16話~銀子と良美の対局の結果~
持久戦になった大将同士の決着がついたのは、二時間後の火点し頃だった。
沈み始めの夕日が教室の窓から差し込み、宵の口までは、残すところ三時間という風情である。
三つの将棋盤の内、良美の所有物はひとつだけだ。二つは部内の備品を持ち出しているので、終局が遅くなるようだったら声をかけなければと彌央は思っていた。
しかしながら勝敗は、誰かが口を挟む前に決まった。
銀子の惜敗である。
彼女の投了で団体戦は静かに幕を閉じたのだ。
「……うん。銀子が大きな失敗をしたわけじゃないけど、相手に無駄がなかったね」
暮れ泥んでいた時間の肩をそっと叩いて起こすように、醉象が静かな声で分析する。
「…………」
けれど銀子も良美も黙ったままであった。
口を閉ざしたまま、自らの敗北と勝利を見つめていた。
まず銀子が初手で6(ろく)八に飛車を振り、すると良美も3(み)筋へ飛車を振って、いわゆる相振り飛車の形になった。銀子が用いたのは四間飛車戦法。三間飛車の良美は、美濃囲いへと局面を進め、絵に描いたような持久戦の形になっていった。オーソドックスな形の銀子だったが、良美の囲いに対して、彼女の手はもたついているようにも見えた。
「醉象さま。私には分かりかねるのですが、銀子さまの無駄とは一体?」
「い、いいよ銀将。私も分かってるから」
銀子が慌てて口をはさむ。銀将は真意を測りかねるように黙った。
結果的に見れば趨勢は良美に傾き続け、終ぞ銀子が逆転することはなかったのである。
また対戦相手である将棋部の面々(めんめん)も言葉を失っていた。それはプロ棋士を父に持つ良美に対して、粘って指した一年生の強さへの驚きだった。形勢だけで判断すれば、最初の三十分で銀子は数手立ち後れていた。それなのにここまで粘るとは予想できず、ここまで銀子が強いとは想像していなかったのだ。
団体戦の全体的な流れとしては、まず対戦相手の弱さに驚いたのは副将である彌央だった。次に圧倒的とも言える棋力へ、一矢も報いることができなかった悔恨が、夏江を包むことになった。
銀将は弱かったが、醉象は恐ろしく強かった。香織に対局を分析できるほどの棋力はなく、副将戦と三将戦が終了したのはほぼ同時のことである。そして、四人とも初手から並べて感想戦をするよりも、大将戦を食い入るように見入ったのだった。
言いしれない沈黙が、みんなの真ん中に座していた。
それは結果然として、その場から動こうとしない現実のようだった。
ふぅと溜め息を吐いた醉象は、しかたがないといった様子で再び切り出した。
「過ぎたことを言ってもしかたない。こっちは大将戦と副将戦の敗北。一勝二敗で負けちゃったね」
「良美。どうするの?」
醉象の言葉へ彌央が続く。
「え、どうするって何を」
「何度も言うけど、あなたはもう部長なの。ちゃんと自覚して。魚住さん、勝負には部の勧誘へギンショウさんとスイゾウさんが協力するかどうかが賭けられていたということだけど」
「は、はい。副部長」
おぼつかない夏江の返答。彌央が視線を厳しくして告げた。
「けれど部の勧誘について、新入部員が口を出す権限はないはず」
「すみません……」
「それでどうするの良美。あなたが部長なんだから決めないと」
「ああ、うん……。じゃあ、それは無しってことでお願い」
まるでもののついでに決めたという様子だったが、最初から何かを賭けて対局をするつもりなど、良美にも彌央にもなかったのだ――が。
「良美?」
彌央は、幼なじみの腑に落ちていない様子が気になった。
「なに」
「……いいえ。でもいいの? そうするとこの対局の意義が無くなりそうだけど」
「そんなことないよ。こうやって倉敷さんと対局できたんだもん」
にこっと良美が笑って語りかける。けれど銀子は黙ったまま盤を見つめていた。
「ありがと、倉敷さん。評判通りだね。強かった。途中4(よん)六に角を打ってきたときは危なかったな」
すると銀子は……、唇を何とか動かしながら答えた。
「……いいえ。不甲斐なくてすみません」
「でも、ちょっと意外だったのは、パパから聞いてた棋風と違ったことかな。倉敷さんは、もしかして――」
「あ、あの、すみません! 私の家、母がいないんです。家事があるから、これで失礼します」
「え、銀子。でも今日の当番は――」
「ほら、醉象も銀将もさっさと帰るよ。魚住さん、これからは露骨な勧誘をしないように気をつけるから」
醉象の言葉を遮って銀子がさっさと席を立つ。
「銀子さま」
「失礼します!」
醉象と銀将のことを待たず、銀子は教室から出ていった。だが夏江も彌央も、さほど意外な様子ではない。将棋において負けることが苦手な人間は珍しいことではないのだ。さらに事情を知る香織は、銀子の内心をうかがいしることができる。これはトラウマ克服のための拒絶反応みたいなものだ。徐々に慣らしてゆく他に方法はない。
ゆえに、その場にいる人間で違和感を覚えていたのは、部長の良美だけだった。
高校から最寄りの駅までは十五分程度の道のりである。醉象たちが駆け足で主人のことを追いかけていると、県道に沿って伸びる道には、学生たちの姿がちらほら見えた。ほとんどが同じ制服を着た女生徒たちだったが、中には制服ではなくジャージ姿でランニングをしている生徒もいた。
「銀子さま! お待ち下さい」
「銀子! ようやく追いついた」
やがて追いついたとき、銀子は駅の改札を通り過ぎる寸前だった。
息せき切ったふたりの姿を見て、彼女が我に返ったように反応する。
「ご、ごめん。お金もってるのか知らないのに置いてきちゃった」
「それは大丈夫。往復分の路銀は将門からもらってる」
「そっか。ふたりとも学校へ来るのは二回目だけど、電車はちゃんと乗れるんだね」
「御館さまが懇切丁寧に教えてくれました。それに銀子さまが勉学へ励んでいる間、醉象さまとこの世界のことを勉強しております」
「そう。……なんだか、疑うのも煩わしくなってきちゃったね」
「銀子?」
「うん、私は納得するよ。前にふたりの話を信じるって嘘ついてごめんね。でもこれからは、もう疑わないから」
「あの、銀子さま。ご気分が優れないのであれば、そういったお話は後からでも」
「ううん、いいの。こだわるのに疲れてきちゃった。それに銀将の剣は本気ですごかった。普通の人間じゃない方が、今の私にとっては説得力があるんだよ」
語りながら、そそくさと定期券を改札にかざす。
「ほら。早く切符を買っておいで。家に帰ろう」
「……分かった」
「ホームで待ってるから」
そう言い残した銀子は駅の階段を上っていった。
「醉象さま。もしかしたら、あの、銀子さまは――」
「そうだね。欺きのうまくない主君だ」
「……銀子さま」
「銀将、早く中へ入ろう。今の銀子をひとりにしておくのは良くない」
「分かりました」
急ぎホームへ上がって見ると銀子はとくに何かをするわけでもなく、さりとてじっと何かを見つめている様子でもなかった。言わば放心しているような表情だったが、ふたりの姿を確認すると、彼女の方から声をかけてきた。
「よし。ちゃんとこっちのホームに上がってきたね。向こうのホームで電車に乗ると、家とは反対方向へ運ばれちゃうから気をつけること」
「了解。そういう忠告はひとつ漏らさず忘れないようにしないとね」
「御館さまからは、迷ったら倉敷神社という名前を出しなさいと言われています」
「そうだね。迷子になったら、神社の名前を出してたずねれば何とかなるよきっと」
その内、まだるっこしい三人の間へ割って入ってくるように、左手から電車がやってきた。
無言で乗り込むと、同じ車両には彼女たちの他に四人の客しか乗っていなかった。人々が学校や会社から帰ってくるまでにはまだ時間がある。制服姿の銀子、私服姿の醉象、そして巫女装束である銀将の三人組は異彩を放っているが、他の乗客は一瞥してから、すぐに興味を失ったようだった。衆目というものは互いに補完するものである。誰かが見ているから自分も見る。誰も見ていないのだったら興味が湧かない。
混雑時ならば、衆人環視の中で晒し者になる可能性もあった。銀子が安心した様子でロングシートに腰をかける。銀将と醉象は、彼女を挟んで両側に座った。
扉が閉まり電車が発車すると、まず参謀が口を開いた。
「この電車という乗り物。すごく驚いたよ」
「醉象さまがいらっしゃったときは鉄道がなかったのですね」
「うん。反対に馬車の無くなったことが少し寂しいね」
「戦闘機には乗りませんでしたが、私は戦艦に乗船しておりました」
「船か。それなら戦国の時代でも乗ったことがあったけど、それと違うのかい」
「違います。正確に申し上げると帆船ではないのです」
「へぇ。今ひとつ想像が湧かないな。もっと学ばないといけない」
「私もです。鉄道も姿形が変わっていますから油断はできません」
銀子は何もしゃべらなかった。表情はさっきよりも虚ろだ。ホームで話していたときより眼が弛緩しており、視線がふたりを見ておらず、焦点が定まっていない。何も考えていないように見えるがその実、彼女の頭の中には非常に様々な想いや記憶が駆け巡っていた。
そして電車に揺られながら、少女は引きこもっていた時のことを思い出していた。