24話~抱きしめようか!?~
やがて大将戦が終局を迎えたのは午後三時を過ぎた頃である。
銀子も良美も持ち時間を使い果たし、最終局面においては一分指しで、気力を振り絞る戦いへと突入していた。ここまでくると両者の頭の中にある言葉は『絶対に負けたくない。負けられない』
心根に張った底意地の晒し合いだった。
ゆえに、だからなのかもしれない。
良美は持ち時間を使い果たした頃から、薄々(うすうす)と結末を見通していた。
勝負の結果は――銀子による玉詰ませの勝利であった。
銀子と指しているさなか、良美は目の前の一年生の想いをひしひしと感じていた。それゆえ早々に負けましたと宣言するのは止そうと思った。相手は最後まで指し切りたいと願っている。諦めた一手は要らない。力の限りを尽くして欲しいと、この対局にかける並々ならぬ彼女の意気込みを肌で感じていたのだ。
「……強かった。パパの言う通りだったね」
盤上から視線を上げて良美がそう言うと、銀子は彼女の眼を見つめ返して答えた。
「そんなこと、ないです。ホントはわたし……誰よりも、弱いんじゃないかって」
「まさか。パパが絶賛してたんだもん。倉敷さん、すごく強いよ」
敗北した後で平静でいられるわけがない。良美の声はどことなく震えていたが、それでも嬉しそうに銀子へ話しかけ続けた。
「ウチのパパってね、強くないけど、強い子の才能を見抜くのは得意なの。弟子にならないかって誘った倉敷さんがたずねて来なかったこと、すごく残念そうだったよ」
それを聞いてようやく銀子は、小学五年生の大会で優勝したときに誘ってくれたプロ棋士のことを思い出した。そうだ。あのとき誘ってくれた人が、部長先輩のお父さんだったんだ。スカウトされたことを祖父に伝えると非常に喜んでくれた。
だから銀子は祖父と約束した。
中学生になったらプロに弟子入りをする。
そして力をつけたら奨励会へ受験して――
「ご、ごめんなさい。色々あって約束を破っちゃいました」
「うん。その色々は本当にイロイロあったんだなって思う。だってこんなに指せる倉敷さんが言うことだから。少なくとも私にとっては説得力あるよ。心配しないで。パパには私から説明しておくっ」
「ありがとうございま、す……ッ」
そのとき、銀子の頬を滴が伝わってこぼれ落ちた。
「銀子!?」
「銀子ちゃん?!」
香織と良美が続けて声を上げる。
動揺した良美に至っては、思わず苗字ではなくて名前で呼んでしまった。
「あれ。あれれっ」
後から後から、ぽろぽろとこぼれてくる。
目尻を慌てて拭きながら、それでも滴はあふれるようだった。
「あ、あれ……これ、あの、どうして」
「うわぁあああああ、銀子ちゃん、大丈夫!? ハンカチある? 鞄に入ってるから、私の持ってこようか? それとも抱きしめようか!?」
火花を散らして戦っていたはずの良美が、誰よりも狼狽した。香織は驚きつつも、銀子が泣いている理由の半分くらいは見当がついてしまったので、もう何も言わなかった。
良かったね銀子と、どちらかというと微笑ましく感じていたのかしれない。将棋で勝ったり負けたりして泣いたりする銀子の姿を、本当に久しぶりに見ることができたのだから。
そして、泣き虫だなぁとしみじみ見つめていたのは醉象だった。風呂でも泣いていたのに、また泣いている。こんなにも泣きべそをかく主人は初めてだった。最初の内は泣いたりすることと程遠い、ふてぶてしさがあるのかと思っていたが、何のことはない。
どこまでも甘ったれな女の子である。
でも醉象は、そんな銀子のことを愛おしく感じていた。
醉象は勘違いしていたのだ。銀子の受け身な将棋を見て、振り飛車党だと思っていたが、本当は違った。まるで自分をそのままさらけだすような棒銀戦法が、まぎれもない銀子だった。
祖父と戦うときは棒銀を受けて、祖父ではない相手と戦うときには棒銀で攻め、幼いながらも彼女なりに――すべてを詰め込こ)んで――人生を賭けてきた戦術。
しかしながら、それでも余裕のない銀子の手筋だった。なんて初心で純情な将棋だろう。しゃれた妙手も、不意をつく急手も、乱戦・泥沼を誘う奇手もなかった。まっすぐ正面から、ひたすらぶつかってゆく――
あたかも未成熟な銀子そのものに思える将棋だった。
まだ飾ることができず、他人だけでなく自分にすら嘘をつけない銀子の性質。
誰よりも自分に自信がない、妙齢の女の子。
もし本当に才能が煌めくものだったとしたら、醉象の眼には銀子の棒銀が瞬いたように見えた。そして、それは醉象にとって将棋というものを、初めて美しいと感じることができた瞬間だった。
人格が出る将棋。銀子自身がおいそれと向き合えなかった彼女の本質さえ、将棋は浮き彫りにする。
本当は戦いたい。私は戦って勝ちたいという倉敷銀子の内面に触れたとき、醉象は主人の本質を垣間見ることができたのだ。
この美しい対局を、醉象は生涯に渡り忘れないだろう。ただし、今の銀子が指せる将棋はあくまでも内向きなものだった。
銀子という女の子を知っている醉象だからこそ、棋譜の中に映る彼女の本質に感動することができる。けれど銀子を知らない人間にとって、それは無理な話だ。銀子という人間を知らずして、その棋譜だけを見て感動できるような将棋を、彼女が指せるようになるのは、この先いつになるのだろうか。
外向きの感動を与えることができる棋譜は、プロ棋士だから残せるものだ。彼らの指す将棋は芸術である。洗練された一手とは、玉石混合の中から試行錯誤され、選び抜かれたもののこと。
選び抜かれた宝石は磨かれ、棋譜は美しくまばゆい光を帯びてゆくのだ。
今の銀子が指す対局には勝ちと負けばかりしかない。やがて大人になった銀子が、棋譜だけで自分という人間を伝えることができるようになったとき、醉象はその側にいたいなと思った。
でも今は多くの言葉は要らないだろう。醉象は短い言葉で主人に声をかけた。
「銀子。おめでとう」
「ぐすっ……ひく……、ありがと」
銀子の肩に手を置いた醉象が密かに誓う。
自分たちが戦い抜いた過去の時代。将棋は生死を別つ戦場で、単なる遊戯に過ぎなかった。棋力の高い人間もいるにはいたが、銀子が見せた輝きを垣間見るまでには至らなかったのだ。
けれど銀子に喚び出された、この平和な時代。命を賭して戦う戦場に劣らないほど、棋士たちの勝負は純度を増していた。彼らによる研鑽と実戦が、将棋盤という狭くも深遠なる戦場へ、自分と銀将を喚んだのかもしれない。
そんな盤の中で、銀子は這いつくばりながら自分を磨いている。
甘やかだった幼い頃。チヤホヤとされ、優しい祖父の庇護の元、彼女は輝いていた。そんな過去には想像もできなかったほどに、極限まで勇気を振り絞った銀子の棒銀は、再び彼女へ勝利をもたらしたのだ。
おめでとう、と。もう一度だけ心のなかで、酔象はつぶやいた。




