6月1日 マイナス26日その2
「……ん!」
家に戻り鏡を覗き込むと、えいやっと髪に櫛を入れます。
無駄に長いうえにもさもさと跳ね上がったくせっ毛は、そのふわりとした見た目に油断していると櫛を奪われそうな程の傍若無人っぷりを発揮してくれます。
「んん~っ」
この髪のおかげで、何度遅刻の常習犯となってしまったことでしょう。
いえ、本当は髪のせいだけではないのですが……
鏡の中の自分の顔を睨みつけてみます。
見返してくるのは、やや緊張感の欠いた大きな瞳。
これでも一生懸命焦っているのですが、こちらの持って生まれた顔立ちのせいでのんびり、おっとり、のほほんという周囲の評価から逃れられたことがないのです。
平時なら時折は可愛いというありがたい評価をいただけることもあるのですが、このご時世、大概は真面目にやれとお叱りの対象となってしまう、この顔。
いいえ、そんなことよりも時間時間。
あとの支度はもうできています。
身辺の準備は必要ないそうなので、あらかじめ配られていたレポートが突っ込まれているだけの鞄。
――配布されてから一度も開かずそのまま置いてあるだけなのですが。
何しろ、これが最後とばかりに本を読むのに忙しくてお勉強は後回し後回しで。
通常、『産屋』に入るためにはある程度のお勉強が必要らしいのですが、私は幸いにしてある『特技』のおかげでそこはスルー、むしろ歓迎されて迎えられることになったのでその行幸にあぐらをかきまくってしまった結果がこちらとなっております。
「あ……!」
誰にともなく自慢しながらなんとか集合地点についてみて、絶句しました。
「ありません!」
用意されていた、ライドがありません。
右を見ても左を見ても。
下を見ると、僅かに道路の先へと延びる轍が見つかりました。
「……ひょっとして、置いていかれました?」
間違いありません。
気が付けば集合時刻を大幅に過ぎています。
最後のお片付けをしていたら、ついつい本に手が伸びてしまい。
――あとは、お分かりいただけますでしょうか?
あぁ……またやってしまいました。
このご時世、電気を利用して動くライドなどめったに乗れるものではないので実は密かに楽しみにしておりましたのに……いえいえ。
「……うん、よし」
気持ちを切り替えると、早々に歩き始めました。
轍が向かう方向に。
歩いていけば、きっとたどり着けるでしょう。
ゆるーく心の中にヴェールを張り巡らせ、募る今後の不安を覆い隠しながら。
昔から、嫌そうな事から目だけ逸らして進むのは得意なのです。
幸いなことに、今日は良いお天気。
気持ちの良い青空が広がり、木々の隙間から温かい太陽が射し込んできます。
その明るさ温かさが優しくて、今から『産屋』に向かい、受胎する私の――そして世界の前途を祝してくださっているようでなんだか心が浮き立ちます。
「私にも……『愛』を感じることができるのでしょうか」
見上げながら、ぽつりとつぶやきました。
すべてに光を注ぐこのお日様のように。
そう、『愛』なのです。
すべては『愛』から始まり、そして終ってゆくのです。
その終焉を留めるのもやはり『愛』しかないのです。