一、夢
不定期連載していきます。
良ければお読みいただけると幸いです。
白い海の中にいた。
自分以外の存在は何一つない。自分と海の境界線もない。
そこは居心地がよかった。体にまとわりつくような白の感触は、心を温めてくれるし、口に入れるとホイップ・クリームのように甘い。自分だけの世界はいつだって味方だった。
ここにいることは幸せに直結する。白い海は、一番簡単に手に入れられる幸せだった。自分以外何一つない世界には、不足感も不安感もない。そんなことを考えていると、つい先ほどまであった触覚や味覚さえなくなってきた。
白い海と一つになるんだろう、そう思った。
しかしそうはいかなかった。
ズドン、と雷が近くに落ちた。するとすぐに、今までゆったりとしていた波が大きくなり、海流ができた。ハンドミキサーでかき混ぜられるように白い海は泡立ち、そこかしこに渦ができた。体だったものは波に弄ばれ、流されていく。
人生というものは概ね自分の思う通りにはならないものだ。しかし、そう思うには些か幼かった。
僕は大声で泣きながら、もがくように手足をばたつかせた。
気が付くとそこは、変わり果てていた。白一面の海は、黒色に半分浸食され、綺麗なマーブル模様になっていた。
白は変わらず、温かかった。しかし黒を見れば寒気がしたし、苦い味がした。どうしてこうなってしまったのか分からなかった。一つだけわかることは、黒い海は悪意に満ちているし、白い海よりもずっと鮮明だということだけだ。
黒い海を遠ざけようと、手でかき分けた。それでも白と黒は混ざる気配もなく、細かく入り乱れた。
それでも手を動かし続けた。
不意に痛みを感じた。
剃刀の刃が腕に刺さっていた。
それは目にも、口の中にも。両刃の剃刀は、引き離そうとするその指にも傷をつけた。
痛みに悶えている間に、白い海は消えていた。黒い海と刃だけがあった。
傷ついた体からは黒い霧が漏れ出ていた。
それは黒い海と混ざり、溶け込み、いつしか消えていく。
「時間だよ! ひさぎ君! 時間だよ! ひさぎ君!」
気が付くとベッドの上だった。腕を確認しても傷は無く、代わりにびっしょりと汗をかいている。
嫌な夢を見ていた。五感全てがリアルで、今でも最初から最後まで思い出せる夢。決していい夢ではなかったが、心は妙に落ち着いていた。
新しい環境にまだ慣れていないせいだろう、そう思うことにした。
古ぼけた目覚まし時計は、六時二十分を示していた。この時計は小学生の時に、親にせがんで始めた通信教育の付録だ。アラームをセットしておくと、「セル太」の声で「時間だよ!ひさぎ君!」と伝えてくれる。今思うと自分の名前を呼んでくれるなんて、結構手の込んだ付録だ。当時はこれをもらうために毎月テストやテキストに勤しんでいた。いつしか、届いた日からやらなくなってしまったが。
俺はすぐにスイッチを押して、甲高い声を黙らせた。
シャワーを浴び、制服に袖をを通した。タオルを頭にかぶったまま、すぐにキッチンに向かう。
朝食作りはもうすっかりルーチンとなっていた。
まずフライパンに油を引き、コンロを点火する。そしてトースターへパンを入れる。フライパンが温まったのを確認し、卵とソーセージを焼く。焼きあがるまでに少々時間があるので、電気ケトルのスイッチを押し、皿を用意する。その皿に昨日千切りしておいたキャベツをのせた。
あとは盛り付けるだけ、というところでリビングのドアが開いた。
「おはよー。えー、今日もパンとウインナー?」
声の主はキッチンをのぞき込むなり、愚痴を漏らした。
「最近毎日それじゃーん。お姉ちゃんいい加減飽きちゃった。新生活なんだから新しい朝ごはんに挑戦しようよ」
「じゃあ明日からごはん炊くわ。それと鮭焼いて、豆腐の味噌汁とか。そういうのにするか」
うんうんと頷きながら彼女はにっこりと笑う。
「卵焼きも追加で!」
食卓にコーヒーとワンプレートを置くと同時に、彼女は椅子に座った。僕も同じように座る。
「あのさ」
「ん、どした?」
トーストにマーガリンを塗りながら、目をこちらに向ける。
「なんでもない」
「そっか。はい、これ」
彼女はマーガリンとバター・ナイフを手渡してきた。
見た夢を話すことは、家では小さいころから義務付けられている。
それは父が死んだ次の日から始まった。彼女はにやにやしたり、時に母のような微笑みながら俺の夢を聞いた。内容について質問をすることはあったが、感想や意見を言うことは一度もない。
多分、フロイトやユングの真似事だったのだろう。三日坊主の彼女が提案したことだ、すぐに飽きるのだろうと思っていた。しかしいつしかそれは家の文化となり、個性となった。
それでも、今朝見た夢を彼女には話さなかった。
俺は食事を終えると、使った皿やマグ・カップを流し台に持っていった。
スポンジに洗剤をたらし、一つ一つ磨く。この時間は、何もかもが無垢の存在に戻っていくようで気持ちがいい。
「これもよろしくね」
彼女は自分の使った食器をぞんざいな手つきで置いた。文句の一つでも言おうしたが、すぐに「行ってきます!」という声とともに、ドアがバタンと大きな音を立てた。
ふう、と一つため息をつく。
「学校、行くか」