11話~銀子vs香織。それからスマホをお届け~
「どうして、あんなに弱いんだろ……」
同時に一日の終業ベルが鳴り、銀子のつぶやきをかき消した。前夜の対局では緩めて指したが、朝は厳しく攻めてみた。三十分どころか。銀将は二十分と持たなかった。
「座り方とか指し方も綺麗なのに。誰も基本を教えてくれなかったのかな」
銀将は定石を指してこない。きっと純粋に知らないのだろう。だから銀将の駒には連絡がない。銀子にしても、彼女の手を正着に導こうという意図が薄かった。何より今の銀将では自分の思惑に気づくことはできないだろう。
「洗練された一手とは対極だったな。……対局だけに」
「なにが対局だけに?」
「うわっ」
気がつくと後ろに香織がいた。彼女は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしている。
「香織か。なんですか?」
「なんで敬語なのよ。今日はこの後、予定あるんですか?」
「ないです」
「それじゃ見学にきませんか?」
「剣道部ですか」
追求することはしない香織だが、明らかに困惑しているようだった。銀子の口から将棋に関わる言葉が出てきたことなんて三年振りである。どうやって触れればいいのか分からなかったので、香織は本題だけを話した。
「見に来るって約束したじゃん」
「見に行くよ。でも今日はちょっと」
「問題あるの? 他に予定とか?」
「スマホを家に忘れてしまって」
「ちょっと。それなら見学にくらい来られるでしょ」
「そうなんだけどさ。でも気がのらなくて。なんとなく」
「銀子って意外に携帯ッ子だったのか」
「そうです。スマホが無いと落ち着かない。部活どころじゃない」
嘘つけと香織は思う。付き合いは長いのだ。理由の見当はつかなかったが、明らかに銀子は剣道部へ気分がのっていない。おおかた気を使って、興味が湧かないとは言えないのだろう。
しかし、粘り勝ちということもある。少しばかりの沈黙が居座り、ふたりの間に居心地の悪い空気が漂い始めたとき、銀子は観念したように口を開いた。
「……ま、いっか。毎日メールする男の子もいないし」
「そう?」
「うん。昨日と今日はお父さんが夕飯の当番。明日は私の当番で買い物もあるから見学できないと思う。今日を逃すとまた遠くなっちゃうから」
「オーケー! それじゃ体育館じゃなくって、部室から案内させてもらおうかな」
陽気な台詞とは裏腹に、腑に落ちない塊が気持ちの種になって、香織の胸に落っこちてきたようだった。高校生になって銀子は少し変わったのかもしれない。気合いと共に竹刀を振り下ろし、鍔迫り合いをして、切り返す。一緒に汗を流していたのが、ほんの半年前だというのに、親友の隠しごとが香織には分からなかった。
環境が変わるって、こういうことなのかもしれない。
とはいうものの。胴着を纏い、面をつけた銀子と対峙すると、胸の内に広がりかけた霧は一気に晴れていくようだった。
「ヤァアアアア!」
「メーンッ!!」
気合いのこもった呼号が体育館に響き渡る。銀子と香織の力強い打ち合いに、隣のハーフコートにいるバスケット部員の視線が、剣道部の方へ引き寄せられた。オフェンス側まで足を止めてしまうと、ディフェンスは自陣へ戻ってゾーンを固めてしまった。
けれど呆気にとられたのは剣道部員も同じである。これまで県大会予選の二回戦すら突破したことがない部員たちは、銀子と香織の打々(ちょうちょう)発止に見とれるばかりである。
「すごいね。今年の一年生は」
「椎名さんが強いのは聞いてたけど、相手してる子は誰なの」
先輩たちが噂話をしていると、香織と同じく、すでに剣道部へ入部していた新入生が口を開いた。
「倉敷さんです。ふたりとは同じクラスなんですけど、香織ちゃんと倉敷さんって同じ中学出身で仲が良いんですよ」
銀子や香織とクラスメイトである中島順子は頼もしいふたりの姿を見つめて答えた。
「あれだけの実力だったら中学時代を知ってる部員がいそうなもんだけど。誰も知らないの? 中学時代に対戦してるとか」
先輩たちがそれぞれ思ったことをしゃべり出すが、明確に答えるものは誰もいない。
「無理ないよ。剣道は高校から始めたって子の方が多いんだから」
「相手してる子も、ぜひウチの部に欲しいね。椎名さんが入って弱小剣道部に希望の光が差していたけど、あの子も入れば大会はふたりでやってくれそう」
やがて試合は香織の二本先取で幕を閉じた。
終始攻められた銀子だったが、体験入部であり胴着から防具、竹刀も借り物である。
「受験明けなのにイイ動きしてたよ」
面を外しながら香織が所感を述べると
「どちらかというと鈍ってない香織に驚いた」
銀子も面を外し、頭の手ぬぐいを解いて答えた。
「でもないよ。銀子が本調子だったら分からなかったさ」
「練習してなかったしね。今はこれが精一杯」
「集中できるシチュエーションだったら、銀子はもっと強いと思う」
「そりゃ倉敷道場の娘としては、簡単に兜を脱ぐわけにはいかないわけで」
話ながらふたりが戻ろうとしたとき、先輩のひとりが声を上げた。
「ああ! そうか。思い出した。倉敷って、倉敷道場だったんだ!」
ぎょっとした銀子が振り返ると、意外そうに香織が聞き返した。
「先輩、知ってるんですか?」
「もちろん! 倉敷神社ってここらへんじゃ有名だからね。妹さんのことは知らなかったけど、お姉さんが有名じゃない?」
「げげっ」
銀子が思わず言葉に出して反応する。
「あー、私も思い出した。ユーチューブチャンネルに出てる人でしょ」
まずいと銀子が汗を拭う。まずい展開だ。墨色のような、姉たちの歴史や活動へ口を出すわけではないが、それで自分の穏やかな学生生活の歯車が狂うことは勘弁だった。
「せ、先輩。それよりどうでしたか。銀子の実力もすごいでしょう」
焦りながら香織が取り繕うと、部長を務めている先輩が一歩前に出て言った。
「うん。すごかった。ぶっちゃけ、ふたりとも私より強そう。椎名さんは入部してるけど、倉敷さんも前向きに考えてくれてるってことでいいのかな」
「銀子。どうなのよ?」
「そ……、そうですね。中学の時は三年間ずっと剣道部でした。他にやりたいことがあるわけでもないですし。高校でも剣道へ打ち込もうかなって」
そんな感じで、流されるように銀子が答えかけたとき。
体育館に凛とした声が響き渡った。
「銀子さま! 遅くなって申し訳ありません。お忘れ物を持って参りました!」
さっきまでの気合いの掛け声に優るとも劣らない大きな声。
信じられないといった表情で、銀子が振り返る。そして声を張り上げた。
「銀将!?」
「銀子。あの子たちは……いったい?」
ふたりは銀子へ会いに学校までやってきたのだ。
「やっほー。将門から届けてくれって言われてね」
香織が見たことのない銀子の知り合いというのは珍しい。
異邦人のような二人組へ、学生たちはまじまじと視線を注いだ。
最初に声を発したのは、見事な銀髪の少女だった。白髪というべきなのかもしれないが、絹糸のように艶のある髪は、美しい光沢を放っている。外国人っぽい容姿に対して、服装は和服だった。というか祝女が着る、赤の袴に白の袷を着ている。
なぜ?と香織の頭には疑問符が飛び交っていた。
もうひとりの見事な長髪の子は、黒く艶やかな髪を後ろで二つに結び下ろしていた。フランス語がプリントされた長袖のTシャツを着てジーンズを穿き、前開きのパーカーを羽織っている。
ふたりともただでさえ目をひくタイプなのに、揃って立つとミスマッチしている華が、さらなる好奇の目を引きつけてしまうようだった。
「銀子さま。こちらが御館さまから預かった物でございます」
彼女が手にしていたものは銀子のスマートフォンだった。新機種へ変更した次女から、高校の入学祝いと称して譲り受けたお下がりである。
「これが今の時代の寺子屋なんだねぇ。大きなところで驚いた」
「醉象さま、少しだけ違います。学校と呼ばれる教育機関です」
「そうなんだ。見たところ女の子しかいないみたいだけど。つくづく良い時代になったもんだね。女がこうやって学問に精を出せる環境があるなんて。ボクもこういうところで学んでみたかったな」
「ちょっと銀子。ふたりとも誰? 先輩たち、すっごい引いてるよ。私まで知り合いっぽくて居心地が悪いんだけどっ」
香織がささやいてたずねる。
銀子は何も答えずに銀将と醉象へ近づいて、ひそひそ声で迫った。
「ふたりとも、どうして学校まで来るのよ。スマホなんかあってもなくても、私はいいって知ってるはず。なんでそんなものをわざわざお父さんが心配して届けさせるのよっ」
「え、えっと。私にも心中察しかねますが……」
「それはボクと銀将が、銀子のことを将門に聞いたからじゃないかな」
「どういうこと?」
「神職の手伝いをしているときにね、将門に聞いたんだよ。銀子が日中に居る場所は、どういうところなのかって」
「それでお父さんが、実際にふたりを学校まで出向かせたってこと?」
「途中まで送ってもらったけどね。勝手が違ったから助かったよ。ボクや銀将にしても、銀子の居所の把握は重要だから将門に甘えたんだ」
「またそれか」
「銀子さま。図々(ずうずう)しくお邪魔して申し訳ありません! すぐに退散致します」
そそくさと引き返そうとする様子を見て、銀子は溜め息をついた。
そして諦めて言う。
「……はぁ。まぁいいけど。別に怒ってるわけじゃないから」
「そ、そうなのですか」
「いや嘘。怒ってはいるけど」
「ひぃ!?」
「でも……、来ちゃったものはしかたないし。そそくさと消えられても、ひとりで火消しする方が大変。まだ土地勘もないでしょ。帰る途中で迷われたら困るもん」
「ここに来るまでの道は、将門から丁寧に教えてもらったけどね。けどたしかに、問題なく帰れるかと聞かれたら。心配かも」
「私が甦った時代にも車はありましたが、様変わりした街の様子に改めて驚きました」
「だ、か、ら、いい? ふたりは私の話に合わせなさい。嘘でも何でもいいからっ」
苛立ちを込めて脅すように銀子が言う。余計なことをしゃべるな。嘘で切り抜けるから、と言外に含ませて。
「わ、分かったよ。ボクたちも銀子以外の人間に事情を知ってもらう必要はない」
「はい。銀子さまにお任せします」
「よし。私が今からみんなに紹介するから、ふたりはうんうん頷くこと」
「はい!」
「了解」