18話~忠誠を誓うということ~
「ぎ、銀子さま!」
「銀子!?」
「あれ。あれ……っ」
一粒でもこぼしてしまうと、涙は絶え間なく頬を濡らしていった。
「ちょっと、まいったな。こんな風に、泣いちゃうなんて」
祖父が死んでしまってから、銀子はときどきこんな風に泣いてしまうことがあった。でも、それを他人に見られたのは初めてだ。姉たちは泣いてる自分のことを知っていただろうが、それでも人前で泣くことは我慢し続けてきた。それをしたら泣くだけで済まなくなることを少女は知っていたのだ。
誰かが泣いてたら慰めて事情を聞いてあげるだろう。泣いてる姿を見せておきながら構わないで欲しいと求めるのは銀子の考える限り、もっとも格好悪くてどうしようもない行為だった。
ゆえに誰かが側にいるときに泣くことを全力で避けてきた。そうやって今までやり過ごしてきたのに、どうしてこんな風に思いがけないところで失敗してしまうのか。
「やっぱり……将棋なんて指さない方が良かったな……っ」
格好悪い言葉までもが胸の中からせり上がって、するりと唇からこぼれてゆく。
「銀子さま……」
銀将も醉象も主人の気持ちを察していた。具体的な事情を知らずとも、その涙がただごとでないくらい理解できる。ふたりにとって千慮の一失。主が、涙を流すほどつらい想いを抱えている。それは臣下にとって身を切られるに等しい。
だがそれでも。銀子の気持ちに手綱をつけるわけにはいかなかった。暗に心を逸らせて、主君の気持ちを霧散させるわけにはいかない。慰め程度に労りの言葉をかけるのは臣下として忠節に欠けることなのだ。
じっと見つめながら、醉象は意を決し、あえて厳しい言葉で問いかけた。
「銀子。もしかして知っていながら、自分と向き合えないでいるのかい」
「っ――?!」
すると銀子はぎょっとしたように視線を上げて醉象の顔を見つめた。
「あのね、銀子。ボクはきみの味方だ。だって銀子がボクたちの主人なんだから。銀将だって同じだよ」
「は、はい。もちろんです!」
醉象と比べて、知謀が不得手である銀将は焦りながらコクコクと頷いた。銀子の涙に対して、どうすればいいのか分からない自分と比べて、醉象はその辺りの配慮に抜かりはないタイプである。
「単に負けたことだけじゃない。銀子にとって、将棋は涙を流すに値することだったんだ。あれだけの棋力を見れば、仕えて間もないボクたちだって分かる」
「なによ。どういう、ことよ」
「本当は将棋が何よりも大切なんじゃないのかい。将棋だけは誰にも負けたくないって、銀子の一手はそう言ってる」
「っ……ぐすっ。そんなこと、ない」
自分のことを主人と呼んだ醉象たち。絵空事を並べてきたふたりに対し、一笑に付せない自分がいる。なぜならば、少なくともふたりは嘘をつく子ではないのを銀子はもう知っているから。
目の前にいる非現実的なほどの美少女たちは、いつでも本心を述べてきた。
「別に……将棋なんか強くなくたって……いいもんっ」
投げ出す銀子の言葉を無視するように、醉象がさらにたずねる。
「銀子。この際はっきり言わせてもらおう。どうして回りくどく指すんだ。銀子なら、あの局面でもっと踏み込んでいけたはずだ」
銀子は視線を上げられなかった。醉象の目を見ることができない。
「……私が全力を出してないって言いたいの?」
「どうだろう。それは銀子にしか分からない。けれど、少しでも厳しくなると衝突を避けていたのは明白だ。逃げるように指して勝てるはずがない。それなのに、あんな指し方をしているのにも関わらず――」
そこまで喋り、ひとつ前置きを打った上で、醉象がはっきりと言い切った。
「誰よりも銀子は負けるのを拒んでる」
「銀子さま……」
「大切な形勢判断もしっかりしてる。相手と自分の差が見えてるのに、先へ進もうとする相手のことを銀子はまっすぐ追いかけていない。全力で走って追いかけなきゃ、相手には絶対に追いつけないよ」
すると醉象の追い打ちに対して、ようやく銀子が重い口を開いた。
「……醉象って、すごいね」
「ってことは図星なんだ」
銀将は絶句したまま、銀子たちのことを見つめている。その表情は厳しくあったが、主人に対してあまりにも遠慮無くものを申す醉象のことを諫めるような様子はなかった。
「図星なんかじゃない。将棋なんかで真剣になれるのがすごいってこと」
「銀子。本気で言ってるの?」
「私は本気で! どうだっていいのよ!」
言葉を投げつけて銀子は立ち上がった。
「大体、ふたりのせいで将棋なんて指すことになったんだ。金輪際こんなことにならないよう気をつけて!」
「ボクたちが軽率だったのは悪いと思ってる。けど……」
「けどって言うの、やめてよ! あんたたち私の部下とかそんな風に言ってたじゃない。いちいち嫌なこと言わないでよ!」
銀子の言葉は破綻していた。どうでもいいと答えておきながら、嫌なことを言わないで、などと告げている。もはやこの場は冷静になるまで、ひとまず言葉を収めた方がいいかもしれないと醉象が思った。
だから次の言葉を発したのは醉象ではなく銀将だった。
「……銀子さま。先に非礼を詫びておきます。ですが銀子さまの命には従えません」
「銀将!?」
醉象が驚いて銀将の顔を見ると、彼女の表情はいつになく険しいものになっていた。
「なんでよ。さっきまで黙ってたのに今度は銀将? ふたりで私のことを責めて楽しい? 今まできついこと言ったりした仕返しかな」
「違います。ご自分を傷つける銀子さまを見てはいられないのです」
「なによ……ッ。あんたたち、なんなのよ! 最初からおかしかったんだ。三年間ずっと苦しくて、でも我慢して、ようやく将棋のない生活に慣れてきたのに……。ふたりのせいで台無しだ!」
「銀子さまにとって、将棋はとても大切なことなのでしょう。私も醉象さまと同じ意見です。大切なものを傷つけている姿を見過ごすことはできません」
「もういいんだってば! 将棋なんてつまらないんだよ。こんなことで勝って負けて、一喜一憂して馬鹿みたい! 暗いし最低だよ。嫌なことばっかりで良いことなんて全然ない。苦しいばっかりで、もう見るのも――」
そのとき。バシンッという音が車内へ響き渡った。
あまりにも不意の出来事だった。
銀将が自分の頬を張ったとき、銀子には彼女の手の動きが見えなかった。剣道で手合わせしたときと同じだ。
でも――竹刀で一本取られたときよりも、体中が熱くなるような平手打ちだった。
寝ていた客まで目を覚まし、立ち会っている少女たちへ視線を寄せている。
「……銀子さま。私たちは敗軍の将兵です。力量足りず、顔向けできるほどの誉れは持ち合わせておりません。しかしながら誇りを失っては、戦へ赴くことすら叶わないのです」
ここまできたら最後までいくしかない。話のきっかけになった自分がただ驚いてはいられないと醉象が思った。これは銀子にとって大切なことなのだ。適当に途中で折り合いをつけるわけにはいかない。
「銀子。自分の気持ちからよそ見してるままだと絶対に勝てない。負け続けてるボクらが言えることじゃないかもしれない。けど戦おうとしないで、いつの間にか勝てるほど、戦場は甘くないんだ」
ときに従者の言葉というものは無責任である。それは立場の違いであり、立場の違いによって生まれてくる信念の相違である。臣下はすべてをなげうって、主のために戦うことはできる。だが戦の勝ちも負けも、主人である銀子のものなのだ。だからこそ立ち塞がる勝敗と向き合わなければならない。
しかし醉象の言葉の真意を理解しているはずの銀子は、それでもなお激昂しながら答えたのだった。
「なに、よ……! どうして私が引っぱたかれなきゃなんないのよ! あんたたち、それでも忠誠とか何とか言えるの? 私のために尽くすとか言ったくせに!」
「銀子さまに手を挙げたこと、後ほど重罰を受けるのは覚悟しております。ですが主君が苦しんでいるときに知らぬ存ぜぬと貫くことが、私には忠義だと思えないのです」
「だから負けてばっかりなんじゃないの? 主人が言ってることを素直に聞けないから、あんたたちは負けるばっかりなのよ!」
真実がどうであるのか、銀子はもう関係なくなっていた。ふたりの過去が嘘であってもいいし本当であっても構わない。どうであれ銀将の言葉は、銀子にとって素直に聞き入れることができないものだった。
将棋を嫌い、という言葉を否定されたら銀子は途方に暮れてしまう。
今まで友人も親も姉妹も、みんな分かっていて触れないでいてくれた。自分には将棋しかないことを知っていて、将棋に興味を失ったという嘘に付き合ってくれていたのだ。出会ったばかりの銀将たちに押し負けたら、惨めな自分の嘘に付き合ってくれた――周りの人たちの気遣いや、優しい気持ちはどうなるのだと銀子は思ったのだ。
けれど銀将は毅然とした様子で続けた。
「銀子さま、私も醉象さまも諦めてはおりません。次こそ仕えた主人に勝利をもたらすため、身命を賭して戦うことに一点の迷いもありません。ですが、銀子さまが逃げ惑っていては、戦いに赴くことすらできないのです」
「勝手なこと言わないでよ! そうやって期待されても困るだけ。そもそもあんたたちにそんな価値はあるの?」
「ぎ、銀子。それ以上は」
まずいと醉象が、銀子の次の言葉を察する。
自分はまだしも、銀将には聞かせたくはない言葉だった。
「それ以上って何!? たとえば綺麗な言葉で言ってるけど、実際は銀将と醉象が部下になった主人は、勝てなくて不幸とかそういうこと? でも土足で踏み込んできたのはそっちでしょ!」
「ぎ、銀子さま……」
「今さら哀しそうな顔したって遅いんだから。そうよ。私たちが出会ったことが不幸のなり始めだったんだ。だから、ふたりとも違う人のところへ――」
――と、吐き捨てるようにしゃべり続ける途中で、銀子はようやく銀将の目尻に反射した光に気がついた。同時に電車の扉が開くと、銀将は「申し訳ありませんでした」とだけ小さくつぶやいて、その駅へ降りていってしまった。
銀将が走り去ってから、腰が抜けたように銀子は座り込んだ。激昂し続けた自分に、彼女は今さらながら驚いていた。どうしてあそこまで感情を剥き出しにして、ふたりを傷つける言葉を吐いたのだろう。自分ではコントロールできないスイッチが入ってしまっていたようだった。
言葉が石のように重く硬くなって、なかなか口から出てこない。落ち着いて気持ちを整理していると、気がつけば次の駅まで九分しかなかった。
黙ったままの醉象へ、銀子が恐る恐るたずねた。
「ねぇ、言い過ぎたかな。……言い過ぎたよね」
「どうして?」
聞き返した醉象は驚いているようだった。
「どうしてって……。醉象もさっき止めようとしてたじゃない」
「うん。でも銀子は止まらなかった。最後までボクと銀将を叱責した。それで銀将も考えることがあったのか、勝手に降りてしまった。それで話は終わってるよ」
「終わってる? どうしてそう思うの」
「どうしてって……そりゃあさ。前にも言ったけど、ボクたちは銀子に恩義を感じてるだけなんだ。恨んだり憎んだりすることはあり得ない」
「でも、泣いてた……」
「ああ、分かった。銀将の涙を見たから不安になったのか。心配しなくても大丈夫。銀将もボクも、銀子への忠義が揺らぐことなんてない。むしろ冷静になったら、主君へ口ごたえした自分を恥じるだろう」
「そ、そういうものなの?」
「そういうものだよ。現に今のボクがそうだから」
「醉象……」
「銀子の言う通りさ。主君へ素直に従えない家臣は、暗愚か希代の名将のどちらかだろう。それは歴史が示すことになるけど、ボクも銀将も一度たりとて、主へ勝利をもたらしたことのない凡将だ。主人と言い争ってしまった自分を恥じるしかないんだよ」
「……思いっきり言い合ったせいでね、なんとなく冷静になれたの。それで感じたのは、やっぱり私が子供だったって。だから次の駅で降りて銀将のこと――」
「そうだとしても。きみは銀将のことを追いかけなくていいんだ」
「なんで。どうして」
「それはボクたちが銀子に忠誠を誓った駒だからだよ」
確信的にしゃべる醉象へこわごわと銀子が聞き返す。
「それってどんなに傷つけても、醉象たちは私の側から消えないってこと?」
「うん。ボクたちに出奔という選択肢は絶対にない。そりゃあ戦国の世は生易しい戯言は許されなかった。家のためには主人すら乗り換えて容赦なく切り捨てる。調略も内応も日常茶飯事さ」
「なのに酔象たちは一途なの?」
「前に話しただろう。ボクたちにかけられたのは呪いなんだ。呪われたあの日から、ボクも銀将も他の子たちも、人間であるときの名前を失った。ヒトであることを捨てたがゆえに守るものもない。主のために戦うことしかできない、駒の如き存在が、ボクたちなんだよ」
名前すら無い。それは果たしてどういうことなのか。銀子には想像もつかなかった。
「たとえ銀子から背中を斬られたって、ボクたちは銀子に背中を向けたまま、銀子のために戦うだけだ」
そこまで話してしまうと醉象は、銀子の肩に優しく手を置いて、次のように言った。
「だから銀将のことを銀子が追いかけるだなんて、意味のないことなんだ」
「じゃあどういう理由があれば、私が銀将のことを追いかけても、おかしくないの?」
銀子の質問が遠回しに飛んでくる。すると見透かしていたように、醉象は朗らかに笑いながら答えたのだった。
「そんなこと決まってる。銀子がね……、銀将のことを好きなら、何もおかしくない」
茶目っ気たっぷりの醉象の言葉。
銀子は呆気にとられたように瞳をおおきくした。
「ああ見えて銀将は臨機応変にモノを考えたりすることができる子だ。お金も持ってるし、ちゃんと帰ってこられるはず。行き先も分かってる」
「行き先も?」
「最初に銀子の学校へ行ったとき、途中まで将門がついてきてくれた。あの日、昼食がてらに連れて行ってもらったのが、さっき降りていった駅だった。美しい景色を、銀将はとても気に入ったみたいだったから」
「…………」
銀子の頭の中に、まだ仲の良かった父と母との記憶がよぎる。
「そういえば将門からの伝言を忘れてた。今日はすきやきっていう献立らしいんだ。ボクは初めてだから楽しみなんだけど、どんな食べ物なんだろう」
されば銀子は醉象へ、ひとつだけ伝言を残した。
「……しらたき」
「へ?」
「しらたきは残しておいて。それからお肉も。銀将、お腹空いていると思うから!」
「銀子!」
「すぐに戻る!」
見計らったように電車が駅へ着くと、銀子は駆け出してホームへ降りていってしまった。
「……はぁ。意地っ張りなんだか素直なんだか、よく分からない主人だね。ともあれ、好きなモノはしらたきっていうのか。忘れないようにしないと」
後ろポケットに入れた小さなノートとペンを取り出して、メモを取る醉象だった。