26話~裸で語るこころざし ~
夕食の後片付けを済まし、今日も三人で風呂に入った。銀子が足を伸ばして浸かっていると、銀将はひとり哀しそうに桶で汲んだ湯をかけていた。前線兵士の意気消沈した振る舞いに困惑する主人が参謀へ声をかける。
「銀将って思ってたよりも喜怒哀楽が激しいよね」
「九人の中でイチバン素直なんだよ」
祖父から受け継いだ朝倉将棋の盤には歩兵、桂馬、香車、飛車、角行、金将、銀将、醉象、玉将の九つの駒がついていた。本当に駒の数だけ、ふたりのような境遇で甦った人間がいるのだろうか。見てみなければ判然としないが、ふたりの臣下は決して、自分へ嘘をつかないのだと主人は確信する。
「そろそろ元気を出しなさい。惜しかったじゃん。魚住さんの実力はずっと上だよ。そんな相手に食い下がれたのは、すっごく集中できてたってことだと思う。それなのに負けを引きずってたら、次に対局したときボロ負けしちゃうぞ」
負けを引きずっていたらなどと銀子のどの口が言えるのか。だが醉象は突っ込まない。せっかく前向きになれた主人の機嫌を損ねては、勝てる戦も負けてしまう。参謀の理解は早い。
一方で前線の兵はそんなことにもまったく気がつくことはなく、頭を振って答えた。
「しかし……。醉象さまが順当に勝ち、そして銀子さまは会心の勝利を手にしたというのに、私はまた負けてしまいました。これでは私などおらぬ方が良かったかもしれません。銀子さま……、不甲斐なく申し訳ございません」
一気に胸の内を吐き出してゆく。真面目過ぎて融通が利かないことを醉象は知っているので何も言わなかった。こういうとき忠誠心が強過ぎる彼女には何を言っても状況は変わらない。
すると銀子はぴゅっと水鉄砲をかけてから言ったのだ。
「わ、ひゃっ」
「どうだ。驚いたか、この石部金吉め。あ、でも銀将は女の子か」
「ぎ、銀子さま?」
「もう一度言うけど、銀将は実力以上に粘ったよ。だから気にしないの」
「しかし、敗北に変わりはありません。自らの分を理解しているつもりですが、やはり主人に勝利を献上できない悔恨は、今も昔もどんな戦場であろうとも変わらないものです」
「う~ん」
これほど真剣な眼差しに対しては、軽い言葉で励ますこと自体が躊躇わられる。
「……じゃあ話を変えるけど。それじゃあ銀将が嬉しいときって勝った後にしかないの?」
もって回ったような質問。
「嬉しいときでございますか」
「うん。幸せっていうと大げさだけど、つまり銀将はどうなりたいのかなって」
「それはもちろん銀子さまに勝利をもたらすことです」
「そうだよね。だったらさ、私が勝ったときは喜んでくれること。いい?」
「あ……っ、は、はい!」
破顔する彼女の横では、醉象が朗らかな顔をして、長い髪が湯に浸からないよう絞って結わいていた。
ああ。どうやらふたりのことを――
本気で好きになってきてるのかもと銀子は思った。
「あの……銀子さま。貴女さまにとっての志とは何なのでしょうか?」
そして意を決した問いが、またも飛んできた。
「へ。わ、私の?」
「はい。主君の一助となるためには銀子さまの願いを知らなければなりません」
「ボクも教えて欲しいな。そうじゃないと計略を巡らすこともできない」
タオルを腿の間に置いて、湯船の縁に座り、足湯にしている醉象。
「以前は教えて頂けませんでしたが、どうか銀子さまの志をお聞かせ下さい」
まさかお風呂に入りながら言葉にするとは思わなかった。
でも好きになりかけてる相手から、こういう風に聞かれちゃったら……答えないでいることが難しい。
だから、祖父が死んでから初めて、銀子は自分の夢を口にした。
「……棋士になりたい、かな」
「棋士? 棋士とは将棋指しっていうことかい」
「うん」
「あれだけ指せる銀子は、すでに棋士だと思うけど違うのかな」
「違う。今の時代にはね、将棋のプロがあるの」
「ぷろ?」
醉象の発音がまんま幼児である。
「醉象さま。私は世界大戦のおりに舞い戻ったゆえに存じ上げているのですが、プロとは宮廷でなくとも一介の棋士として、将棋を指して暮らしてゆくことができる者なのです」
「へぇ~! そういうのがあるんだね」
「うん。五百万とか六百万人とかの競技人口の中で、たった百五十人くらいしかいない、本当に一握りのトップ棋士なんだけどね」
「途方もなさそうだなぁ」
「うん。それにね……女のプロ棋士ってまだいないんだよ」
「そうなのですか!?」
「そう。私は女流棋士というくくりが好きじゃないの。けど今のところ男の棋士たちへ、女は混ざれないレベルなんだ」
「厳しいんだねぇ」
「もちろん。だってプロは死ぬまで将棋を指して戦い続けなきゃいけないから。私の好きな棋士の言葉でね『私から闘いを取ったら何が残るといえよう。勝負師である限り、命が尽きるまで勝負に明け暮れるのが棋士のさだめだ』というのがあるんだけど。その言葉を初めて知ったとき、子ども心にすごく感動したなぁ」
「命が尽きるまで勝負に明け暮れる……か」
醉象が反芻してつぶやく。
「将棋を指してお金がもらえて、常に上を見ながら勝負し続ける世界。そんな世界で生きてゆくのが私の夢……なのかも」
照れくさそうに語尾を濁して漏らした言葉。
だが、そんな想いの発露は、臣下を発奮させるに充分である。
奮い立つ銀将が拳を握り立ち上がる――全裸で。
「銀子さまっ。私は……っ、私はその志を成すため、貴女さまの一片の駒となりましょう!」
「ボクも。銀子が勝利のため、ひとつの駒となろう」
「醉象さま」
「フフ、それがボクたちの運命であり願いだからね」
「はい!」
時代がかったふたりの言葉に立ち振る舞い。そんな光景を見て、呆れているのにもかかわらず、ついつい頬が上がってしまう銀子であった。
「もう。最初からずっと、そればっかりなんだから……でも、ありがと、ふたりとも」
それから三人で並び、腰湯にして座りながら、醉象が髪をいじられていた。彼女が真ん中に座り、右に銀子、左に銀将が座っている。美しく長い黒髪を両側から結わいていると、醉象は眉をひそめながら言った。
「な、なんか居づらいんだけど」
「気にしないの。醉象の髪って触ってるだけで気持ち良いな」
「銀将は羨ましく思います。私は幼い頃、白髪になってしまいましたから」
「そうなの?」
「姉妹の中でも、銀将は体が弱い方だったからね」
少し切ない思い出話をふたりが語る。
「ですから爺さまが呪術を施してくれたとき、心より感謝をしました。ヒトの名を失い、生きながらえることが卑しくとも、爺さまによって授かったこの命。私は幸せを感じずにはいられなかったのです」
「だからこそボクたちは爺の死ぬ間際まで仕えたんだ」
銀子には計り知れない会話だが、それを邪魔する気にはなれない。ふたりが懐かしんでいる時間を壊したくはない。
両腕を上に伸ばしてから、背筋も伸ばし、銀子はあくびをかみ殺した。
「眠くなっちゃったかな。退屈な話でごめんよ」
「ううん、違うよ。そうじゃなくて……ずっと悩んでいたのが馬鹿みたい。将棋を指してみたらさ、あくびしながら背伸びしてるようで気持ち良いなって」
「気持ち良い、ですか?」
「ふたりと出会うまでの私って、盤面を見つめることができなくなってたんだ。キョロキョロしながら周りをうかがうだけ。目の前にある勝負からずっと逃げてたの」
自分の言葉をふたりが待っている。銀子は気持ちを吐き出すみたいに続けた。
「それで気づいたの。怖かったものが、負けるってことじゃなくて、いつの間にか戦うってことにすり替わってた。銀将が教えてくれた通り。戦わなきゃ負けないなんて嘘だ。戦わなくなってから将棋盤を見るだけで怖くなった。そういうのってみじめでしかたなかったよ」
「銀子さま」
「酷くなってくるとね、今度は見るだけじゃなくて将棋っていう言葉を聞いたり、テレビで羽生さんが……。あ、羽生永世七冠は、プロ棋士のてっぺんにいる人で、私の憧れなの。それなのに気がついたら、偉業を成し遂げたニュースですら聴くのが嫌だったの……」
「一度の敗戦で戦えなくなっちゃうのは、何も銀子だけじゃないさ」
「そうなのかな……そうかもね。でも、それはきっと寂しいことなんだと思う。戦うことができなかった私は……毎日のように負け続けてた。銀将と眺めた夕日みたいに、世界の煌びやかなところだけを見るようにして――目の前にあるはずの――大切なものから、私は逃げて負け続けてたんだよ」
それは『根拠のない挫折』のようなものだった。
自分を縛り続けていた敗北は実のところ、銀将や醉象からすれば本当に負けたわけではなく、見つめるのがつらい現実からただ逃げ出してしまっただけなのだ。
息を吸い直した銀子が改めて頭を下げて言った。
「だから、ありがとう。ふたりとも」
「銀子」
「銀子さま」
「将棋に勝った日の夜が、こんなにも気持ち良かったなんて、すっかり忘れてた。ふたりが思い出させてくれたんだ」
「いやぁ、でも……頭を下げられると困っちゃうな」
「か、顔をお上げくださいませ。私はそのような褒誉に値しない愚兵にございますっ」
嬉しいながらも困惑しているふたりに対して、ひょいっと頭を上げた銀子が告げる。
「ん。そんなこと言われても遅いんだから。実はね、ふたりにプレゼントがあるの」
何のことかと顔を見合わせる臣下に対して、悪戯を仕掛けた子供のように主人がにやりと笑った。




