2話~銀子のご飯・朝倉将棋の盤~
その夜。銀子が作った夕食の献立は菜っ葉のご飯とおみおつけ。卵サラダとトマト、カレイの煮付けだった。大根の身は鰹出汁のみそ汁に入れ、菜っ葉は白米を炊き込んでから混ぜた。そうしないと香りも色も悪くなるのだ。卵サラダはゆで卵をマヨネーズで和え、レタスとゆでた人参と、それから冷やしたトマトを添えただけである。残っていると思っていたじゃがいもを父がお裾分けしてしまっていたせいで、ポテトサラダの出来損ないになってしまった。魚は形の立派なカレイで、父が食べる分だけ刺身で切り分けてから、残りを煮付けたものである。
「銀子が作るとやっぱり美味しいな」
煮付けカレイの身をほじりながら、将門が感想を述べる。
「そんなこと言っても当番の日は増やさないから。今でも私のが多いんだし」
割烹着を外して、後ろ髪を縛った銀子がみそ汁をすすりつつ、きっぱりと答えた。
「いやぁ……そういう意味じゃなくて。良いお嫁さんになりそうだ、みたいな感じで父親の喜びと寂しさを口にしたかったんだよ」
「それって私に彼氏ができたとき、寂しそうに言うことなんじゃないの」
「銀子に彼氏ができたら、こんな風にのほほんとしてられるかなぁ」
「……当番が嫌だったら、お母さんを呼べばいいのに」
「い、いやぁ。それはそれで、またちょっと、色々と」
「ほんっと、お父さんとお母さんって性格が反対だよね」
「だから結婚したんだよ」
「別居してるのは?」
「……性格が反対だから」
「なるほど」
銀子は歳の割に老成しているところがあった。こういう会話をしても、今はとくに寂しくてつらいといった感想ではない。自分の家庭環境には慣れてしまい、父親と母親のことは心配しているけど、どこかで信頼もしていた。それに本当にまずいことになったら、東京で母と同居している長女と次女から連絡があるだろう。
そんなことを考えていると父の将門は思い出したように声を上げた。
「ああ、そうだ。忘れてた」
「なに?」
「銀子に渡すものがあったんだ」
「言っとくけど巫女のバイトは年末年始以外お断り。衣装とか渡されても困る」
「違うって。そうじゃなくて将棋盤だよ」
「しょ、しょうぎ――ばん?」
思わぬところから出てきた将棋盤という言葉。銀子は大いに狼狽えた。
「驚くことじゃないだろう。お蔵の掃除をしていたら出てきたんだ」
「それって、もしかして」
「そう。銀之亮おじいちゃんのだよ」
「おじいちゃんの将棋盤って……。それはもう保管してあるって言ってたじゃない」
「保管してあるのとは別なんだ。銀子が出かけた後、掃除してたら骨董品みたいなのが出ててきてなぁ」
「お父さんは見たことなかったの?」
「子供の頃に何度か見せてもらったことがあった。でも今の銀子くらいの歳だったから、はっきりした記憶じゃないんだよ」
「それじゃ、お父さんがもらえばいいじゃん。どうして私に――」
「おいおい。おじいちゃんの将棋盤だよ。銀子以外の誰に受け継がれるっていうんだ」
「…………」
「これで将棋を指せってことじゃない。高校生になったんだから好きなことをやればいい。銀子にとっては、おじいちゃんの遺品が増えるだけだよ」
「……分かった」
「よし。ご飯を食べ終わったら銀子の部屋に持っていこう。部屋が散らかってても、着替え中で下着姿だったとしても、気にせず父を中に入れるように」
「私はお父さんと違って読みっぱなしの本とか脱ぎっぱなしの服とか、整理しようとして挫折してる机や棚なんてないから」
「おいおい。当てずっぽうでそんなこと言うのは感心しないぞパパ」
「誰が下着を洗ってると思ってるの。もし忘れてるんだったら、明日からは自分の分だけにさせてもらうけど」
「すみません」
「よろしい」
食事を食べ終わった将門はそそくさと部屋へ戻っていった。
それからパジャマ姿に着替え、夜半の折りのことである。
自分の部屋の真ん中で、銀子は将棋盤と向かい合って座っていた。
「……なるほど。どおりで私はこの盤を知らなかったわけだ」
祖父の持っている盤だというのに銀子が与り知らぬ理由はすぐに判明した。
夕食後に父が持ってきた将棋盤は、現代で日常的に指されている本将棋ではない盤だった。『醉』と書かれた見慣れない駒が並んでいる。銀子はそれを見て、どういうものかすぐに理解できた。
もっとも多い呼ばれ方で『小将棋』という。銀子が地元の将棋教室に通っていたとき、何回か余談で耳にしたことのある呼び名が『朝倉将棋』だった。
「これが棋譜なんだ」
父が持ってきた盤には駒一式と、さらには古文書のような棋譜までが丁寧に袱紗で包まれて付いていた。本将棋用ではないから、祖父も銀子には見せる必要がなかったのだろう。名局とは問わず自分が知っている戦法や戦略、持っていた棋譜を漏れなく教えてくれた祖父が唯一、自分には見せてくれていない棋譜だった。
「ちょっと不思議だな」
あれだけ自分には何でも見せてくれていた祖父なのに。亡くなって三年以上経った今、胸に広がるのは疑問や疑念だった。今さら自分の知らなかった祖父の一面が見つかるなんて、銀子はちょっとだけ寂しかった。
祖父がアンティークとして将棋の盤や駒を集めているなんて聞いたことがない。目の前にある盤と駒が果たして美術品としての価値があるのかどうか分からないけれど、ほとんど陽の目を見なかったというのは事実である。
何も教えてくれていなかった祖父に対して銀子は水くさいように感じた。死んだ祖父にとってどういう盤だったのか、そんなことすら分からない。解いた袱紗を包み直して棚の奥へと押し込めてやりたい気持ちにもなったが、銀子はそうせず、盤上に駒を並べてから棋譜を読み始めていった。
パチリと彼女の部屋に駒を指す音が響く。
何年振りだろうか。久しぶりの感覚に銀子が心ならずも苦笑した。
「はは……っ。まさかこんな風にあっさり将棋を指すことになるなんて」
それはきっと、これが本将棋ではなかったからだろう。
いくら指そうが、過去を思い出させる局面を、朝倉将棋は再現しない。
いくら長考しても、この盤が銀子にとって未来への道筋を示すことはないのだ。
けれど駒を指すたびに全身へ柔らかい針が刺さるような、研ぎ澄まされた圧迫感がざわめいているようで、胸が苦しかった。
すり減った爪に駒の跡が消えなかった昔なら絶対に無いことだったが、駒を動かすたびに空々(くうくう)漠々(ばくばく)たる日々が、銀子へ現実を突きつけてくる。自分の指からするりと駒が滑り落ちてしまいそうな、虚ろな感触が切なかった。
そうして自分の堕落を感じたとき、銀子は昼間に聞いた友人の言葉を思い出した。
「『剣の道も一日にして不成』だよ、香織」
それはたったひとつの助詞と日常的ではない漢字を用いただけの変化である。けれど格言は、剣道を指して言った言葉ではないのだ。そこのところを忘れていては、祖父の一番弟子の座は譲れないと思った。
夜が更ける。色々と思い出しそうで銀子は恐る恐る眠った。が結局、夢は見なかった。
十五年という人生の内、三年という月日は短くもあり長くもあるようだった。
思いも寄らぬ夢を見ることもあれば、予感がただの気のせいで色あせたりする。
久しぶりに棋譜を並べた将棋は途中で辞めてしまった。醉象という見慣れぬ駒の動きは棋譜を見て理解できたが、過去にも未来にも繋がっていない将棋を、最後まで指す気にはならなかった。
やめよう。もう指さないと決めた将棋なのだ。
失望は、銀子から夢見ることすら奪ってしまったよう。
気怠くてしかたなかった。まだ四月だというのに翌朝、目が覚めるとパジャマの下にうっすら汗をかいていた。三春を過ぎたとはいえ、朝はまだ肌寒い。ゆえにこの不快な熱は、昨日の夜に指した将棋のせいだと彼女は思った。
散り散りになってしまった自分の夢。そこからまだ抜け出せない自分の意識を並べ直して、彼女は眼をこする。のっそりと起き出して顔を洗い、新しい制服に袖を通せば気分は元に戻るはずだ。そう信じてバサッと掛け布団を払いのけた。
ああ、なんて暑苦しかったのだろう。
だが、それもそのはずだった。
「――えっ」
なぜなら布団の中を見ると、そこには自分と同じ歳くらいの少女が、ふたりも眠っていたのである。