25話~今日も世界が暮れなずむ ~
帰りの電車の中で、銀将は眠ってしまった。
団体戦の勝敗は二勝一敗。大将と副将戦を勝利したが、三将戦は敗北してしまった。銀子の対局が終わった後も、おおいに健闘した銀将だったが、最終的に詰んでしまう。
初めて将棋の基本を覚えて挑んだ対局。特訓の効果はめざましいほどに発揮されたと言っても過言ではなかったが、やはり地力が違っていた。学生の将棋部とはいえ、現代将棋を少なからず勉強していた夏江の前に、歴戦の勇将は惜敗を喫したのだ。
土曜日であるせいか、電車内に人影は少ない。車両に対して縦に長いロングシートには銀子たちだけが座っており、他には優先席にふたりの老人が座っているだけだった。ひとりは新聞紙を広げており、もうひとりは杖をつきながら眠っているようである。
車窓を流れる風景はいつもと変わらないのに、ぼんやりと眺めていた銀子は、落ちゆく夕陽の足が早いようにも感じていた。いつもだったらのっぺりと日が暮れていくのに、今日だけはひねもす勝負に尽きるといった風情である。まるで世界そのものが、自分たちの勝負を見つめ続け、やがて疲れて、いつしか居眠りし始めたようだった。
一日がこんなにも早く、儚く過ぎてしまうなんて、まるで小さい頃みたいだと銀子は思った。砂場で遊んだ経験は少ないけれど、縁側で祖父と将棋を指していて、さりげない斜陽に気づくことがあった。
それは幼心に切なさを覚える瞬間だった。
想い巡っていると、あたかも夕映えする恵風のような、とても穏やかな声で醉象が話しかけてきた。
「ここ数日は、徹夜で銀将に付き合ったんだ。銀子も寝たらどうだい」
「ううん。もうすぐ駅だから、このまま起きてる」
「そう。ボクが起きてるから気にしないでいいのに……ふわぁ」
「いいの。それより醉象の方が眠そうなんだけど」
「大丈夫、だいじょうぶ。これでも銀子が眠っているときの警護は、おてのもの……」
醉象の語尾が消えゆく。すると銀子を挟み座って寝ていた銀将が、後ろの窓へがんがんと頭を打ちつけた。うつらうつらしながら、何とか目を開けようとしているのだが、意識は寝ているのだろう。三日の間に特訓を受け続けた銀将が、三人の中でもっとも集中力を使い果たし、神経をすり減らしている。対局疲れというのは銀子も経験があったので、とくに起こそうとは思わなかった。
対局した後、縁側でそのまま眠ってしまったとき、おじいちゃんが抱き上げて布団のある部屋まで送ってくれた。それはとても気持ちの良い瞬間だったなぁと思い出す。
するとまたしても後ろの窓へごんごんっと盛大に頭をぶつけている彼女を見て、銀子は我に返った
「しようがないなぁ」
ふらふらしている銀将の頭を自分の肩に寄せて抱くと、彼女は抵抗なく体をあずけてきた。ショートカットの柔らかな銀髪に鼻がむず痒く、くしゃみを我慢していると、ほどなく醉象も寄りかかってきた。
「醉象?」
どうやら彼女もすっかり眠ってしまったらしい。膝上のデニムスカートを穿いているせいで、浅く座ってしまうと裾が捲れてしまう。銀子はそっと伸ばしてやった。対局は圧倒的な勝利でも、この三日間は同じ部屋で寝ていたのだ。自分が寝るのを見届けるため、醉象はいつも遅くまで起きている。そんな彼女のふとした隙を、心地の好い穏やかな入り日影が誘ったのかもしれない。
銀将と同じように、そっと肩に寄せて抱く。
実のところ銀子の方がスキンシップを好きなのは寂しがりの反動だろうか。
「ふわぁ……んんっ」
ふたりに挟まれていると眠気が移ってきそうだったが駅はもうすぐだ。
銀子は眠らないように、今日の対局を噛みしめながら電車に揺られていった。
三人で揃って帰宅すると、父が台所へ立って食事の用意を始めようとしていた。
レシピが貧弱な将門である。頂き物の大根と蕪を目の前に用意して、大根はすり下ろして肉か魚の付け合わせ、蕪はみそ汁にでも入れればよいかと思案しているところであった。豚のばら肉があったが、調理しきれない自分が使うと銀子に怒られるかもしれない。地魚である黒鯛もあったが、これも銀子から一言ありそうだった。
あるものを工夫して作らなければならないと分かっていても、どうしても大雑把な料理になってしまう。苦笑していると銀将と醉象が台所へやってきた。
「遅れて申し訳ありません。御館さまの手伝いへ参りました」
割烹着の後ろを結びながら銀将が参じてくる。
「そうなのかい。手伝ってくれるのはありがたいけど、帰ってきたばかりで疲れてるだろう。休んでいていいよ。完成したら呼びにいくから」
すると醉象が髪をアップにして結わきながら答えた。
「銀子からお願いされたんだ。お父さんの夕食を手伝っておいてって」
「銀子から?」
「はい。夕餉には豚肉を使って良いそうです」
「それは嬉しいな。でも、銀子は何をしているんだい」
「それが帰ってきて荷物を置いた途端、また出かけていった。銀将はついていきたがったんだけど、すぐに帰ってくるから夕飯の支度をお願いって、銀子から言われてね」
「そうなのか。だったら娘の気遣いに甘えようかな。料理するのは得意じゃないから、ふたりに手伝いをお願いしよう」
「あ、あの。ですが御館さま。私もあまり得意では……」
しゅんっとうな垂れる銀将を横に置いて、醉象は苦笑いして言った。
「ボクが献立を決めてゆくから、ふたりは手伝いをお願い」
「は、はい!」
「分かった。スイゾウくんは料理ができるんだねぇ」
「銀子ほどはできませんけどね」
髪をアップにした醉象は、次女の使っていた柄物のエプロンを着ている。長女の割烹着を着た銀将。台所へ立つふたりの姿が、姉たちのようだなと将門は思った。
夕食は白米を炊き、蕪のみそ汁には鰹出汁を使った。豚のばら肉は塩こしょうで炒め、長葱と酒で香りを整えたものである。大根はすり下ろしたものを豚肉の付け合わせに、残りは昆布で浅漬けにした。他に玉葱と茄子があまっていたので、醤油とめんつゆと水溶き片栗粉であんかけ風にしてから、出汁巻き卵を作り、それぞれ好みで豚肉の炒め物か卵焼きのどちらかにかけて食べるようにしたのだった。
「すごいね、お父さん。びっくりした」
予想以上にしっかりした献立が出てきたので、娘はひとつずつ料理を食べてから感想を述べて、父を褒めた。
「お父さんじゃなくてスイゾウくんがね。これからも手伝ってくれるって言ってくれてるから、心強い味方ができたよ」
「申し訳ありません。私、何にもできなくて」
大根と間違えて蕪をすり下ろしてしまった銀将は恥じて途中で辞退し、風呂の支度へ切り替えていた。
「あはは……。それじゃ銀将は私の当番の日に手伝って」
「え。あの、でも。私は本当に煮炊きするといった経験が無く、銀子さまにご迷惑を――」
「だから私の手伝いをしながら料理の勉強をすること」
「銀子さま……!」
わりと簡単に感動して瞳を輝かす銀将だったが、それを見た醉象が複雑な顔をして唸った。
「む……っ。銀子は銀将に優しいよね」
「え、いや。そういうわけでも、ないかなと」
ぎょっとたじろいだ主人が身振り手振りを加えて否定しようとする。
「いいよ、いいよ。銀将は可愛げがあるもんねぇ」
「銀子さま、醉象さま」
おろおろと銀将が動揺する様子を見て、父は銀子に対するふたりのあり方にこっそりと感謝した。




