17話~引きこもり少女の卒業アルバム~
小学六年生の冬休みが開けてから、三学期は一日たりとて登校しなかった。六年生の三学期は、五年生までの年度終わりとはまったく違うものだ。私立の中学へ受験する子もいれば、大学進学を見越して東京へ引っ越す子もいた。子供っぽい男子に比べて、女子は思春期が始まっている。初めて化粧をした子がひとりでもいれば、それをみんなで意識し合った。そして自分はどうしようかと悩む。異性と付き合うということがよく分からなくて、誰かが誰かに告白すれば、女の子はグループで共有して悩んでいった。
周りの女の子たちと価値観や考え方の違いが顕著になっていったのは、屈辱の敗北を喫してさらに将棋へ没頭してからのことであるが、決定的に距離が生まれたのは不登校がきっかけだった。銀子という異端の子へ、燻っていた疑問や不満。それらが誰も見舞いにこないという事態を招いてしまった。幼なじみの香織でさえ、銀子が休んでいるときにたずねてこなかったのだから。
銀子は家にいる間、とても孤独だった。折しもその頃、長女である桂子の将来について、父と母の対立は深まり、子育てという問題で衝突していた。母は頑なに仕事を続け、父は子供のためという名目で、母の仕事を加速度的に嫌っていった。登校できないでいる三女のことを心配してはいたが、夫婦の衝突で手一杯であり、積極的に行動は起こせなかった。
それでも姉たちは心配してくれた。次女の歩実は、余っているから気晴らしに使いなよと言って、パソコンを妹へ与えた。ついでに教えてくれたのは多くのインターネットユーザーが集まる掲示板や、様々なサブカルチャーが集まる動画共有サイトだった。銀子は子供らしくスイスイと使い方を覚えていった。
そうして小学六年生のひきこもり少女が陥ったのは――さらなる孤独だった。
掲示板も動画共有サイトもメジャーである価値観は二十代前後の男性によって構成されている。それは利用しているユーザーの比率からして当然のことであり、銀子が掲示板に書き込んでも、返信はまともにつかなかった。
掲示板には「ガキが書き込むな」「まず社会経験を積め」「学校はどうした?」など、登校拒否を引き起こしている少女にはアレルギーとなる反応が並んだ。動画サイトのコメントにおいても反応は同じである。どこにも銀子を受け入れるような雰囲気はなかった。これがもし姿の見えないインターネットでさえなかったら、周りの反応は違ったかもしれない。傷ついて登校拒否に陥っている女の子へ、周囲の労る反応もあったかもしれない。だが性別年齢境遇など明らかではない仮想空間において、少女の未熟さはマイナスにしか働かなかったのだ。
もともとが社交的ではない銀子の引きこもり具合は、インターネット特有の剥き出しになった侮蔑や敵愾心に晒されることで、より一層酷くなっていった。
対して卒業を間近にひかえた教室では、スマートフォンを持つ子がちらほらと出始めていた。それまでも防犯グッズとして携帯電話を持っている子はいたが、中学生になる記念で買ってもらうことを約束した子たちが、ひと足早く買いそろえたのだ。見つかれば没収されてしまうものを持ってくるステイタス。密かにメールアドレスを交換したり、学生割り引きの時間帯に通話したりと、周りが思春期らしく情報端末へと触れ始めている間、銀子は姉から教えてもらったソーシャルネットワークへ登録していた。けれどいきなり四十代の男性から交際目的のようなメールが送られてきて頓挫してしまう。間もなく姉たちとの会話も虚ろなものになってゆき、少女はいよいよ本格的に心を閉ざしていった。
だがそんな引きこもり生活は、皮肉にもあるきっかけで終わりを迎えることとなる。
父と母がいよいよ別居を決意したのだ。母は実家がある東京へと引っ越すことになり、東京の大学を希望していた長女の桂子が同居する形で決着がついてしまった。小学生の傷ついた子供にとって、両親の不仲は重度のストレスを引き起こしていたが、離婚一歩手前の結果は、反対に彼女の針を吹っ切れさせた。
自分が原因かもしれない。自分が引きこもっていなければ、父と母は別居していなかったかもしれない。そんな思いを抱えたまま黙っていられなかった。
銀子は父と母に仲直りして欲しかったし、そのように懇願もした。
しかし両親の争いへ口を挟むことができないのは、いつだってその子供である。友人や社会的に立場のある他人の話を聞くことができても、親というものは総じて自分たちの問題を素直に子供へ晒すことができない。よく分からない言葉と言い回しで、銀子の願いは遮られ届かなかった。
だから少女は外に出たのだ。家の中にいたところで、両親の問題に口を挟めない。ネット上にだって、自分を受け入れてくるコミュニティなどありはしなかった。
引きこもって以来、銀子が初めて登校したのは小学校の卒業式だった。
それはまるで言葉の通じない外国へ初めてたずねたようで――誰も彼もが自分を遠巻きにしている。腫れ物に触れるのを避けているのが痛いほどに伝わってくる。得体の知れない異邦人を避ける、片田舎にある村八分のようだった。そのくせ多くのクラスメイトが倉敷家の事情を知っていた。両親が別居していて、姉妹も同居しておらず、三女は不登校児。そんな視線を感じながら、まともに言葉を発することなく、眼を瞑り、耳を塞ぐようにして、門出となるはずの卒業式を過ごしていった。もはや先生に隠れることなく、スマホのグループ通話アカウントを交換しているクラスメイトたちは皆、自分の噂をしているように見えた。
式典が終了して帰宅になると、卒業アルバムの終わりにある白紙のページへ、銀子は持っていたカラーペンで、自らクラスメイトたちの別れの言葉を書き綴った。教室を使おうとしたが、担任の先生に怒られてしまうだろう。彼は一度だけ見舞いにやってきた先生だった。
だから、少女に許された空間はトイレの個室だった。
父親を待たせている間、トイレの個室の中で、銀子の涙は止まらなかった。
悔しい。言葉にできないくらい悔しかった。それだけではない。悔しさを押し潰してしまうような寂しさを感じずにいられない。でも、寂しいと一言つぶやいてしまったら、そこでまた潰れてしまいそうだった。そうなれば懲りもせずに引きこもり女へ戻ってしまうだけなのだ。だから堪えなければならない。
卒業アルバムが白紙であるのを姉が見たら、きっと心配するだろう。そしたら父と母の間に、またしても要らぬ諍いを生むかもしれない。「おまえが家にいなかったから」「あなたが家にいたんだから」は聞き飽きた台詞だった。そうなることが薄々(うすうす)分かっていた銀子だから、香織を除いたすべてのクラスメイトの別れの言葉をカラフルな蛍光性のペンを使ってアルバムへ書き込んでいったのだ。
すると黒いマジックペンで書かれた、もっともシンプルで飾り気のないメッセージだけが浮いて眼に入ってくる。それは無言でやってきて一言だけ書いてくれた「中学校では仲良くしようね」という香織の、幼なじみがぎりぎりまで踏み込んでくれた境界線だった。
アルバムが涙で滲まないように気をつけていると、書き途中だった橙色のペンが手からこぼれ落ちて、床に落ちてしまった。慌てて拾おうとすると、間違えてつま先で蹴飛ばしてしまい、便所の個室から外へと転がっていった。もはや外に出て拾う気にもなれず、替えの橙色も持っていない。不自然にも途中で色が変わっているメッセージを銀子は恨めしく思った。トイレから戻ると涙の跡について父が訝しげだったが、卒業式だから顔を直していたと答えた。
三つの駅を過ぎ、扉が閉まると車内の人影はさらに減っていた。同じ車両には銀子たち以外、ひとりきりしかいない。異常なくらい静かで、白昼夢の駅へ止まってしまったんじゃないかと感じてしまうほどである。
それにしても寂しい。香織には悪い気がしたが、祖父が死んでから銀子は飢えていた。淀みが無くて遠慮もない、溢れるような愛情に、少女は飢え続けてきた。寂しいなどと感じる暇がなかった幼い時代が恋しくてしかたがなかった。
別居している両親は相変わらず素直になれないまま。そんなふたりへ気を使うことは慣れてしまった。剣道に逃避して仲良くなった友人たちは自分を癒やしてくれたが、彼女たちとは対等な立場だった。愛情を持って自分の側にずっと居て欲しい。ひたすら甘えさせて欲しい。そんな関係を一方的に願ったら、それは友人ではない。香織という親友でさえ癒やせない銀子のひび割れた気持ちは、今でも渇いたまま苦しんでいる。
そして――小さな頃から弱気になるのは決まって、将棋で敗北したときだった。
車窓の景色をぼんやり眺めていた銀子の瞳から、不意に涙がひとしずく垂れた。