7話~初対局・銀子と銀将~
銀子が風呂から上がると、銀将と醉象は主人の部屋で、それぞれ異なる装いをしながら彼女のことを待っていた。
銀将は昼から和装でいたらしく、寝間着も箪笥の肥やしになっていた祖母の袷を身につけていた。父の計らいだろう。言動の奥ゆかしさとは裏腹に、吊った目尻や色素の薄い髪、白皙といい、さらには目を見張ってしまうほど凹凸の激しいプロポーション。異邦人のような佇まいの銀将だったが、和服の着こなしは完璧だった。
姿勢が崩れると、非常にだらしなく見えるのが和装である。凛とした見目形と非の打ち所のない作法のおかげで、祖母が着ていたときの記憶よりも、和服に芯が入ったような印象を銀子は受けた。
反対に醉象は、次女である歩実のパジャマを着ていた。巫女衣装を纏っていた以外は、姉たちが残していった洋服を着ていたらしく、夕食のときもTシャツ姿だった。湯上がり後は、結わいていた髪も解き、ストレートロングにしてくつろいでいる。
銀将に比べて醉象は、体の線が可憐であり、和装が似合いそうな風情なのだが、正座している銀将に対して、本人は布団の上で横座りや女座りしたりしている。
まるでクラスメイトとお泊まり会でもしているような雰囲気だった。
「お待たせ。それでお願いって何?」
銀子が髪を拭きながら問い直すと、醉象が少し前へ出て切りだした。
「うん。実はさ、銀将と将棋を指してあげてくれないか」
「醉象さま!?」
「えっ……。しょ、将棋を?」
「銀将はとても謹厳な子でね。息抜きが苦手というか、端から見ていると張り詰めたところがある。銀子から一息つけてあげて欲しいんだよ」
「す、醉象さま……。ありがとうございます!」
「そこは遠慮しないんだっ」
銀将の性質からして醉象のお願いを押しとどめるかと思いきや、瞳を潤ませて感激している様子だった。
……将棋。
本音を言えば困ったところだが、今までになかったくらい軽く捉えている自分がいるのを、銀子は感じていた。
あるいは、ふたりが漂わせている非日常的で異風な趣のせいなのかもしれない。このふたりと将棋を指したところで、銀子の人生に如何ほどの影響があるのだろうか。昨夜に並べた棋譜も同様だった。見たことのない駒と将棋盤。行きずりの対局くらいは、そろそろ気にしないで指せるようにならなければならない。
彼女の中で変化が起き始めていた。
意識的に将棋から遠ざからなくとも、平素でいられるようになりたい。
何も将棋部に入ったり、師匠について本格的にやり直すわけではないのだ。
中学の三年間で取り返しがつかないほど遠ざかってしまっている。
だから、銀子は対局を受け入れた。
「……いいよ。朝倉将棋でなくていいの?」
「はい! 通例の本将棋でお願い致します!」
銀将は躍り上がるくらい喜んで頷いた。どうやら朝倉将棋が得意というわけではないらしい。
部屋に将棋盤は二つあった。ひとつは譲り受けたばかりの朝倉将棋の盤。
もうひとつも祖父の遺品であるが、誰も使ったことがない将棋盤だった。
銀子自身が使っていた将棋盤はすべて捨ててしまっている。
部屋の奥で眠っていた盤を引っ張りだしながら、銀子がつぶやく。
「……いいよね。これくらい」
自ら発したその一言を口の中で噛んでみると、苦い味が胸に広がった。
そして、十五分後。
抜き差しならぬ緊迫の対局――とはならず、銀子は早々(そうそう)に形勢判断を見切っていた。
銀将は弱かった。なんだろう。将棋の幽霊みたいなことを言っていたのに、こんなに弱いなんて。現実ってやっぱり厳しいんだなぁと思いつつ銀子が視線を上げると、銀将は神妙な面持ちで盤面を見つめていた。
どうやら形勢判断もおぼつかない様子である。銀子は居心地の悪ささえ感じていた。
けれど胸がざわつく感覚はそれだけの理由ではない。対局が始まるとすぐに銀子は、なんとも言えない気持ちに襲われていたのだから。
「どうかしましたか、銀子さま」
「あ、いや」
「投了でしょうか。私が見るに銀子さまが投げてしまうには早いように感じるのですが」
「…………」
だめだと銀子は思う。現時点で詰ますまでの筋が見えている銀子にとって、形勢判断ができていない銀将の姿は、絶望的な気持ちになるものだった。
だが、先ほどまで言葉を失っていたのは別の理由からである。
「……棒銀」
対局者には聞こえない声。銀子が咽の奥でつぶやいた。銀将が指した8(はち)四歩。そして7(なな)二銀。それらの手筋を受けたとき、銀子は後悔した。こんな気持ちになるのなら、強硬に拒否しておいた方が良かったのだ。
銀将が用いたのは『棒銀戦法』と呼ばれる戦い方だった。
懐かし過ぎて切なくなる。祖父が生きていたとき、盤を通して何回何十回何百回何千回と向かい合った戦法だ。数多の記憶が、勝手に、否応もなく、溢れ出してくる。
祖父がもっとも愛して、信頼して、多用した戦法が棒銀だったのだ。
対局序盤の内に、飛車を左へ動かすことを、俗に飛車を振ると呼ばれる。だが棒銀戦法は飛車を振らずに、飛車前の歩を前へ進めてゆく。そして、居飛車のまま、歩の後から銀を前へ進めてゆき、歩駒を取られてから、銀で相手の歩を取ってしまう。そのまま銀で突破してゆき、動かさないでおいた飛車を敵陣へ入れて、龍へと成るのが、もっとも原始的な棒銀戦法と呼ばれるものであった。
銀子が角を下げると、銀将は序盤で交換していた持ち駒の銀を打ってきた。それを受けて相手の攻めを切らしてから、銀子が急所に飛車を打ち込むと銀将は小さな声を上げた。
「はぁわ」
「可愛い声だけど、待ったは無し」
まだルールを覚えたての頃、祖父によく言われた台詞が口をついて出てくる。
「むむむ……っ」
王手ではないが、詰みまであと五手というところだろう。
けれど局面を読めていない銀将がどんな手に出るか予想ができない。五手も持たないかもしれないし、逆に意味のない無駄なやりとりをして、終局が遠くなるかもしれない。
大局観があるのなら、劣勢であっても、荒らして混戦に持ち込めるだろう。だが銀将の棋力では無理なのだ。おおよそ見切っていた銀子だが、さりとて気を抜こうとはしなかった。
祖父はいつも言っていた。最後まで油断してはいけない。将棋は勝負なのだから、常に真剣でいなさいというのが、祖父の口癖だった。
勝つまでは一時たりとも気を抜いてはいけないと――
「銀子さま、暫しお時間を頂きます」
「うん」
銀将は脇目も振らず盤へ向かい合っている。絶体絶命の窮地に追い込まれていても、盤面に対して真摯であるのが救いかもしれないと銀子は思った。
そして、そんな銀将もようやく銀子の強さを理解し始めていた。
銀子は強い。自分の力など及びも付かない次元に主人はいるようだ。
致死に至る主君の太刀筋が、銀将には見えない。
それはまさしく気がついたら斬って捨てられているようなものだった。
斬り落とされた首が、自分の体を見上げている。
そうして盤面を見つめていると、脳裏に浮かび上がってくる情景があった。
雪の日に老翁の相手をしていた。
雨と雪が血を流すのを憂いながら、刀を控えた義士と盤を差し向かい――
ラジオ放送が聞こえてくる部屋で、閣下との遊戯に束の間の平穏を感じたことがあった。
自分の仕えた主人たちはいずれも命を賭して戦い、その寸暇に将棋を愛していた。
だが銀子はかような幼い女子でありながら、将棋とはいえ歴戦の勇士たちをしのぐ実力を持っている。隣で対局を見ていた醉象も、これほどまでに才気溢れる銀子が、自分の主人であることに驚いていた。
「そうか。銀子って強いんだね……将棋だけど」
隣から盤上へ視線を落としていた醉象が小さな声で言う。
けれど銀子は、傍目にも分かるほど苦々(にがにが)しい表情で、銀将の次の手を待っていた……。