2月 8ヶ月 その2
そしてなんとなく中庭から足が遠のいていた、ある日のことです。
久しぶりに外出許可は出たのですが行く当てもなく、研究棟の中にある比較的迷路にはなっていない大きな道を徘徊していました。
何故だかこの日は、無性に胸が疼きました。
何かが起こりそうな、居ても立ってもいられない予感。
いえ、感覚。
「……あ」
そんな私の目に、紫色が飛び込んできました。
産屋の座敷童ことれーさんの色です。
その紫色から生える小さな手足、切りそろえられた黒髪。
「待って……」
思わず、追いかけていました。
私の声が聞こえたのでしょうか、それとも追いかけられたからでしょうか。
れーさんは走って逃げます。
私はなるべく走らないよう、ゆっくり追いかけます。
一歩一歩進むたび、胸の疼きは大きくなります。
研究棟の扉を抜け、久しぶりの中庭へ――
「わ、あ……」
先に刺激されたのは視覚でしょうか、それとも嗅覚でしょうか。
そこに、疼きの原因はありました。
白です。
真っ白な梅の花が、庭の一角で見事に咲き誇っていました。
荒れ果てた庭の中、視線も心も奪われるような鮮やかな白い花。
嗅いでいるだけで重苦しい心の平穏が消えていくような魅惑的な香り。
あの日、初めて会った日に聖良さんが説明してくださった梅の花が、今まさに満開に咲き誇っていたのです。
私はれーさんを追いかけるのも忘れ、立ち尽くしていました。
いいえ、動けませんでした。
間近で感じた梅の香りに心をぐらぐらと揺さぶられ。
――初めて会ったあの日、聖良さんが話していたのはこの花のことでした。
聖良さんは、この花を見せてくれようとしたのです。
なのに、肝心の聖良さんがここにはいません。
「せーらさん……一体、どこにいるのでしょう……」
どうして一緒にこの花を見て、香りを感じることができないのでしょう。
はらり。
香りは感情を刺激し、そのまま涙腺にも攻撃を仕掛けたようです。
知らぬ間に、瞳から涙があふれて止まりませんでした。
すっ。
その時、私の隣で気配がしました。
つい先程まで、私が追いかけていた紫色……れーさん。
彼女が不思議そうに私を見上げていました。
たっぷりとした量の前髪から覗く、大きな瞳。
座敷童に似た、と感じたれーさんは、近づいてよく見れば童女のような、同じ年の少女のような、そして年上の女性のような、それら全てを併せ持つ不思議な印象を受けました。
艶やかな黒髪のおかっぱ頭が彼女をより幼く見せてはいるのですが……
「……あ」
その時、以前現ちゃんから言われた言葉が脳裏に浮かびました。
(気づいてた? れーちゃんの髪形)
あの日と同じ、切りそろえられた前髪と肩までの後ろ髪。
「あ……あ、れ?」
私の頭の、厚くかけられていたヴェールの隙間から。
ふいに、僅かな光明が通ったのが感じられました。
「れーさん!」
声をかけた瞬間、れーさんは驚いた様子で走り出しました。
それを、私は追いかけます。
先程のように、なんとなくの追跡ではありません。
はっきりした意志を持った、真剣な追跡。
れーさんは研究棟の中に入り、見たことのない角を何度も曲がります。
見た事のない道の突き当りの扉を開けると――
「どうしたの? 散髪はまだ必要ないわよね?」
そこには、セーラーブルーの入院着を着た聖良さんがいました。
いつもきっちりと結んでいる長い黒髪をはらりと垂らしていて。
そしてベッドの上に腰を掛けた彼女のお腹は、はっきりその内部に何がいるのか分かるほど大きくなっていました。
「……!」
その視線がこちらに向いた瞬間、聖良さんが固まるのが分かりました。
そんな彼女に、れーさんが飛びついて抱き着きました。
抱き着く直前、れーさんの視線がこちらを向いたように感じました。
まるで、笑っているかのように。
現ちゃんに子供の場所を教えてくれた時と同じ視線でした。
「むー、さん」
「せ……聖良さん」
何故だかいつもの名前で呼ぶのは躊躇われ、つい本名で声をかけてしまいました。
その瞬間、聖良さんははっとしたように一瞬俯き、ついでに困ったように笑ってみせたので。
――失敗した、と思いました。
何故そう思ったのかは全く分からなかったのですが。
「――どうして、ここに?」
「れーさんです」
首を傾げて見せる聖良さんに、ゆっくりと説明しました。
「一番最初に気が付いたのは、現ちゃんでした。れーさんの髪形。綺麗に切り揃ったおかっぱ。あれは、誰かが常に整えてあげないといけないものでしたから」
最後に会った時から数カ月たった今も、れーちゃんは全く同じ髪形。
だから、私でも気が付きました。
「誰かが切っているなら……受胎者の生活を管理していた、聖良さんなのではないかと思ったのです」
だから、れーさんを追い掛けました。
もしかしたら聖良さんに会えるかもしれないと、思って。
会って、そしてどうするかは考えていなかったのですが……
そんな私の困惑に気が付いたのか、聖良さんは切り出しました。
「彼女の事、黙っててごめんなさい。いい具合に利用されるのは避けたかったの」
「……」
「――お茶でも、飲む?」




