9話~祖父の記憶・後編~
銀子はこの年、県で開催される子ども名人戦で優勝して連覇することを目標に、道場でも将棋教室でも熱心に腕を磨いていた。大会当日のコンディションも最高だった銀子は、中学生になる前に小学生で一番強くなるんだと決めていた。そして体の調子が良くなくて、まるっきり将棋を指さなくなった祖父に報告するのだ。
だが意気込む銀子を完膚無きまでに負かしたのは、なんと二つも歳下の相手だった。
男の子に負けるのは初めてではない。たしかに男子は力強い将棋を指す。持ち駒の使い方も大胆で、予想もしないところに打ってくることもしばしばだ。しかしながら読みが図抜けている銀子は、それでも男の子より劣っているなんて自覚はまったくない。男の子相手に苦戦したとしても対等以上のレベルであると考えていた。
それなのに自分が初めて将棋大会で優勝した頃の、小学四年生という歳の男の子に負けてしまったのだ。読みも着眼点もあらゆる面で叶わずに完敗を喫した。よもや歳下で、こんな子がいるなんて。それは男の子と女の子の差を感じたというよりも、自分には無くて歳下の彼は持っていたという直感だった。
身震いするほどの目映い才能。
自分にはそれが無かったのだ。
意気消沈した銀子はその夜、大会の後で初めて祖父へ会いに行かなかった。会いたくとも顔を見せることができなかった。屈辱にまみれた銀メダルと賞状が見せたかったわけではない。自分がまったく叶わない相手がいるという現実が、将棋を教えてくれた祖父まで敗北してしまったようで、銀子にはそれが耐えられなかったのだ。
自分が指している将棋は、自分だけのモノではないという想いが強くなってゆく。
自分の才能は負けてもいい。
けれど祖父から注いでもらったモノが負けるなんて見過ごせることじゃない。
『銀子。準優勝おめでとう』という祖父の言葉は、父親から銀子へ伝えられた。
その夜、銀子は敗北の夢にうなされた。夢中で対局を遡る。囲いが悪かったわけではない。原因はもっと前だ。3(さん)三に寄せて打った銀でもない。そうして気がつくと、いつの間にか飛車を振るのかどうかまで遡っている。やがて明け方頃にようやくたどり着いた結論は、指す前から負けていたということだった。
今の自分とあの子とでは地力が違い過ぎる。どう足掻いても勝てない。
目覚めると寝間着は汗でぐっしょり濡れていて、下着にまでまとわりつくようだった。起き上がれない。汗びっしょりの服を脱ぎ、シャワーを浴びて着替えたいのに。
敗北はさながら呪いのようであり金縛りだった。
起きたばかりの意識がぼうっと火照っている。風邪をひいたように頬を染め、短く呼吸を繰り返す銀子の頭へ、それでも浮かび上がっていたのは、あの盤面だった。きっとこの敗北は一生忘れることができないだろうと小学生にして銀子は思った。
銀子の異変に気がついたのは起こしにやってきた長女だった。
それから三日三晩うなされた銀子は、夏の風邪をひいたのだと医者から診断された。
さらに二週間後、銀子はまた負けた。
県だけではなく市の将棋大会においても、小学生総合の部で準優勝。
優勝者はあの四年生の男の子だった。
夏休みが過ぎて三秋三ヶ月の間。銀子は今まで以上に将棋へ没頭した。寝る間を惜しんで棋譜を読んで研究し、定石の本も古いのから新しいものまで買い漁り、将棋漬けの生活を送った。
異性を強烈に意識し始めたクラスメイトたちは、卒業する前に誰々(だれだれ)に告白しようと相談したり、恐る恐る化粧を試してみたり。一歩また一歩と思春期の階段を上っていく。
一方、銀子はファッション雑誌すら買ったことがなかった。そんなことをしている時間とお金があるのなら、少しでも強くなりたかった。
今年度の大会は後一回だけ残っている。県大会と市の大会では負けてしまったけれど、今年の冬から県内にある将棋教室の交流を兼ねて、あるプロ棋士が主催によるトーナメント戦が予定されていた。あれだけ強くて、さらには県大会の優勝者でもある。彼は絶対に出てくるはずだ。
そのときこそ、研鑽の成果を見せてやると銀子は捲土重来を胸に誓っていた。
そして「あの子に勝ったよ」と入院したばかりの祖父へ報告するのだ。
おじいちゃんが、いつもの台詞で褒めてくれるように。
――だが現実は、健気な少女にも同様にして甘くなかった。
季節は冬を迎えていた。十二月の冬休みに開催された将棋教室の交流戦は、二回戦であの男の子と当たってしまう。そして予定調和の如く、そこでボロ負けしてしまい、惨敗したショックを引きずったせいか、その後の敗者戦でも負けてしまった。結局、交流戦は順位外という結果に終わってしまう。
しかし、銀子の心を本当に打ちのめしたのはトーナメント戦の結果ではなく、試合後に行った感想戦だった。
これまでに三連敗しているが、いずれも公式な大会での巡り会いだ。しかもその内の二回は決勝戦での対局である。銀子は二つ下の彼のことを宿敵のように思っていたし、敗戦を毎日のように思い返しては検討しながら、どうやって負かそうか思い描いてきたのだ。
しかし、感想戦の途中で彼はこのようにこぼしたのである。
「倉敷……銀子さん……あっ、そうか。夏の大会で戦った人なんだ」
聞けば県だけではなく、東京の将棋大会にも出場していたのだという。
彼は将棋が楽しくてたまらないと語った。
いつしか将棋そのものを苦しいことだと感じていた銀子にとって、彼のそんな言葉は冷たい水をかけられたようだった。
銀子は彼のことを自分のライバルだと考えていた。たしかに力の差はあるけれど、あの子と鎬を削り合えるのは自分だけなのだと執着していた。けれど彼にとっての将棋と銀子にとっての将棋には、大きな隔たりがあり埋めることのできない差があった。
幼い才能を摘むという言葉がある。それはつまり才気溢れる子供から、自分を研磨し努力するための気概を削いでしまうことだ。若い才能というものはいつだって剥き出しで相手への配慮ができない。痛みを知らないがゆえに幼い才能は折れやすいものなのだ。
将棋の大会が終わった後で、何の表彰もないまま帰るのは初めての経験だった。帰りの雪道を踏みしめながら、銀子が自問自答する。いつのまにか、自分の力が信じられなくなっていた。周りが認めてくれていた倉敷銀子の才能なんて、遠い過去の幻みたいだった。
自分よりも年下で、しかも将棋を覚えたのも自分より遅いという男の子。彼にとっては、銀子が今まで積み上げてきた時間や想いなど、数々(かずかず)の負かしてきた対局者のひとりに過ぎなかった。
銀子はおじいちゃんに会いたかった。小学六年生で手に入れたのは銀のメダルが二つと賞状も二つ。でも、違う。銀子が欲しかったのはそんなものではない。小さな子供が泣きじゃくって駄々数々(だだ)をこねるように、彼女の頭には同じ台詞が浮かんでは消えていった。
「また勝てなかった。どうすれば勝てるようになるのか分からないよ。
おじいちゃん。あの子、私よりもずっと強いの」
銀子は久しぶりに祖父の家をたずねようと決めた。秋頃はずっと入院していたけれど、最近は顔色も良くなって、祖父は病院に近い別宅へ戻っていた。貯金箱の中身は三万円を超えている。お土産は立派な将棋盤だ。祖父は喜んでくれるだろうか。祖父に会えば、あの子に勝てる方法が分かるような気がした。
クリスマスが過ぎると、まるで家出をするみたいに朝早く。父と母が起きる前に銀子は家を抜け出した。これならおじいちゃんも自分が来ることを知らないはずだ。大晦日の前日に祖父の家へ、家族みんなでおとずれる予定だったが、いきなり自分がひとりでやってきたら驚くだろうなと彼女は思った。
それに立派な将棋盤もある。これで将棋を指して教えてもらおう。自分より強い相手に勝つためにはどうすればいいのか。おじいちゃんなら知っているはずなのだ。
慣れない電車を乗り継ぎながら、何度か道を間違えて、銀子はようやく祖父の家にたどり着いた。ひとりで来たのは初めてだった。
日の出より前に家を出たはずなのに、朝日はすっかり昇ってしまっている。
だが、しかし。祖父の家の扉を開けると、そこにはなぜか父と母がいた。両親は驚いていたが、もっと驚いたのは銀子の方だった。携帯電話で母が、銀子を探さなくていいと桂子と歩実に連絡していた。
何があったのと銀子がたずねると、父は一度だけ目を閉じた。
それから深呼吸をして教えてくれた。
――おじいちゃん、死んじゃったんだ。
自分よりも強い相手に勝つにはどうすればいいのか。
祖父はとうとう銀子に教えることなく逝ってしまった。
傷心と迷い。恩返しをする暇もなく祖父は死んでしまった。さらに訃報を境にするようにして、父と母の仲は子育てを巡り険悪になっていった。長女の進学について両親の意見はまったく噛み合わず、祖父が亡くなってから、銀子はすべてのことに嫌気が差してしまった。
年が明けて六年生の三学期が始まっても、銀子は学校へ行こうとはしなかった。姉たちの助力もあり鬱病といったストレス障害には罹患しなかったが、彼女がようやく外の世界へ出ていけるようになったのは、春を迎えてからだ。小学校の卒業式には何とか這いつくばるように出席した銀子だったが、久しぶりに姿を見せた彼女は、クラスでも近寄り難い存在になっていた。道場でずっと一緒だった香織と挨拶したのも数ヶ月ぶりのことだった。やがて――まともな学生生活をを送れるようになったのは、剣道のおかげによるものなのだが、それはまた別の話である。
銀将との対局で使った将棋盤は、銀子が祖父へ贈ったものだ。終ぞ使われなかった盤だが、他の将棋盤や駒を処分した銀子も、これだけは捨てることができなかった。
春にして思えば、うっすら頭の片隅で、銀子は気付いていたのだろう。老人を慕うことの切なさと時間の無情さを、彼女は無意識的に感じていたのだ。祖父を想い、恩返しをしようとすれば時間との戦いになる。愛しているほどに強迫観念は増してゆく。自分の将棋が祖父のものであるかの妄執でさえ、銀子による敬慕の副産物だった。
最後に祖父へあやまりたかった。ごめんなさいと言わせて欲しかった。勝てなくてごめんなさい。負けた理由にしてごめんなさい。最後に顔を見せられなくてごめんなさい。
だが彼女の想いは、祖父からすれば見当違いである。祖父が願ったのは銀子があやまることではなく、前を向いて健やかに生きてゆくことなのだから。
ゆえに銀子にとって致命的だったのはあやまれなかったことではない。
逃げ出したことだった。