プロローグ~少女たちの黄泉がえり~
【天文二十四年(1555年)】
「爺さま!」
甲走る叫び声が部屋に響く。一乗谷の奥屋敷。孟秋の候、襖の外からは未だ夏虫の鳴き声が聞こえていた。さながら命を焚いた後で燻っているかのような、未練がましくも耳障りな虫の声だった。
寝所には、今にも息を引き取ろうとする老翁が床に伏している。
生涯をひたすら戦いに明け暮れた老将は、軍神とも畏怖されたが、命というものはほんに儚いものだ。取り巻く少女たちは九人もいた。それぞれが思い思いの言葉を吐き、中には慟哭してやまぬ子さえいる。
明け方になり、不意に意識を取りもどした翁は、息も絶え絶えに少女たちへ告げた。
「……すまぬ。おまえたちには苦労をかけた。これからも艱難辛苦が待っているであろう」
「しゃべってはなりませぬ! どうか、ご自愛を――」
「よいから、聞け。おまえたちへ最後の言葉だ」
「じ、爺さま!」
「落ち着きなさい銀将。翁殿の言を、私たちは胸に刻まねばなりません」
「っ……」
「よいか、おまえたち。決して忘れるな。武者は犬ともいへ――」
【慶長五年(1600年)九月十五日正午】
じりじりと陽に灼かれた関ヶ原では灼熱の大戦が巻き起こっていた。
近習が担ぐ輿に乗っている将へ、少女が大声を張り上げる。
「刑部殿! 予見していた通り、松尾山にて鬨の声が上がっております」
すかさず兵たちを鼓舞するため、武将は輿の上から叫んだ。
「皆の者、これより人面獣心と化した秀秋を討つ! 頃合いや良しと言うまで引きつけよ! 為広殿と醉象に従うのじゃ」
采配に呼号して鯨波が上がる。面差しを頭巾で隠し、甲冑を身につけず蝶の直垂を着た知勇兼備の将は、自分の元へ情勢を伝えていた少女に声をかけた。
「醉象、頼むぞ。我はもう目が見えぬ。お主が目となって戦況を伝えよ」
「は! この醉象、命に代えましても本陣を死守してみせまする」
「有り難い。わずかな間とはいえ光を失ってなお、お主のような家臣を持つことができて、わしは本望じゃ」
しかし臣下は主君の言葉に対して、いささかなりとも破顔せずに答えた。
「お言葉ですが、刑部殿。我が主は未だ本懐にございませぬ。真なる本望とは、逆心である秀秋の首を上げ、内府を退け、そして治部殿と共に秀頼さまによる天下の号令を成し遂げることにございます」
「……うむ。そうであった」
将と近衛のやりとりはそこで終わりを告げ、差し迫った叛徒たちを寡兵で迎え撃つ。
「退くな! 退いたら死線を越えられぬと思え! 押し戻せぇえええ!」
醉象と呼ばれた少女の怒号に、練度の高い兵たちは死にもの狂いで従った。
「よし! 為広殿に続け! 向こうの山まで斬り込むのだ」
松尾山へ敗走を遂げてゆく小早川勢は、寡兵の大谷勢に押し戻された。押し返した数は三度を超える大善戦。東軍へ寝返った小早川秀秋隊は松尾山に一万五千の兵を布陣しており、対して大谷隊は六百人。他の武将の諸隊を合わせても六千に満たない数であった。
死中に活を拾う者。累々(るいるい)と転がる死人を踏み越え、死憤の兵と記された大谷隊は、まさしく獅子奮迅の働きを見せたのだ。
だが、しかし。傍観していた脇坂・朽木・小川・赤座の四隊までもが背信する。背後にも敵を抱え、大混乱に陥った大谷勢は猛攻を受けて壊滅してしまったのだった。
大谷刑部吉継の死は、西軍を浮き足立たせるものであり、天下分け目の合戦を左右するものであった。
「くっ…刑部殿……」
積み上げられた死体の山。主君の死を見届けた少女は、六本の矢が刺さったままの体を引きずり、折れた刀のように倒れ込んだ。
少女の行方は誰も知らない。
【昭和二十年(1945年)六月十三日】
沖縄への航路における船団防衛を任務としていた日本海軍第四海上護衛隊は五月の内に消滅し、少女は沖縄方面根拠地隊へと編入された。沖縄守備隊の任を授かることとなったのだ。
不沈艦と呼ばれた戦艦大和が撃沈し、戦線は沖縄本島北部を制圧されてなお、首里まで退いて激しい抵抗を見せていた――が、六月を待たずして首里市を制圧されてしまう。
ゆえに司令官付きの沖縄方面根拠地隊は、陸軍守備隊とは別行動をとりつつ、徹底抗戦を敷いていた。
「ねぇ、おねえちゃん。どうして逃げないの。後から来る?」
「ええ、もちろん参ります。ですから先に逃げておいて下さい」
「本当に、本当に来る?」
「はい。本当です。約束しましょう」
「……うん」
まだ児童と呼ぶべき伝令はうなずき、南下する部隊へ合流するため橋頭堡から出ていった。果たして自分の運命を薄々と感じていたのか、幼子では計り知れない。言葉を交わした銀色の髪の少女は、ただその子が生き延びることを祈った。
「閣下。一時もせずに敵兵はここまで侵攻することでしょう。どうかお逃げ下さい」
だが彼は首を横に振った。幕僚扱いである少女の言葉であっても、もはや揺るがない信念がある。予想通りの反応に、だが銀髪の少女は落胆の色を隠そうとはしなかった。
「……分かりました。それでは本陣の守備はお任せ下さいませ。どうか最期まで早まらぬように。この銀将は祈っています」
間もなく少女は守備として塹壕まで出向き、そこで敵兵を迎え撃ったのである。
戦闘は激しいものだった。まず砲弾が段綴りに敷いてあった壕を縦に掠め、後方に備えていた若者たちの命を一瞬にして奪った。だが少女は我慢している。引きつけなければ的になるだけなのだ。降伏は許されない。本来であれば保護されるはずの市民にさえ特攻命令が下っているのだから。銃を持ち剣を振るい、ひとりでも多くの敵兵を殺さなければならない。それは自分の死を免れるための決意ではなく、最期の最期まで勝利のためにという少女の決志であった。
まもなく敵軍による制圧部隊の兵士が侵攻を開始すると、ようやく少女の怒号が響き渡った。
「突撃! 何があってもここを死守します!」
喊声が上がり、市民すら編入された斬込隊は一斉に敵陣へと押し寄せた。
だが近代兵器の前に、銃剣すら持たず手榴弾を持っただけの学徒など物の数ではない。特攻に対して、敵は一旦退くことができるほどの余裕がある。
ゆえに飛びだした少女は、深く深く、敵陣へと斬り込んでいったのだ。
「破ぁ亜ぁ阿あ亜阿阿あ――!」
砂地を駆ける体躯は、周りにいる敵味方の兵士と比べて身軽である。
飛びだしてきた少女を狙い澄ましたかのように銃弾が降りそそいだ。
「ガぁッ――?!」
軍刀を握っていない少女の左手の甲の半分が消し飛んだ。弾丸は右耳を抉り頭部を掠め、多量の血が噴き出した。しかし顔中を血だらけにした少女は前進を緩めない。
そして、後ろへ退いていた敵兵に少女が追いついた。と同時に軍刀を思いきり切り上げる。振り返った敵の右手首を切り落とした。
片手首を失った兵士は、もう銃を撃つことができなかった。左手だけでは照準すら合わせられない。膝をつき絶叫している相手の肩を踏み砕いて、少女はさらに飛んだ。男に比べ身は軽いとはいえ、軍靴で思いきり土台にされたのだ。手首より下が残っていた左肩も骨が砕け、敵兵は叫喚した後で失神するように倒れてしまった。
敵軍の指揮官は、まだ遠い。跳ねるようにして突進する少女は、さらに奥へいた兵士の首へ軍刀を突き刺した。だが同時に、兵士も少女の腹を銃弾で撃ち抜いた。刺した軍刀を横になで切り首を飛ばすと、少女は膝をつき、剣を砂地に突き刺してかがみ込んだ。血と共に力が抜けていくようで腰から下の感覚が鈍くなる。腹部の臓器が壊れていた。
唇を噛んで視線を上げると、銃を構えた兵士たちが銀髪の少女を取り囲んでいた。何かしゃべっているのだが、彼女は兵士たちの言葉が分からなかった。
目の前の兵士が、少女の額に銃口を当てる。
――だが、その瞬間。
少女の体へ身に覚えのある戦慄が走った。
まただ、と彼女は一瞬にして理解し、そして失意する。
また護れなかった。勝利をもたらすことができず、主君は命を絶ったのだ。
臣下にして、これほどの慚愧に堪えぬ結末が、他にあろうか。
「閣下……」
つぶやいた少女は、残りわずかな最期の焔を瞳に灯し、軍刀を横一文字に回転させた。
予想もしなかった反撃に、両足の膝から下を失った兵士たちが発砲する。それは少女の髪ごと頭蓋骨を抉っていった。だがそれすらも少女は気に留めない。彼女は周りを囲んでいた兵士たちを、ただひたすらに惨殺していったのだ。
やがて少女が倒れると湧いて出てきた敵の兵士たちが恐る恐るその死体を確認するために近づく。悪鬼羅刹とはまさしく彼女のような者である。銃弾が何発とその身に食い込もうとも、少女はまったく怯まなかった。損傷は致命傷であり、途中で血を吐いて意識を切ってしまった方が、どんなに痛みのなかったことであろうか。
だが、死に絶える最期の最期まで。
彼女は卓越した身のこなしで軍刀を振るい続けた。
しかしながら、どうにも不可思議である。死体を確認するため、少女が倒れたはずの場所へ兵士たちがたどり着くと、彼女の遺体はどこにも見あたらなかった。多量の血痕が砂地に残っているのにも関わらず、体だけはどこを探しても見あたらない。
兵士たちは身震いしながらキャンプを張った。
あれは本当に鬼ではなかったのか。日本人なのに、どうして銀色の髪をしていたのだろう。身に纏っていた軍服は日本海軍のものだったが、あの少女だけは違うのではなかろうか。
その夜、野営では密やかに『銀髪鬼を見た』という噂が立った。
そして、現在。昔と変わらぬ梅と桜が、列島で咲き乱れる四月の頃――