6月1日 マイナス26日その1
世界から愛が消えたら、子供が産まれなくなってしまいました。
だから、私が産むことにしました。
子供を、愛を――
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『愛しき我が妻よ、然るならば、我は一日に千五百の産屋を立てることにしよう』
(愛しい私の妻よ あなたがそのように人を殺すなら、私は1日に1500の子供を産むことにしよう)
――古事記 千引岩 伊耶那岐の台詞より
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『10月12日 U―2保育シップに異常発生。
新生児含む個体12、死亡。
原因は手動の操作ミスによる保育器内圧の急激な変化の可能性大。
新生児自体の生存能力にも疑問有り。
尚、今回の1件で、特殊被検体1号の全面的な協力を得られることになった。
早急に体調を調正し、新たな受胎実験へ進む』
(NAGIレポートより)
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(私は、産まなければいけません――)
ぱさり。
乾いた音とともに、顔から本が落ちました。
「ふあ」
顔に直接当たるまぶしい日差しに顔を顰めながら、半覚醒のまま丁寧に本を元に戻そうとして。
「――あ」
そして、思い出しました。
「あ、私――やらかしてしまいました!?」
今日は、『産屋』へ出発する日ではないですか!
だから昨晩は、これが最後の思い出作りとばかりに図書館に籠っていたのです。
そして私は夢のような読書の時間を堪能し、そのまま眠ってしまった、みたいなのです。
つまり、お寝坊の上の大遅刻。
いえ、まだ未遂!
「夢ねーさん、今日はもう帰るの?」
「むしろ帰ってなかったのです! 行かなきゃいけないのです!」
図書館の番をしているアキちゃんに慌てて告げてから、これが今生の別れとなる可能性に気づいて改めて挨拶をしなおします。
「ええと、だから…… どうかすえながく、お元気で!」
「はーい」
こちらのテンションに比べ、軽い調子でぱたぱたと手を振るアキちゃん。
アキちゃんももう8歳。
この世界では最年少の存在ではありますが、あと2年で立派な大人です。
私が『産屋』で子供を産み落とすまでに何年かかるかは分かりませんが、その間にアキちゃんは、この小さなコミュニティだけではなくて、外にも出ていかなければいけなくなるでしょう。
保育卵に入っていた頃から知っている間柄なので、多少寂しい気もしますが……
そんな感傷に浸ってはいられないほど、事態は切迫していました。
何故ならばあと1時間で出発の刻限なのです。
それでも、大切な本は傷付けないよう丁寧に元に戻します。
丁寧に作られた木の本棚。
この図書館は古い家を改装したものです。
図書館だけでなく、この周囲一体の家並みは全て、古い家を丁寧に丁寧に直して使ってきたものばかり。
中でもこの図書館はより年代もので、そして世界でも類を見ないほど書物が充実しているのです。
その数、なんと80冊!
どうです、驚きの数でしょう?
かつては数多に存在した電子上のデータというものがある時すべて消え、僅かに残っていた現物の本が人類に残された唯一の書物となりました。
それらは主に、その存在自体が貴重とされそのままの形で残された本ばかり。
はるか昔、和紙に墨で書かれた恋物語。
死後有名になった作者の初版本。
人気作家直筆のサイン入り戯曲。
それらは、今でも大切に大切に残され、読み継がれていくことになったのです。
そんな本……私の大切な、お友達。
『産屋』に入ればもうほとんど読む機会もなくなってしまうでしょう。
――それでも、私はこの道を選んだのです。
ある、目的のために。
さようならとそっと本の背を撫でて、図書館を飛び出しました。