20話~銀子のレッスン~
「特訓中は棒銀を使うのをやめなさい」
自宅に帰ってから、まず銀子が告げた言葉である。棒銀戦法は初心者にとって理解しやすい作戦ではあるが、入りやすい間口は、それだけ幅広い技量を使う者に求めてくる。
棋力の低い者にとっては、序盤の形を作りやすい戦術が理想的だ。それだけ将棋における序盤の趨勢というものは重くのし掛かってくる。技量の至らぬ者が、序盤で置いていかれてしまうと、巻き返すことなどほぼ不可能なのだ。
だからこそ銀子は特訓中、銀将が今まで使ってきた棒銀を禁じた。基礎の基礎から叩き込むべきだと判断し、ふたりは将棋盤で向かい合い特訓を始めようとしていた。
「色んな戦法を使えるようになるために、銀将は局面を読めるようにならないとね」
醉象がそう言って、銀子の指導方針を肯定する。夏江との対局を並べてもらった銀子は、醉象の力を計りかねていた。というか、自分よりも強いかもしれない。いまだ謎めく醉象はひとまず置いておくことにしようと決めたのだ。あれだけの差をつけて夏江に勝てるのなら、戦術や戦法を伝授しなくともよいだろう。
それよりも副部長の眞柄彌央に一蹴され、銀子も手を合わせて知っている銀将の棋力は、六人の対局者の中でもっとも低い。圧倒的に弱い。団体戦で勝つには、銀将をどこまで底上げできるかにかかっていると言っても過言ではなかった。
「次に戦うとき、手の内はばれてるから、少し違う戦い方を薦めたいの」
「違う戦い方……それは、どのような戦術になるのでしょうか」
「待って。その前に基本を覚えて。そうじゃないと作戦が立てられないから」
「わ、分かりました」
慌てて居住まいを正して座り直した銀将。銀子はわずかに苦笑いした。棒銀戦法を使う銀将へ他の戦法を薦めていると、祖父とのやりとりが思い出されたのだ。
祖父の棒銀を銀子が打ち破るようになったとき、同じように祖父へ別の戦法を薦めたことがあった。将棋教室や自分で手に入れた棋譜や雑誌で、銀子は新しい現代的な戦法を学んでいたから尚更である。
しかし、祖父は聞き入れようとはしなかった。優しくて大らかで理想の人間像を見せてくれていた祖父の、唯一苦く笑ってしまう銀子の思い出だった。
「それでは……お願いします。銀子さま」
「はい。お願いします」
けれど思い出に浸るのはここまでだ。対局が始まってしまえば、最大限の敬意と敵意と、そして自らの力の限りを尽くして相対するのみである。
――うん。このリズムだと銀子は思った。
小さな胸を焦がして戦っていた、幼い頃の感覚が彼女を包み始めている。
明後日の再戦に向けて、とにかく指すのみだった。
翌日の木曜日、銀子はクラスメイトの夏江へ再戦を申し込んだ。すると将棋部の部長と副部長が共に快諾し、団体戦は土曜日の放課後でということに決まった。
そうして、またその日の夜。
「銀将、ストップ。そこはしっかり受けてから前に出て」
「はい! えっと……それでは金をこちらに」
「うん。そこで銀を攻めに、金を守りに使うのは正しい筋だから覚えておいてね」
「はい!」
銀子と銀将のやりとりに、醉象も頷きながら補足する。
「そうだね。銀将は深入りし過ぎて、形勢判断が甘過ぎるんだ。大局観と共に、大切なのは形勢判断。それができるようになれば、無理で無駄な手が自然と減ってゆくはずだ」
「うん。醉象の言う通り。無理な手を減らすように注意して。手を相手に正しく渡すって言ったりするんだけど、自分の次の手だけを考えてるだけじゃダメ」
「正しく相手へ渡す……」
「つまりね、無駄のない良い将棋はひとりじゃできないの。今も私と銀将で対局を作り上げているわけで」
「将棋は相手が先を読んでくれないと、自分も先が読めなくなる。対局はふたりで作り上げるものなんだ。そういえば爺も兵法を語るときに同じことを言ってたなぁ」
「ふぇ」
銀子と醉象が立て続けに説明するので、銀将が思わず変な声を漏らした。
相手に手を渡すというのは、正しい筋で打ち込んでゆけば、相手もまた正しく指し返すということである。もちろんどこかの局面で斬り合いは必ず起きる。力戦や乱戦が美しくないと考えている棋士であっても、ぶつかり合いを避けることはできない。
「も、申し訳ございません。私などの相手をしていては、銀子さまにとって無為のままでしょう。醉象さまがお相手ならば稽古を積むことができますのに」
「いいから。今のままだと魚住さんにも銀将は勝てない。銀将が勝てないままじゃ私と醉象は絶対に負けられない。そっちの方が不利だよ」
しかし、そんな銀子の言葉に、醉象は内心で首をかしげていた。今の主は、自分が絶対に勝つから任せておけとは言わないタイプなのだろうか。たしかに相手の大将は強かったが、銀子の勝てないレベルではないことを醉象は見切っている。ここにきて自分の力を強く信じていないとすれば、銀子は果たして大丈夫だと言えるのか疑問ではある。
心の持ち様だけで言えば、銀将よりも銀子の方が危ういと言えるかもしれないのだ。
やがてふたりの対局は、助言を繰り返しながら指し始めて、すでに五度目へと突入していた。玉鋼の如き臣下の耐久力には驚かないが、何時間も集中力を切らさない主人に、醉象は感心もしていた。
「銀子、大丈夫かい。疲れてたら変わろうか」
「うーん。まだ大丈夫かな。酷いこと言っちゃったし、できるだけ銀将には協力したいの」
こうである。ゆえに醉象は腹を決めたようだった。
「ふふ……そっか。それじゃ銀将の特訓は任せておくよ」
「将棋盤、ひとつしか無くてごめんね」
「いいって。銀子の特訓は見てるだけでも勉強になる」
ふたりのやりとりが耳に届いているのかいないか不明だが、銀将は熱心に盤に向き合い必死でついてきている。わずかとはいえ駒の流れというモノを銀将が理解し始めているのかもしれない。
対局は旋律と似ている。駒が進んでゆき相手とぶつかり、取られて取って、取って取られて。駒を交換するリズムが心地好く刻まれるほど、美しく洗練された響きで、対局は鳴ってゆくのだ。
がしかし、それでも将棋は純然たる勝負である。
勝つために戦う。負けても良いなどと考えて指す棋士はどこにも存在しない。
「銀将。今の間にしっかり先を読んでおかないと」
「は、はい、醉象さま。銀子さまが指してから考えているようでは、まったく遅いのですね」
これまで無理に切り開こうと進めてきた銀将に、先を読むということを理解させるため、銀子はゆっくりと手を進めている。盤外で伝わる気迫もあるのか、盤面へ注がれる揺らぎのない銀将の視線。
悪くない傾向だ、と銀子も醉象も感じている。
「相手の予想していない新手を指すのも大事だけど、それにはまず定石で先を読んでからじゃないとね。奇策はあくまでも奇策だと爺も言ってたよ」
「お恥ずかしい限りです。今まで目の前にある戦いでしか、戦局を考えていませんでした」
「銀の駒は鋭角的だ。銀将は駒の使い方をよく知る必要がある。つまり飛角銀桂だ」
「醉象さまは、いつの間にそのような将棋の手腕を手に入れていたのでしょう」
「それはまたどこかで話すから、盤から意識を逸らしたらいけないよ」
「わ、分かりました」
真面目だが好奇心も強い銀将である。
そうしていると次の一手では、銀将が馬を指し、王手をかけた。
「あ、そこも。簡単に王手を指すのは良くないの。それだと私の玉は逃げおおせちゃう」
「あ、あの。けれど銀子さま。将棋は玉を詰ますための遊戯なのでは?」
「だからなの。玉を詰ますときは、確実に詰める手じゃなきゃ、王手じゃなくて追う手になっちゃうの」
「追う手か。うまいこと言うね」
銀子の言葉に感じ入る醉象。
「昔はそう言わなかったの?」
「どうだろう。将棋に関係の深い世界にいたわけじゃないからね」
「そうなんだ。とにかく持ち駒を打つときは、無駄な手にならないよう気をつけて」
「はい! 分かりました!」
「開き王手でも挟んで王手でもいいから。とにかく玉の逃げ道を残したまま王手をかけちゃダメ」
「しかしながら、あまり卑怯な指し筋は気が引けるのですが」
「卑怯じゃない。銀将は誤解してるの」
「そ、そうなのですか?」
「そうなの」と答えた銀子が、一つ前の局面に戻す。そして再び銀将が持ち駒の銀を打つと、またしても銀子が止めた。
「そこも待って。この位置の銀で王手をかけちゃダメだってば」
「ああああっ、も、申し訳ございません!」
「あやまることじゃないけど……。銀将は今、銀を私の玉の斜め前に打ったでしょ」
「はい。しかし銀は、前と斜めにしか動けないのですから、玉の正面か、斜めに置く以外にないのでは?」
「ううん。この局面の銀だったら玉の腹――つまり右に寄せて置くべきなの」
「寄せて打つ……?」
「うん。そうすれば玉は前へ行くも、後ろへ引くも逃げられなくなる。次の同銀で詰んじゃうから。だから同玉で銀を取るか、反対側の左に動いて逃げるか、後は放置するしかなくなる。そういう玉の動きを読んでおいてね、龍とか馬が効くようにあらかじめ指しておく。それが駒を効かせておいて詰ますっていうこと」
「な、なるほど。さすが銀子さま。読みが深いのですね」
「こういうのは将棋のいろはというか初歩なんだけどね」
有り体に言えば、これらの伝授している技術は戦術でも何でもない、ただの基礎である。欲を言えば序盤の戦い方だけでもいくつか仕込んでおきたいところなのだが、焦りは禁物だと銀子は自分に言い聞かせていた。
祖父は決して無理強いはしなかった。おじいちゃんとの対局で一回たりとも面白くないと感じたことはなかったのだ。楽しむことができない将棋には、いつか必ずぶちあたる。それは必要なことなのかもしれないし、前向きに考えればひとつの精神的な試練なのかもしれない。
しかし銀子は初めて他人に教えるという立場にあって、祖父のようにありたいと思った。将棋を好きな銀将が、もし将棋を嫌いになってしまったら、それはもう自分の責任なのだから。
だから銀将へ新しい戦法を伝授するのは、時間をかけて基礎を伝えてからなのだ。
「初歩から学び直すのは良いことだ。銀子の言ってることはとても理解しやすいね」
「はい! 今まで教えて頂いた中で、誰よりも分かりやすいです」
「そ、そう」
満更でもない様子の銀子は、人差し指と中指、薬指をかざして総括するように言った。
「まとめるとね、銀将はまず三手を読むことを心掛けて」
「はい!」
「まず自分が指す。するとそれを受けて相手が指す。そして自分の三手目を正しく指すことが最初の一歩」
「今までは次の一手ばかりに気持ちがいっておりました」
「すぐに慣れるから大丈夫。それで慣れてきたら今度は相手の立場で考える。相手の三手を考える。そうすると自分にとっての四手目が読めるようになるの」
「自分と相手の三手目を考えられることが大切なんだねぇ」
うんうんと頷く醉象が、銀子の言葉を後押しする。
「それで四手目が読めれば、五手目に指すべき自分の手が見えてくる。慣れながら読みを深くしていくと、見た瞬間にどこが良さそうっていう勘も養われていくよ」
「はい! 精進致します」
きらきらと目を輝かせながら話を聞いている銀将の素直さは、銀子にとって眩しかった。祖父にとっての自分はこうであったのだろうか。このようであったらいいなと思った。
「おじいちゃんの言ってたことを私が誰かに教えるなんて」
そっと銀子がつぶやくと醉象が聞き返す。
「よく聞こえなかったけど銀子のおじいさんのことかな」
「何でもない。それよりこの対局が終わったらお風呂に入りたいんだけど、醉象に支度をお願いしてもいい? それともほとんど指せなかったから、また後で――」
「いいや、いや。支度してくるよ。ボクはそもそも強いからね」
「そ、そう」
妙に自信ありげだが、彼女の高い棋力は、銀子も感じていることであった。
「醉象さまにお任せしてしまい申し訳ありません。対局が終わり次第、すぐに私も駆けつけます」
「それくらいひとりでできるって。それよりもしっかり上達する方が大切だ」
「はい!!」
醉象は結局、銀子へ問いかけることはしなかった。内心に不安を抱えているのだが、なんと問えば良いのか分からない。実力が格下である銀将相手だと軽やかに躱しているように見える――が、しかしあれは斬り合いから逃げているだけだ。
銀子は強い。けれど今の銀子が、あの大将に勝つには足りないものがある。
厳しい手を指されたとき、傷を気にしているようでは、相手との差は開く一方。窮地に陥ったときこそ勝機を見いだす。そういう気概がなければ、勝負事に勝てる道理はないのだから。




