうはいかなかっただろう。
「それで、俺に何の用だ? 口封じはもう十分だろ。お前が困るようなことはしねえよ」
「少し待ちなさい」
彼女はそれだけ言うと、キュッと口を一文字に閉じてしまった。
沈黙を貫き、ただ座り続ける少女は、正に金色に輝く一輪の牡丹だった。
俺は隠り世に行くまいとコーヒーを飲む。苦くて黒い汁は現世の味がした。紳士のイラストが描かれたグラスにはすでに大粒の水滴が結露しており、掴んだ右手が濡れた。おしぼりで拭くが、左手も濡れていることに気が付いた。それは尋常ではない程の手汗だった。
ああ、俺はいま緊張しているのだ。普段と変わらない振る舞いをしているようで、全然できていない。体中が異常であることを警告している。ただのクラスメイトと喫茶店に来ているだけだと言い聞かせているのに、そうではないと叫ぶ俺自身の訴えに動揺している。
しかしそれも当然なのかもしれない。目の前にいるのは誰もが振り返るほどの美人であるわけで、意識せず他の人間と同等に接しろという方がおかしい。その上この女の子は司祭様ときたもんだ。緊張こそ純粋で愚直で正常な反応なのだろう。その事実を受け入れることで少し冷静でいられるような気がした。
しばらくすると、ウェイトレスがカフェ・オレを運びに来た。若い男女が黙りこくっている卓は些か奇妙だったのだろう、怪訝そうにバックに戻っていった。
多分彼女はあのウエイトレスに話を聞かれまいと、黙っていたのだろう。
コーヒーカップの中に角砂糖を一つ入れ、マドラーでクルクルと混ぜると、彼女は少しだけカフェオレを口にした。
彼女の所作は、姉のそれに似ていた。
特に髪を耳にかける動作は、本当に生き写しを見ているようだ。身内からの評価というものはあまり信用ならないものだが、正直彼女は姉とは比べ物にならない程に美人である。それでもそのような印象を受けるのは、不思議だった。今でこそ姉は溌溂とした性格だが、昔はかなり大人しく、子供にしては上品な佇まいをしていた。もしかしたら当時の記憶と重ねているのかもしれない。
そんなことを考えていると、カチャリとソーサーにカップを置く音がした。その音で我に返り前を向くと、不意に彼女と目があう。その引力に吸い込まれそうだった。
「あなたの名前、四尾連楸というのね」
「ああ、そうだが。クラスメイトなんだから、聞き覚えくらいはあるだろ」
「いえ」
そう話した彼女は、また何かを考えるように黙ってしまった。
何秒、何分と時が過ぎていく。
崇高で畏敬の念すら感じる彼女は、何時間でも見ていられた。それだけで精神がデトックスされていくような、そんな気がした。
そしてそれは同時に、俺と彼女の対等性を失っていくようだった。大きな光に怯えるちっぽけな影は、その一方で憧れを抱いている。その性質の違いやポジションの差に絶望し、打ちひしがれる。彼女の個や内面はほんの少しも知らないのに、対面した者をそうさせる「何か」を持っていることを理解している。それは知性や容姿みたいにわかりやすいものではなく、威厳のような形而上の「何か」である。
だからこそ、昨日の光景が脳裏に焼き付いて離れない。彼女が哀願したときの表情は必死そのもので、その顔は俺を今もざわつかせていた。
俺はもう一度、どうにか威風堂々としたこの仮面をはぎ取り、年相応の弱弱しくも愛らしいあの顔にさせたいし、させられるとさえ思っている。それは確かに、彼女への歪んだ愛情だった。
とはいえ今、俺はただ「マテ」を命じられた犬でしかないので、ストローを咥えたりお絞りで手を拭いたりして、その時を待つことしかできなかった。




