23話~魂の戦術~
静かに始まった対局は、静寂の中で進んでいった。
そして部員たちのささやきが、耳に届き始めてから、さほど間もない頃である。
消入りそうな声だが、誰の耳へもはっきりと聞こえる言葉で、それは絞り出された。
「負け…ました……」
始まってから二十分ほどしか経っていない。
それは醉象に終始翻弄されてしまった眞柄彌央の敗北だった。
「強い。ちょっと強過ぎるよ……」
呆気にとられながら三年生の将棋部員がつぶやき、負けを宣言した彌央は顔を上げようとしない。なぜなら今までのどんな対局よりも実力の差を、果てしなく遠くに感じたからだった。
ひざに手をついて盤を見つめる彌央。醉象が小さな声でささやくように言う。
「うん。きみ、すごく強いよ。この前の対局も見るに大将さんと同じくらいかな。とくに形勢判断と大局観は正確だ。大将でも不思議じゃない」
サイドで髪を縛って垂らしている醉象が首を上げて褒め称える。銀子の姉のデニムスカートを穿いて、普段よりもコケティッシュでありながら活動的なスタイルだった。
にもかかわらず棋力は絶大。
彌央は、良美の父と指しているような壁を感じずにはいられなかった。
「…………っ」
不意に勢い良く立ち上がった彌央が部屋から出ていってしまった。いきなり退出してしまった副部長。周りを囲んでいたギャラリーだけではなく、対戦相手の醉象も驚いた。思ったままの感想で、醉象としては相手を讃えたつもりだったのだが、本人からすれば圧倒的な力量差の前に、ささやかな同情をされたと感じたのかもしれない。
溜め息をつき、醉象が駒を片付け始める。銀子と指さなかった理由のひとつでもあるのだが、醉象は自分の実力を知っていた。ゆえに負けに慣れてない相手との対戦が苦手だった。手を抜くというのは彼女も恥ずべき行為だと考えており、此度の対局でも、かけ離れた実力通りの差がついてしまっただけである。
過去、現世へ三度舞い戻った醉象。将棋に関して言えば、自分より強い相手と出会ったことがない。物足りないと感じるよりも、将棋そのものに奥深さを見いだせない気分だった。
いや、失望しても意味がない。失望は絶望よりも虚しいものだ。気持ちを切り替えた醉象が席を立った。銀将はわずかなりとも健闘しているだろうか。早々に絶望してはいないか――いいや、それは杞憂に過ぎない。銀将が気持ちを切ったりするはずがない。彼女は確たる忠誠心と激しい闘争心を持っている。
ちらりと目をやれば、銀将は戦場と変わらない懸命な目つきで、盤と、そして対戦相手と向き合っていた。それから反対へ振り向いて大将戦を見に行こうとしたとき、醉象はようやく異変に気がついたのである。
駒を指す音が速い。
膝の上に置いた左手に対して、銀子と良美の右手はわずかとも緩む暇なく、盤上で駒を指し合っている。銀子のスカートは大腿部の奥まで見えそうなほどめくり上がっていた。
そして現状の形勢を目の当たりにした醉象がつぶやいた。
「ぼ、棒銀……!?」
声にはまさかという響きが込められていた。
遡ってゆくと、居飛車から銀で突破していった流れに他ならない。
これまで銀将と対局するときの銀子は、受けの棋風だった。飛車を必ず振り、相手の手を読み切ることに重きを置いて、自らは先に攻め込まない。三日前に指した良美との対局でもそうだ。銀子は相手の手筋を読みながら、受ける陣容で戦った。
だが今、目の前で躍動する銀子の指し筋はどうだ!
ぎこちなさなどまったくない。先手を取っていた良美の振り飛車に対する斜め棒銀であり、銀を進めてゆく流れに一点の淀みも感じられない。
将棋は局面を読んでゆく勝負だが、慣れと経験は大いに左右するものである。反対にひとつの戦術には寄らず、すべての局面を広く見る理想論は、才人の境地だった。残念ながら、それらの才気は銀子に備わっていない。だからこそ――
彼女にとって活路を見いだす手は、いつだって訓練と経験に裏付けされた棒銀戦法だったのだ。
ゆえに富竹良美が喜び勇む。
父から聞かされた勝負強い年下の女の子。
プロ棋士の父が興奮しながら熱っぽくしゃべり聞かせてくれた。
彼女の指す手は、前向きな勇気と決断力で目映く光っていたのだという。
そんな父から又聞きした女の子の異名が「棒銀小町」だった。
前の戦いにおいて、募らせた良美の不満。たしかに銀子は強かった。読みは鉄板であり、定石を生かした戦術はなかなか隙がないようにも感じた。だが圧倒的に力が無かったのである。
貧弱と言っても良いほどで、持ち駒を厳しく打ち込んだりすると、年下の少女は怯んでしまう。彼女の怯えが手に取るように伝わってくる。
一体、何をそこまで怖がっているのだろう。
これが勝負強い指し手だったのかと、彼女は父の言葉を懐疑的に思った。嘘をつく父親ではないが、都合の悪いことをはっきりと言えない人でもある。てっきり銀子のことを過剰に褒めていただけなのかと、内心で落胆していたのだ。
だが、しかし。じっと見据えて向かってくる一年生に惰弱なところなど一切ない。
持てるだけの力を尽くして、とにかく攻めてくる。仕掛けてくる。
わざと緩めて指して攪乱するような手は使ってこない。まっすぐ過ぎるきらいもあるが、泥沼戦を仕掛ける隙が見あたらないのだから大したものだ。
それに何よりも一手一手への気持ちが怖いくらいに込められていた。
絶対に負けない。死んでも勝つ。
生きるか死ぬか。勝つか負けるしかあり得ない!
それほどの気迫で押してくるのだ。
良美は巻き返すことも多く、荒らしにも強いタイプだったが、今やそれも銀子の攻勢を前にしては守勢に回ってしまっていた。
祖父が死んでからずっと指してこなかった戦法。
言葉を失っていた醉象は、銀子の棒銀に引き込まれていった。
大将同士のパチという乾いた音が教室で鳴るたびに、周りのギャラリーが固唾を呑み込む。
またその傍らで、三将戦も白熱した展開を見せ始めていた。
銀将の戦法は三日前と違い、原始棒銀の形ではない。いわゆる角換 (が)わり棒銀であった。銀子は短い時間を費やして、棒銀の中でもカタチを限定した定石を、銀将へ伝授したのだ。それは付け焼き刃なれど、棒銀で攻めてゆく形そのものに慣れている銀将の底力を引き出すものだ。
「この前と違う……っ」
夏江は、三日前の副部長と銀将の対局を知っている。それゆえに原始棒銀を使い、読みの浅薄さを露呈させた銀将の棋力を侮っていた。将棋は読みの深さだけで戦うものではない。攻めやすい形があり、守りやすい形がある。着眼点はシンプルに、三手を読み合いながら交換してゆく
一日の長は夏江にあったが、彼女の棋力もまた銀将とそう変わらるものではない。銀子と良美に比べて、ふたりの盤面は非常にちぐはぐとして醜悪なものだった。
呆れるような泥沼の展開へ対局が飲み込まれてゆく。
それはふたりの棋力の低さゆえの沼だった。
さすがに気恥ずかしさを感じ入りつつあった夏江だが、しかし銀将は違っていた。
虹彩の銀色はまったく揺れず、真摯に盤面を映して、射抜くような瞳孔で、まっすぐ見つめている。
全力を尽くさぬ戦などあり得ないと銀の瞳が言っていた。それは銀将の持つ哲学であり、たとえ自分の力量を恥じることがあっても、臆することなどありえない。
普段着として借りている和服は、銀子の祖母のおさがりであるが、今日は袴を穿いて胴着を着ていた。さらに結んだ紐で肩の裾を上げている。
装いはつまり彼女にとって、決意の発露であった。
銀子という主人へ勝利をもたらすために。
ただそれのためだけに。
銀将は目の前の夏江を一直線に追いかけていった。




