10話~早朝の対局・銀子と銀将~
翌日の朝、対局をねだるように瞳を輝かせる銀将に対して、銀子はどう態度を取ってよいものか困惑していた。
時間はというと明け方押しの五時である。
揺すられて起こされたわけではない。なんとはなしに目が覚めるといった表現が正しく、朝朗(朝ぼらけ)の雀のさえずりに、銀子が瞼を震わせただけなのだが、視界の端で感じ取ったのは、他人の視線である。
銀子の布団の横では、銀将が正座しながらこちらを熱っぽく見つめていたのだ。
そんな視線を向けられて堂々と寝ていられるほど銀子も鷹揚ではなかった。
「銀将って朝が早いんだね」
「主が目覚める前に起きねばなりません。床離れが悪くては警護の任も覚束ないのです」
とはいえこうも朝早くから部屋にそっと侵入されては元も子もない。しかも黙って部屋に入ったことについては気にしていない様子なのだ。
同じ部屋で寝かせて欲しいという銀将と醉象に、姉の部屋をあてがって断ったときから嫌な予感はしていたが、主君とか臣下とか護るとか、心の底から面倒な設定だなぁとつくづく呆れる銀子であった。
「そのわりには醉象が起きてこないけど」
「本来であれば醉象さまは幕僚の立場におられる方です。私のような一兵卒と比べるべくもありません」
ああ言えばこう言う。豆腐のような問答だ。銀将と醉象の間に、常人には理解不能な暗黙の了解があるなどと言われたらそれまでである。
「……いいけどさ。早起きしてもすることはないよ。ご飯の支度は私の当番だけど、こんなに早くから始めたら作り始めたら、御御御付け冷めちゃうもん」
「朝餉の支度は私も手伝います。ですから普段よりも早く済ませることができるかと」
「ならどうして、こんなに早く起こしたのよ」
銀子は朝が弱いわけではない。剣道部の合宿では香織を始めとして低血圧で朝が苦手な部員から不満を被るくらい、むしろ早く目覚めてしまうタイプである。血圧が高いのかどうかは分からないが、銀子は平熱も高めで朝は活動的だった。
さりとて用もなく早朝五時前に起きて活動を始めるタイプでもないのだが。
「それが、その。お勤めからのお帰り後にお願いするのは忍びなく……」
「んん?」
「いえ。決して毎日お願いしようなどという腹づもりではないのですが……」
「んんんっもしかして……?」
「い、一局。お相手して頂けないでしょうか!?」
「将棋かよ!」
「あああっ。厚かましい願いで申し訳ありません! しかし、昨夜の対局に胸を焦がしてからというもの、夜も眠れず」
「もうちょい鎬を削り合う内容だったら分からなくもないんだけどネ」
「力不足であるのは承知しております。なればこそ! 一日も早く銀子さまにとって対局の価値がある棋力を備えるよう、お手合わせ願いたいのです」
「お断りします」
「ひぃう?!」
徐々にふたりの性格を把握してきている銀子にとって、銀将の嗜好だけは要注意になりかけていた。ただの将棋好きと一言でくくれないくらい、彼女は執心である。
たまったものではない。
「銀将って、将棋にだけは謙虚じゃないんだね」
「はい! 閣下からもそのように評されました」
褒めてないんだけど、と口に出すほど銀子も大人げなくはない。
一度は断ってみたものの、しかたないなぁと思いつつ将棋盤へ視線を落とした。
「……はぁ。昨日の夜みたくゆっくりは指さないよ」
「ああ! それでは対局頂けますか」
自分の視線を追う銀将が喜びの声を上げる。
「ん。朝ご飯の支度があるから長考は無し。1分指しでいこう」
「はい! もちろんでございます」
しかたない。昨日は銀将のペースに合わせて指していたが、今日は速攻で攻め立てようと銀子は思った。しかたないのだ。一度手を合わせた上で、もう対局はしたくないと切り出すことの方が難しい。
負かされた相手から対局を拒否されるほど残酷なことはない。それゆえどんなに相手が弱かろうが、求められれば将棋を指してあげなさい、というのが祖父の教えである。
いそいそと盤と駒を用意する銀将を見て、銀子がたずねる。
「あのさ。……そんなに将棋が好き?」
「はい!」
胸の前で指を結び手を合わせ、彼女は主君の、次の言葉を待っている。
あまりに迷いがなく影も差さない臣下の返答に、銀子は思わず顔を緩ませた。
「……ふふ、そっか。しかたないなぁ……よし。それじゃ振り駒をお願い」
「銀子さま。ありがとうございます!」
「良かったね。銀将」
いつの間にか醉象まで起き出して、銀子の部屋へとやってきていた。
「ふたりとも、おはよう」
「醉象さま。おはようございます」
「おはよ。醉象も朝が早いんだ?」
だが醉象の方は、銀将と様子が違っていた。すでに身繕い(づくろ)を終えて、寝間着から着替えた銀将に比べ、醉象は髪も梳かしておらずパジャマのままである。
長く美しい黒髪に寝癖がついていた。
「……あ、しかしながら」
洋々(ようよう)たる面持ちで、銀子から歩駒を受け取ろうとした銀将が手を止めた。
「ん。どうかしたの」
ついた明かりが消えたように表情を曇らせた銀将へたずねると、彼女は言葉重く切りだした。
「私ばかりが銀子さまと指して、醉象さまが」
「あー、いいのいいの。ボクはそこまで将棋を好きなわけじゃないよ。っていうかこんな時間から正座して遊戯なんてできない」
「……そ、そうなのですか。申し訳ありません」
「あの、私も醉象と同じなんだけど」
醉象の言葉は銀将の表情を曇らせる。将棋への興味が薄いことを不憫に思っているような、できるのならば何とかしてやりたいと言い出さんばかりの落胆振りである。
すると察した醉象が朗らかに言った。
「将棋は昔と変わってないからね。それよりは様変わりした世の中の方が興味深い」
「醉象さまは、晩年の爺さまと銃器について調べておられましたね」
「銃器って、ああ。鉄砲のことだね」
「はい。爺さまと醉象さまの先見は正しくありました。私が最後に戦った大戦では銃器が必須となっておりましたゆえに。そして、それらを突き詰めた兵器と呼ばれる火砲や、大砲を搭載した大型の艦、最終的には航空機体による爆撃が戦局を左右したのです」
「へぇ、よく分からない言葉があったけど、そうなんだねぇ。爺は口うるさかったけど、情報を集めることなんかは欠かさなかったからなぁ。そういう意味ではボクが次に仕えることになった人も、先の時代を見通す力を持った軍略家だったよ」
「そ、ろ、そ、ろ、い、い?」
先ほど控えめなツッコミを無視された主君がすごんで口を挟む。
「す、すみませんっ。銀子さま」
「ボクはまたお蔵で本でも読んでくるよ」
「はい。いってらっしゃいませ」
「六時半を過ぎて、お父さんが寝てたら起こしてくれる?」
「分かったよ。銀子、手を抜かないであげてね」
「そうするつもりだから」
「そ、そう」
銀子の答えに淀みがないことを気づいたのか、それだけ言うと醉象は部屋から出ていった。主人には何やら漲る発憤さえあるようだった。
「振り駒は分かるよね」
「はい!」
銀子が歩兵を五つ銀将へ手渡した。
「昨夜も感じましたが、この駒の手触り。あまり使っておられなかったのですね」
「ま、まぁね。それよりも早く振って。さっきも言ったけどゆっくりは指さないからね」
「はい!」
五枚の駒を手のひらの中でよく振って混ぜる。そして銀将が盤上へ落とすと、表が四枚だった。表の枚数が多い場合は、銀将の先手である。逆に裏の枚数が多い場合は、銀将が後手となる。いずれも歩駒を振った側の先手裏番になるので、公式では上位者によって行われる作法だが、銀子は昨晩も銀将へ振り駒を与えていた。
自分では振る気になれない。
「ご飯を作るまでだから一分以内に次の手を指すこと。手加減はなし」
「はい! 望むところでございます」
銀将は意味ありげにうんうんと頷き、まっすぐな視線を盤に向けている。戦略を練っているのか気になったが、せめて三十分は持たせて欲しいなと銀子は思った。
だってこんなにも楽しそうに指しているのだから。
銀子は手を抜いて将棋を指すということが嫌いだし苦手だった。それは銀之亮に仕込まれた銀子のポリシーであり、決別していたとはいえ、将棋に対する彼女の真摯な姿勢でもある。
だからなるべく銀将が指しやすそうな形で勝負しようと決めていた。自分が勝負しやすい形をあえて避けるのも、またひとつの戦い方である。逆に言えば慣れた局面でのみ挑むことが、決して全力を尽くすことになるわけではない。慣れない局面で、相手の得意な形を受けて、全力を尽くす。そうすることによって見えてくるものもあるのだ。
「参ります。銀子さま」
「お願いします」
銀将の初手は3(さん)四歩。また同じ戦法で来るのだろうか。
彼女の初手を受けて、銀子は飛車を振った。昨晩と同じく銀将の戦法を限定させたりせず真っ向から受け止める。相手の動きを見てから戦う。
振り飛車というのは相手の戦法を受けて戦う配置だった。
ほんのわずかの間に自然と浮かんできた戦法を、眼を閉じて振り払い、銀子は盤と向かい合う。片や銀将はというと、透きとおるような肌には似つかわしくない濃密な集中力を瞳に湛え、居住まいを正している。
こんなにも将棋が好きなのに、どうして弱いのだろうか。
もし強かったら、私は彼女と指す気持ちになっただろうか。
パチッ。銀将が次に動かした銀を受けて、銀子は二十分も持つのか不安になった。