1話~倉敷銀子の生い立ち・容姿~
境内の中には将棋が打てる木造りの台が用意されていた。椅子には赤いフェルト地に座布団が敷かれ、将棋盤を挟んで置かれている。晴れた日には駒台までも出して将棋が指せるようになっていた。
午前の勤めを終えた神主は、パチリと小気味よい音を立てて詰め将棋に興じていた。暇な隣人が指しに来ることもあるが、今日はさっぱりだった。
心置きなく盤面に向かい合っていると軽い足音が通りがかる。
「銀子。暇なら一局、指さないか?」
すると呼び止められた人影は素っ気なく答えた。
「だめ。これから中学校の同窓会があるんだから」
「同窓会だって? 卒業したばかりだろう」
痩せ型で短髪。神職の衣装のまま盤と向かい合っていた父が疑問を口にすると、娘は首を振って答えた。
「最初に集まっておくんだって。連絡先をまとめたいとかって、そういう口実」
春から高校生になった娘のシニカルな物言いに、倉敷将門が楽しそうに指摘する。
「なるほど。けど耳に新鮮なことは何もないんじゃないか。女の子たちは男の子の話題で盛り上がったりすることもあるだろう」
「男子も何人か来るらしいから、そんな話はしないよ」
「じゃあ、銀子は男の子の連絡先を聞いておかないとな」
「どうしてそうなるのよ」
「だってこれから三年間は周りに女の子しかいないんだ。当然だろう」
「残念でした。何を期待してるのか知らないけど、剣道部だったせいか、私には男子が寄って来ないので」
「そ、そうなのか……。薦めた高校を間違えたかな」
「どうしてよ。女子高もいいよって薦めてたのは、私に変な虫が寄りつかないようにとか、そういうことなんじゃないの?」
「まさか。そんなに狭い了見じゃない。同性だけの世界で得られる経験は、社会に出ると難しいからね」
「普通、逆じゃない?」
「逆じゃない。大人になったら異性との付き合いが待ってる。その前に同性だけで得られる経験や、同性に囲まれて守られる価値観を大事にして欲しいと、そう思ったんだよ」
「なら余計じゃん。女子高へ進んだのに恋人ができちゃったらダメだと思うけど」
「いやいや、何事にも例外はある。恋人ができるのを反対してるわけじゃないんだ」
「よく分からない……」
「しかたない。銀子に指してもらうのは別の機会にして、お蔵の掃除でもしようかな」
「……行ってきます」
実のところ同窓会で集まるのは一時間後に駅前のチェーンレストランである。
にも関わらず、家から駅前までのんびり歩いても十五分もかからなかった。
盤の前にいる父を見かけ、捕まる前に慌てて家を出ようとした矢先に銀子は呼び止められたのだ。境内の階段を下りながら、父の指す棋風はどうだったっけと彼女は考えた。
倉敷銀子が生まれ育ったこの街は、北陸と畿内を結ぶ要地として栄え、日本海沿いの地域としては整備された土地である。気候も温暖で湾岸沿いにあたるため、海産物も豊富だった。外へ売り出す資源があり、人口も少なくない。周りの諸地域と比べて、地方都市としては及第といったにぎわいである。
同窓会へ出席するために向かった駅前では、春から進出してきた某大手デパートが駅ビルを建てていた。街で唯一のモダンな建物と呼ぶのはいささか寂しいものがあるが、建物は清潔で美しく、開業からテナントも埋まり、お客を呼び込んでいた。すでに友達とおとずれたことのあるブランドショップを見て時間を潰し、銀子は待ち合わせ場所のファミリーレストランへ向かった。
やがて始まった同窓会は、肩すかしに感じるほど滞りなく進んでいった。
半分くらいは欠席だったが、そもそも二週間前に卒業式後の謝恩会をしたばかりなのだ。女子校とはいえ、銀子も何人かのクラスメイトと同じ学び舎へ進学している。ほとんどの友人が県内の高校へ進んでいるのだから、あえて同窓会へ顔を出す意味があるのかと迷っていたのだが、他の学校へ――とくに県外の高校に進学したクラスメイトとは連絡先を交換しておこうと考えて、銀子は出席した。
そんな彼女も、東京の高校へ進学しないかと母と姉に誘われたことがあった。
けれど銀子に都会への憧れはなく、父をひとり残して東京へという気持ちにはなれなかった。東京は母と姉たちに会いに行くときでいい。そのおまけで自分が向こうへおとずれたとき、連絡先を交換しておいた友人がいればいいと思った。
にぎやかな元クラスメイトたちに別離の感慨は薄く、銀子自身も実感が湧かなかった。同じように集まってボウリングやカラオケ、ファミレスで過ごしたりと濃密だった中学時代の熱気が、穏やかな四月の陽気に代わり、日曜の午後を包んでいる。
普段は飲まないアイスコーヒーをストローでくるくるとかき回すと、グラスの中で氷が上下に揺れながらカランと音を立てた。飲み方が分からず、ミルクも砂糖も入れずに飲んでいるせいか、周りと比べてグラスの中が減ってゆかない。オレンジジュースかお茶にしておけば良かったと少し退屈に感じながら、銀子は同窓会を過ごしていった。
そして帰りのバスの中、退屈そうな口ぶりで椎名香織が言った。
「みんな全然変わってなかったね。当たり前だけどさ」
銀子を同窓会へ誘ったのは彼女である。香織は銀子と幼なじみであり、中学校でも三年間ずっと同じ部活だった。さらには進学した女子高も同じなのだ。腐れ縁とはよく言ったものである。
香織の隣に座っていた銀子が、さっきまでのやかましさをふり返りつつ答えた。
「つい最近まで会ってたのに、いきなり雰囲気が変わってる方が驚きだよ」
すると忠告するように香織が言う。
「いやいや。高校生になったら見違えるってよく言うじゃん」
「そんな風に雰囲気が変わる子は同窓会に来ないんじゃない?」
「どうかな。昔の友達に会うと昔に戻るって言うし。実は今日のメンバーの中にも入学式を終えて早々、彼氏ができちゃった子とかいたりして」
「否定はしないけど」
「本格的に楽しみなのは夏休みだね。銀子だって分からないよ。夏休みも終わりに近づいて集まったら、金髪でピアス。濃いマスカラに肩と背中を思いっきり出したキャミワンピとか着ちゃったりして」
「そんなことになったら周りに色々と言われそう……」
「あはは。銀子ってば町内でも有名だしね。あの倉敷神社の三姉妹の末っ子が高校生になってフシダラになりました、なんて噂が立ったらウチの親父や、氏子組の人たちがびっくりして駆けつけるかも」
「嫌すぎる」
「ま、そんなことにならないよう青春の汗を流そうぜ。ってわけで部活は決めたの?」
「いきなり部活の話ですか」
「だって、あたしはもう入部希望を出しちゃったわけで」
「早いなぁ。これから体験入部なのに」
今日は入学してから初めての日曜日。オリエンテーションに身体測定、授業の概要と担当教員の紹介、各施設の案内にそして部活見学を終えて、多くの生徒たちが明日からの体験入部に胸を躍らしている中、一本気な椎名香織は早々に入部届を提出していた。
「あたしは剣道が好きなのさ。他に取り柄が無いってのもあるけど」
惜しむ銀子の物言いに対して、わずかに染めた茶髪のショートヘアを揺らす香織の選択と決断は、はっきりとしている。銀子と比べると大人っぽい顔立ち。銀子よりも背が高く、こう見えても彼女は剣道において県内有数の実力者である。
「銀子も中学のときみたいに剣道やるんでしょ」
親友の問いかけに、銀子は視線を窓の外へ寄せて逸らした。
「……あれ、もしかして迷ってたり?」
「色々と考えてるんだよ。高校生になったんだから新しいことをやってもいいかなって」
「うそぉ」
「ほんと。香織みたいに一徹の剣士には成れる気がしないわけで」
「え~! そりゃ小さい頃はあたしの方が断然強かったけど、今は互角じゃん。生涯のライバルだと思ってるあたしの気持ちはどうしてくれるの」
「それは最近のことだからねぇ。今のところ生涯戦績じゃ大きく負け越してる」
「……道場時代はさ、練習で手を抜いてた銀子に負けたくないって、いつも思ってた」
懐かしむように香織がそう言うと、銀子は頬に手をつき窓際に肘をかけた。
「そこまで手を抜いてたわけじゃないのに」
「いいや、少なくとも剣道にはまったく本気じゃなかったよね。だから、中学生になった銀子があんなにも剣道部へ没頭してくれるとは思ってなかった。あたしさ、今の銀子は銀之亮さんの道場を継ぐために精進してるんだと思ってるんだけど」
「私が? おじいちゃんの道場を?」
「どうして驚くのさ。銀子以上におじいちゃん子なんて、あたしは他に知らないよ」
「無理だよ。道場は閉まったままだし、お父さんたちも再開させる気は無いみたい」
「そうなんだ? でもせっかく団体戦は県大会準優勝までいったんだし、高校で全国制覇を目指そうよ。日本一の女剣士集団だよ。格好いいと思わない?」
香織の押しにも、銀子はつれない反応で外を見ながら口の中で小さく唸った。どうやら本気で剣道を続けるかどうか迷っている様子である。香織は白旗を上げた。
「……はぁ。こればっかりはしかたないのかな。本人のやる気がなきゃ意味ないもんね。 よし、分かった。あたしは先に入部して練習してるから、見学には必ず来なさい」
「うん。分かりました」
「よろしい」
「それにしても香織は本当に練習熱心だ。そういう姿勢は尊敬してる」
「中学生になってからは銀子も熱心だったよ。師範の教えを固く守ってた」
「おじいちゃの教え?」
「剣の道は一日にして成らず。あたしの好きな言葉で人生の至言だよ」
すると銀子は窓の外へ視線を傾けたまま、眼を大きく広げた。
表情の変化は香織から見えない。
それから、ゆっくりとつぶやくように聞き返した。
「……そんな言葉だったっけ。少し違わない?」
「違いません」
香織が笑いながらはっきりと否定すると、銀子の胸にはほろ苦い想いが広がっていった。
けれど笑顔の香織につられるように、振り返って笑い返した。
懐かしい言葉だった。いつから祖父の言葉を大切にしなくなったんだろうと銀子の気持ちが窮屈になる。考えたくない堕落だった。
悟られまいとして銀子は、他の話題に変えて積極的に香織へしゃべり続けた。間もなく香織は「新しい胴着を受け取りにいく」と言い残し、三つ先の停車駅で降りていった。
ひとりになったバスの車内で窓の外を見ていると、高校生になったという実感に欠けているのかもしれないと銀子は思った。
「同窓会に制服でも着ていけば少しは違ったかな」
高校生と言えば制服だ。銀子が進学する女子高校はブレザータイプの制服だった。他の高校へ進学したメンバーの中にはセーラー制服の子もいる。新しいブレザーと着慣れたセーラー。デザインの違いはあれど、それぞれ新しい生活が始まってゆく。
だから今はとにかく、新しものを目にしたいと銀子は思った。古いことは聞きたくない。過去の匂いは銀子の気持ちを落ち着かなくさせた。
窓際にもたれかかっているとバスはほどなく次の駅へ停車した。停留所には年寄りが並んでいる。自分が座っているところより後ろの座席が空いているとはいえ、車内を最後尾まで歩くのはおっくうだろう。乗車しようと並んでいる年寄りたちから見られる前に銀子はさっと立ち上がって、最後尾の座席まで移動した。
移動した席の隣には太った男が座っていた。彼女が席を移ってきてわずかに窮屈そうに見えた男は、銀子が背もたれから背中を離して浅く座ると、すまなそうに奥へと座り直してくれた。銀子が申し訳なさそうに男へ詰めると、太った男も気まずそうに眉を上げて、ふたりの間には親密な空気と共にガソリンオイルの匂いが仄かに漂った。
不意に隣の席へやってきた少女はこざっぱりとした服装で、長袖のTシャツにタイトなジーンズ姿だった。紐の細い小さなショルダーバッグを下げている。前髪は眉より長いが目には掛からないほどで、黒のセミロングは肩についてあまるくらいだった。また男は男であるから、ついつい隣に座ったうら若い少女の胸元へ視線が落ちてしまう。少女は、上背に対して大き過ぎると感じるくらい豊かな胸回りをしていた。同世代でも目立つ方なのかなと男は下世話な邪推までしてしまう始末であった。少女は特有の白い肌をしていたが、同時に健康的な雰囲気を醸し出しており、いかにも春日和を利用して駅前で遊んだ帰りといった様子だった。
男が停車ボタンを押した。すると次にバスが止まったところで、彼女は席を立って道を空け、微笑みながら会釈をしてくれた。わざわざ移動して詰めて席を埋めたことへの詫びだろうか。つられて笑顔で返した男はバスを降りた後で、こんな風に名前も知らぬ子へ笑顔を向けたのはいつ以来であろうかと思った。