4話~親友と夏江の部活勧誘~
「はぁ……」
月曜日の昼休み。休み明けの呆けらしく、銀子は窓の外を見て嘆息した。いや入学したばかりであるから、五月病ではなく梅と桜の散華病とでも呼ぶべきか。
三階の教室から銀子が眺めていると、校舎の内庭には植樹された梅や桜の花びらが盛大に散乱していた。生徒たちに踏まれるたび、桜色の大気が濃くなってゆく。
春臭い匂いが、銀子の鼻にまで漂ってくるようだった。
「おーいっ。どうした銀子。恋の溜め息?」
ぼやけた気持ちで思い巡っていると、後ろからぽんっと肩を叩かれた。銀子はブレザーの上下を着ているが、香織は上着を脱いでブラウスとリボン姿である。新入生は、深緑色のブレザーと薄水色のリボンがまだ着慣れない。サマーベストもしくはセーターとカーディガンも入学と同時に用意するが、一年生でそれを着てくるのは少数だった。
「センスが古い。それに恋如きであったら、どれだけ良かったことか」
「え、何。マジで悩みごとなの」
「悩みごとってほどじゃないよ。馬鹿馬鹿し過ぎて真剣に考えられない」
「……もしかして両親のこととか。まさか正式に――」
「それも違うんだけど、とにかく離婚はしないと思う。お父さんのことを気にしてるメールが、お母さんから来てたばかりだし」
「そっか。良かった」
小学生からの付き合いである香織は、倉敷家の険悪な一時期を知っていて、それだけは気を使う。しかし銀子の口調に嘘は感じられなかった。香織の質問をはぐらかすわけでもなく言葉の通り、彼女は言葉にはしにくいことで悩んでいる様子だった。
「悩み続けてると疲れるよ。ここはひとつ、部活見学でもいかが」
だから必要以上に気にすることはやめておき、改めて剣道部への見学を切りだした。
「部活かぁ。こういうとき、竹刀を振ってれば気もまぎれるのかも」
「そうそう! あたしと銀子が入学した以上、二枚看板で快進撃だ。調べたら創立以来、剣道部の全国大会出場はまだ無いんだって」
「全国大会とは豪気ですな」
「夢はおっきく! 文化系が盛んなとこだけど、全国制覇でもすれば学校の歴史に、あたしたちの名前が刻まれるはず」
「そういうのは望んでないけど……。でも、文化系が盛んっていうのは本当なんだ」
「みたいだよ。銀子は先輩に知り合いがいないから知らないと思うけど、中学とは正反対。放課後になると、運動部はちょーっと元気が無い感じ」
「中学じゃ見たことない部活があったね。華道に茶道。運動だと弓道があった」
さらりと将棋部に触れない銀子。香織もあえて触れることはしなかった。
「正直、弓道の袴には惹かれました」
「香織が剣道以外に目がいくとは珍しいね。個人戦は県大二位だったなのに」
「目の前に個人戦ベスト8。団体戦は準優勝者が、部活にも入らずのんびりしてるくらいだからねぇ」
「だから体験入部の期間は色々考えたいんだってば」
「だったらさ、まずは剣道部を見に来なよ」
押しの強い香織と話していると銀子はそれでもいいかなと思った。
銀子が進学した女子高の敷地は高台にあって広さは申し分ない。けれど豊富にある緑が整備されているわけではなく、芝が至る所で伸び放題だった。
正門をくぐり、グラウンドを挟んで向かい側にある校舎までは脇にある歩道を使う。サッカーゴールとテニスラインが引かれているグラウンドは沿って歩くよりも突っ切る方が早いのだが、たいがい朝練などをしている運動部の邪魔になってしまうのでしかたない。
正門の正面から右にあるのが講堂であり、左には地下にプールのある体育館があった。
グラウンドを囲むようにして植えられている梅と桜の木は花が開き、今は風の様子を見ているようだった。そんな風情を眺めていると銀子は、香織と竹刀を振っていた中学時代が無性に恋しくなった。
再び香織とふたりで個人戦の成績を競い合い、団体戦では共に一喜一憂する。小学生だった道場時代、香織は男子よりも強かった。同世代でも頭ひとつ抜きん出た存在で、祖父が師範であるにも関わらず、銀子は彼女と肩を並べることはできなかった。しかし、中学では他に何も考えられないくらい没頭したおかげで香織に追いつき、部活内だけでなく、学年でも評判のライバル兼親友になっていった。
銀子の机に両手をついて、ぴょんぴょん飛び跳ねている香織。しばらく竹刀を握っていないことを銀子は寂しく感じた。目の前の彼女は、とても充実しているようである。汗のしみついた胴着を洗うことは習慣だったが、それもご無沙汰になっていた。
そして、銀子が香織へ、笑顔と共に話しかけようとしたときだった。
香織の後ろから近づいてきたクラスメイトが声をかけてきた。
「こんにちは。倉敷さん、椎名さん。ちょっといいかな」
「あ、うん。何だろ」
香織がくるっと振り向いて反応する。するとそこには、まだ挨拶も満足に交わしたことがないクラスメイトの姿があった。銀子が名前を思い出そうとすると、どことなく人懐っこそうな彼女は、自分から名乗った。
「私、魚住夏江っていうの。椎名さんと倉敷さんだよね」
「うん。こんにちは」
「こんちはー」
銀子と香織が続けて愛想よく答える。入学、新学期。新しい出会い。挨拶ひとつだけで何かが始まるような予感がする。中学時代と同じように会話していた銀子と香織だが、思いがけず話しかけてきた夏江というクラスメイトに、新たな巡り合わせを期待した。
すると夏江の次の台詞は、たしかにふたりだけではありえない言葉だった。
「ねぇ、ふたりとも将棋部に入らない?」
彼女は髪を染めておらず銀子と同じくらいの長さだった。猫ッ毛をアップにして結わいている。前髪は真ん中で分けており、おでこが愛らしく覗いていた。制服を着崩すことなく、スカートの丈も規定の長さで、紺のハイソックスを履いている。銀子や香織と比べると締まったスタイルではないが、決して太っているわけではない。
「ねぇ、ふたりとも将棋部に入らない?」
「しょ、将棋部!? えーっと……、魚住さんは将棋部に入ったんだ?」
ぎょっとした香織が目を大きくしながら聞き返す。
「うん! ここの将棋部は大会でも実績を残してるんだ。それに先輩と後輩の仲も良いんだよ。だから体験じゃなくて決めちゃった」
「そっか。強いんだね将棋部って」
腕を組み目を閉じて、うんうん頷きながら、どこか作ったように香織が相づちを打つ。隣にいる銀子の顔を見ることができなかった。
「部長とね、副部長がすごく強いの。そりゃもうぶっちぎりなんだ。だから今年はきっと創立以来の成績を残せるって、先生たちの間でも評判らしいよ」
「将棋部の顧問はなんていう先生なんだろ」
黙っている銀子の代わりに香織だけが反応して夏江としゃべっている。
「先生になってから今年で二年目らしいけど、しっかりした人みたい。まだ私も挨拶だけだから詳しいことは知らないんだ。先輩たちは厳しくて頼りになる先生って言ってた」
「へぇ。剣道部とは反対だねぇ。顧問はおっとりしてる感じ」
「ふたりともどうかな。文化部の中でも人気の部活だから、ひとりで覗いたら先輩と話せなかったりもするけど、部員が連れて行けば、見学でも先輩とゆっくり話せるよ」
「いや、あのね――」
まずいと察する香織が言葉に窮すると、夏江は嬉々(きき)として銀子へ話を向けた。
「倉敷さんって物静かな人なのかな。もしかして将棋のことそんなに知らない? 心配しないで。私が教えてあげる……! 下手だけどねっ」
善意はいつだってとどまらないものだ。勇気を出して話しかけてみた香織たちが想像よりも気さくで良い感触だった。夏江としては、それだけでピッチは上がってゆく。目の前のクラスメイトとの素晴らしい青春が、将棋部で待っているかもしれないのだ。
「え、あ。いや、あのっ。その」
案の定、銀子の目は泳いでいた。仲良くなるまでに時間がかかる銀子の性格を香織はよく知っている――が、しかし。それだけではない。将棋という、銀子のアキレス腱。人見知りして初対面で黙ってしまう童女みたいになっている。そんな幼なじみの代わりに香織は、夏江へはっきりと告げなければならない。
「ごめんね。私は剣道部に入っちゃったんだ」
「あ。そ、そうなんだ」
「それでね、銀子とは中学が一緒だったんだけど、ふたりでまた剣道やろうって誘ってて。これでも私たち女剣士だったんだよ」
「うっ。もしかして邪魔しちゃった感じ?」
あからさまに肩を落とす夏江に対して、香織も銀子も頭を振って否定した。
「ううん! そんなことないよ。声かけてくれてありがとう」
「あ。ありが、とう」
ようやく口に出せた言葉はたった一言だったが、銀子のお礼に、夏江は笑顔で返した。
「ふふ。気がついたら自己紹介の前に勧誘しちゃったね。私は中等部からの付属組なんだ」
「そうなんだ! 銀子と私は一般組だよ」
「ま、まだ付属組の友達はいなかったから、魚住さんが声をかけてくれて嬉しかった」
ようよう慣れてきた銀子も、素直に夏江へ感謝を述べた。
「こちらこそ。一般入試の友達は初めてだから、これからもよろしくね。でも惜しかった。勧誘失敗かぁ。剣道か、うん。格好いいよね。頑張って! 試合があったら見に行くよ」
「ありがとう。私たちも見に行くよ。団体戦でも個人戦でも。だよね、銀子」
香織がほんの少し踏み込んで言う。観戦くらい行けるようにならないと。
「……うん。応援にいかせてもらうね。団体戦で、その強い部長さんと副部長さんが指すのかな」
思ったよりも前向きな銀子の反応。香織はほっと安堵した。
しかし、そんなふたりの反応に夏江は驚きながらこう答えた。
「あれ? 将棋は指すって言葉を知ってるんだね。それに団体戦があることも。ルールはギリ知ってても、将棋の競技は知らない子がほとんどなのに」
「…………」
どうやら調子は今朝から狂いっぱなしみたいだった。
中学のときはこんなミスしなかったのに。
それもこれも、あのふたりのせいだと銀子は思った。