利益と恋と (ジャンside)
「結婚しよう」
長年家に仕えてくれている四つ年上の侍女に、子どもの頃からオレはずっとそう言い続けていたが、
「結婚? そんな事、無理ですよ」
そういつも笑って流され続けていた。
オレなりに誠実に振舞ったつもりだし十五を過ぎてからは父に幾度も真剣に掛け合ったが、誰も、そう彼女自身ですら
「身分が違い過ぎますから」
と、本気で取り合ってはくれなかった。
何も出来ぬまま時が過ぎ、オレが十七になった時、美人で気立てが良かった彼女に良い見合い話が舞い込んだ。
彼女の事を本当に愛していたから、その話を聞いた時には苦しくて苦しくて仕方がなかった。
駆け落ちも考えた。
しかし子爵という後ろ盾を無くしてしまえば、オレはまだまだ世間知らずで何の甲斐性も無いただの若造で、彼女に何がしてやれるとも思えなかった。
だから……。
彼女の事を思った結果、静かに身を引いた。
自分が父の跡を継ぐことを放棄すれば、いずれこの領地は黒い噂の絶えない叔父が継ぐことになる。
貧しいが善良な人々が暮らすこの領地を、そんな叔父に渡すような真似もオレには出来なかった。
「おめでとう」
色んな思いを呑み込んで、たった一言そう彼女に告げれば、彼女は
「ありがとうございます」
そう目元を微かに潤ませ最後に綺麗に綺麗に微笑んだ。
あの時自分が身を引いたのは正しかったのか、それともそれは不誠実な事だったのか。
その答えは大人になった今でも分からないままだ。
しかし、その時から
『彼女の事を思って』
『領民の為に』
そう言い訳しつつも、結局オレは愛ではなく利で動くような意気地のない人間だったのかと、オレはずっとオレを許せないでいた。
侍女と別れた後、父の跡を継ぐまでの間、領地を離れ王都で騎士の任についた。
そしてそこでは、
「たかが子爵のクセに」
と軽んじられる場面が少なくなかった。
身分が高すぎるからと、最愛の人を諦めた自分にとって皮肉もいいところだった。
しかし、それも貴族の息子だと心の奥でどこか腑抜けていた自分に見合った罰のように思えて、特にそれに逆らうような気骨を見せることもせず、そうやってヘラヘラ笑って境遇に甘んじていたら、何を言われても逆らわないヤツだと思われたのだろう。
騎士団の退団を目前に、きな臭い命を受けた。
王太子の元婚約者を乗せた『馬車』の護衛。
決して元婚約者の護衛でない所がミソで、その道中で見た事は口外せぬようにとのお達しだった。
嫌な役回り故、破格の褒賞も約束されていた。
華やかな仕事だけが騎士の任務ではない。
国家の影を担う汚れ仕事も、騎士の仕事の内だ。
そう割り切ったはずだったのに……。
諦観を浮かべるエリーズのあどけない瞳を見た瞬間、思わず体が動いた。
彼女を助けた事で、今度は自分が消される可能性は決して低いとも思えなかった。
それでも、
「オレは利益じゃ動かねぇ」
思わず言い放ったその言葉に、久しぶりにかつての真っすぐだった自分を取り戻せたような、そんな胸がすく思いがした。
結局、侯爵家が上手く手を回してくれたのだろう。
その後再び彼女に追手が差し向けられることも、オレが消されることもなく、オレが騎士団を去るだけで事なきを得た。
少しして、元侯爵令嬢に田舎の修道院暮らしはさぞ辛かろうと思って様子を見に行けば、驚くことに、彼女は実に楽しそうに孤児の子ども達の面倒を見ていた。
そして会う度、かつての純粋だった自分の様に
「結婚してください!」
そんな馬鹿げた事を言って来る。
エリーズを見ていると、胸の奥の新芽のように柔らかだった場所が鈍く痛む。
かつて報われなかった自分の代わりに、彼女の想いに報いてやりたい気もしないでもなかった。
しかしその見目が美しいだけでなく、想像していた以上にエリーズは優秀だったから、いずれそう遠くないうちに、中央から迎えが必ず来るのであろうことが容易に想像出来てしまった。
だから
「結婚? あー、無理だな」
偏に彼女の事だけを思って、彼女の言葉をオレは鋼鉄の心を持って受け流した。
エリーズがここに来て三か月が経った頃の事だった。
エリーズにリュシアン様の元に戻ると言われ、
「道中気を付けて」
そう笑って眩しく彼女を見送った。
彼女を送り出した後で、ようやくあの時の侍女の気持ちが分かった気がした。
オレはずっと
『あの時自分が身を引いたのは正しかったのか、それともそれは不誠実な事だったのか』
そう、侍女の目に最後自分がどう映っていたのかばかりを考えていた。
しかし、相手の為にならぬからとその温かい言葉を必死に諦めるよう自分に言い聞かせてきた側としては、相手が幸せになってくれればただそれで、それだけで十分だったようだ。
改めて、自分がいかにガキだったかを思い知らされて恥ずかしくなる。
しかしまぁ、これで自分の事しか考えられない子どもだった自分の恋が終わったように、エリーズの中にあるオレへの思いも終わるだろう。
少しセンチメンタルな気分に浸りながら、そう考えたオレは甘かった。
離れてなお、彼女からは毎日オレ宛の手紙が届いた。
いや、正式には毎日ではない。
こんな田舎に王都からの郵便が毎日届くはずなんてない。
王都からの郵便が届くのは週に一度。
それ故、七通から九通程度の封筒が一度にオレの元に毎週届くのだ。
こちらで三か月暮らした彼女もこうした郵便事情はよく分かっているはずだ。
だから手紙はせめて週に一度出すだけで十分間に合う事を彼女は知っている筈なのだが……。
そんな郵便事情などお構いなしに、彼女は毎日オレ宛の手紙を書いているのだろう。
いや、一週間は七日しかないのに、手紙が九通以上来ているのだから、毎日以上か。
筆まめというか、何というか……。
エリーズらしいとでも言えばいいのだろうか?
エリーズからの分厚い封筒を見た配達人は
「どんな大掛かりな事業の嘆願書なんですか?」
と慄いていた。
開いた手紙を遠くから見た者は、向こうでの様子と、こちらの生活を気遣う内容がビッチリ書かれた文面に
「呪いの手紙ですか?」
と怯えていた。
手紙には子ども達への菓子やら何やらも沢山添えてあって、それを毎回運んでくれる者は
「愛が重い!!」
と漏らしていた。
そしてエリーズからの手紙は
『結婚してください!』
いつもその言葉で締めくくられていた。
その最後の一文に力なく独り言ちる。
「それは無理だ……」
罪を許された今、エリーズはもはやたかが子爵のオレには手の届かない人となってしまった。
結婚どころか、最早気楽に話しかける事さえ今は叶うまい。
こんなことなら、王都などに行かせなければよかった。
彼女が世間知らずな事につけ込んで、王太子妃になる為に必要な純潔を奪ってしまえばよかった。
気を緩めるとそんな汚い思いが沸き上がってしまう。
でも、それと同時に王太子妃となるに相応しい高潔な彼女を守りきり、いるべき場所に帰すことが出来た事をオレは誇りにも感じていた。
そんな事をぼんやり考えていたある日の事だった。
エリーズからの贈り物を受け取りに来た孤児院の子ども達に、エリーズがいつここに戻って来るのか尋ねられた。
「もう、ここには戻ってこない」
思い切ってそう本当の事を告げれば、子ども達が泣き出してしまった。
「どうして? どうして帰ってこないの?? エリーズ、すぐ帰って来るって言ってたよ?」
そう泣きながら詰められて、オレは情けなく眉尻を下げる事しか出来なかった。
「エリーズがここには戻りたくないって言ったの?」
「そうじゃないが……」
「私、エリーズと長い事はなれてて寂しい。エリーズだってきっとそうよ。だから、ジャン様が早く迎えに行ってあげて!」
「オレがエリーズを迎えに?!」
「そうだよ!」
子ども達の言葉に思わず頭を掻いた。
そんな事、考えてもみなかった。
まぁ、思いついたとて、侍女と駆け落ちするのとは訳が違う。
王太子妃候補を攫って逃げるなど土台無理な話だ。
「それは……出来ない。そんな事をしたらここもキミ達の家も無くなってしまう」
前回彼女を庇った時は、侯爵家が上手く裏から手を回したからオレにお咎めはなかったが、今もし彼女を攫って逃げたら、今度こそオレは反逆者だ。
子爵である父にも、ひいてはこの領地にもお咎めが及ばない筈がない。
年端も行かない子どもには残酷な事を言った。
そう思った時だった。
「だからって諦めるの?」
いつもエリーズにくっついていた、六つにもならない女の子マリーが真っすぐオレの目を見据えてそう言った。
「エリーズなら諦めないよ!」
「そうだよ、エリーズなら絶対諦めない!」
マリーの声を受けて、子ども達が口々にそう騒ぎ始める。
若いって、向こう見ず過ぎて世間知らず過ぎて、後から思えば黒歴史だって穴が有ったら入りたくなるくらい恥ずかしくなるのだけれど……。
やっぱり眩しいなと、そう思った。
そして自分はいつの間にか年を取り過ぎたのだなと、そう思った時だった。
「エリーズはいつも言ってたよ。ジャン様は利益では動かない。でも困った人の為なら誰よりも先に動いてくれるとってもとっても素敵な騎士様だったって!!」
マリーがまた思いもかけず、そんな事を言うから、オレは年甲斐もなく自分の胸が、かつての様にまた熱くなってしまう。
すぐさま飛び出したい気持ちにかられたが、それでもまだ少しの迷いも残っていて、屋敷の者達の顔をゆっくり見渡せば、皆笑顔で頷いてくれた。
目が合った父は家令に言って、あの日エリーズが仕立てに出した上着を持ってこさせた。
かつての父なら決して馬鹿な真似などせぬようにと止めたことだろうに……。
上着を渡してきながら、家令が小さな声で耳打ちする。
「四日後に大規模な夜会が予定されていると、エリーズ様伝手で繋がった伯爵からうかがっております。恐らくそこで何等かの発表があると思われますから、お迎えに向かわれるのであれば急がれたほうがよいかと」
そのまま何の準備もなく厩舎に向かえば、オレの旅支度は侍女達により完全に整えられていた。
オレの知らぬ間に、皆すっかりエリーズに毒されてしまったようだった。
実に頼もしい。




