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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

王子と王女の婚約

王子と王女の婚約破棄

* * * * * * * * * *


「――アンゲリーナ・ミハイロヴナ。貴方との婚約を破棄しよう」


 そう言うと、彼女は淑女のように微笑んだ。


* * * * * * * * * *


 アルトゥール・ミハイロヴィチ・セロフ、あるいはアンゲリーナ・ミハイロヴナ・セロヴァ。

 彼および彼女は私の従兄にして従姉であり、たった一人の幼馴染であり、無二の親友であり、誰より愛した人だった。

 では、彼女にとっての私は何者か。アルトゥールとアンゲリーナにとってのキリル・イヴァーナヴィチ・ライコフは。

 その答えは明確だ。従弟にして幼馴染かつ親友、そしていずれ討つべき憎い敵――――違えてしまった私達の道は、二度と交わることがない。


*


 きっかけは、とある年に起きた、ほんのささいなことの連続だった。

 いや、それをささいなことだったと断じるのは、罪からの逃避に他ならないか。



 春。母が招かれた宮殿での茶会で、暇を持て余した幼い私は大人の目を振りきって一人遊んでいた。まだ十歳だった私にとって、婦人達のおしゃべりを聞くのは退屈の一言に尽きたからだ。

 人気のない廊下や階段を遊び場にして、同じように脱走の機をうかがっているであろうアルトゥールの訪れを待っていて。やんちゃ盛りの私達は、抜け出すタイミングこそ違えども目配せだけで意思を通じ合わせていた。

 果たしてアルトゥールはやってきた。しかしそれは運悪く、ちょうど私が階段を一足飛びに駆け下りていた時のことだ。


「わっ!? ご、ごめん!」

「気をつけてくれよ、キーラ」


 その時の私は、あと一歩で踊り場に到達できるという興奮に取りつかれていた。だから、角から現れた親友に気づかずぶつかって、彼を巻き添えにして倒れ込んでいた。

 くすくすと笑う声や呼びかけられた愛称から、自分が下敷きにしてしまっているのがアルトゥールだとわかった。けれど触れたアルトゥールの身体は、なんだか私のモノとは大きく違っているような気がした。まるでこれまで見ていたアルトゥールが、本当のアルトゥールではないような。

 私よりも華奢なのに、私よりも背の高い私の従兄。たった三ヵ月の差で年上の座を勝ち取ったこの幼馴染は、しかし私よりもずっと強くて賢く勇敢だった。


「キーラ?」


 微動だにしない私を見て、アルトゥールは怪訝そうに瞬きした。彼との距離は、吐いた息を互いに吸い込んでいそうなほどに近かった。

 まだ遅くなかった。即座に飛びのくべきだったのだ。彼の上からどき、笑いながら非礼を詫びて、許してくれたアルトゥールと一緒に何か別の遊びをはじめるべきだった。

 それなのに、私にはそれができなかった。なんだか頬が熱くて、きらきらした黒曜石の瞳から目がそらせない。押し倒してしまった身体はとても柔らかくて、ほのかにミルクの甘い匂いがした。

 

「……なんでもない。ごめんよ、アーチャ」


 なんだか、得体の知れない悪魔に心が乗っ取られたような気がする。その悪魔を追い出したくて、私はぎこちなくも笑いながらのろのろと立ち上がった。アルトゥールは、特に気にしていないようだった。



 夏。毎日のように私とアルトゥールはおよそ様々な遊びをしていた。

 この国はとても寒いが、夏ともなれば暑さのほうが勝つこともある。だからたまには森の奥の川に行って、思いっきり水を浴びたい気分になるのだ。私は泳げないし臆病だから、岸辺に座って川につけた足でちゃぷちゃぷと水面を蹴飛ばすぐらいのことしかできないが。

 泳げないのはアルトゥールも同じだったが、彼には無謀とも呼べるほどに勇気があった。大人達、特にアルトゥールの父親は、アルトゥールが水辺に近づくことを禁じていた。しかしその誓いが夏に守られることはほとんどなかった。

 

「君もこっちにこいよ! 僕と一緒に水かけ遊びをしようぜ!」

「水かけ遊びなら、岸辺でもできるじゃないか。君がここまで来てくれよ」


 アルトゥールはズボンのすそをまくりあげ、浅瀬を我が物顔で横断していた。岸辺から動けない私を、彼はいつだって同じようにはやし立てた。

 小石だらけの浅瀬を裸足で歩くなんて、正気の沙汰とは思えない。いくらふくらはぎ程度の浅瀬でも、転んでしまうことはある。だから私は決して立ち上がらなかった。


「まったく、君は本当に怖がりだなぁ。この程度、なんてこともないのに」


 アルトゥールは一度も転んだことはなかった。けれど去年も一昨年も、私は全身ずぶぬれになっていた。むきになって立ち上がって一歩踏み出そうとすれば小石のこけやら水の流れに足を取られ、あるいは魚に驚かされて体勢を崩してしまうのだ。

 今年もきっと、私はアルトゥールの前で無様に転んでしまうだろう。そして彼は腹筋がよじれるほどに大笑いするのだ。どんなに挑発されたとしても、もうそんなわかりきった失敗はしない。私はふてくされ、ぷいとそっぽを向いた。

 私が前を向いたのは、どぼんと大きな音がしたからだった。驚いて視線を戻すと、アルトゥールの背中が浮かんでいた。起き上がったアルトゥールは、信じられないというような顔で目をぱちくりさせていた。

 転んだのだ。彼が初めて、私の目の前で。きっと彼は私がてこでも動かないとわかって、諦めて岸辺に歩み寄ろうとしたのだろう。そして、いつもの私と同じような理由で滑ってしまったのだ。


「アーチャ、怪我をしているの?」

「怪我?」


 くすりと笑って――――ふと気づいた。アルトゥールは一滴の血だって流していない。けれど私は気づいてしまったのだ。むすっとしながらシャツの裾を絞る彼の腹の上のほうにちらりと見えた、その肌を直に覆う白い包帯の存在に。


「だって、君、包帯を巻いてるじゃないか」

「ああ、これ(・・)のことか。これはさらしだぞ。何を言っているんだ? 胸にさらしを巻くのは常識じゃないか。下着と同じだよ。君だって巻いているだろう」

「え?」


 そんな常識、初めて聞いた。彼の一族、王家のしきたりなのだろうか。

 けれど父上はそんなことはしていない。私に―アーチャ曰く違うらしいが―包帯を巻けと言ったこともなければ、父上がそんなものを巻いていることもなかった。父上だって、継承権を持つ王族なのに。父上は王族であり、それに誇りを持っている。しきたりを守らないわけがない。

 アルトゥールがあまりにも自然だったので、そのなんとか(・・・・)というものについて彼にそれ以上聞くことはできなかった。だから代わりに、家に帰ってから父上に尋ねた。


「父上、胸に包帯を巻くのは常識なのですか?」

「一体何を言っているんだ?」


 ……どう答えればいいのかわからなくて、私は適当なことを言ってお茶を濁した。



 秋。その日はアルトゥールの十一歳の誕生日で、私達一家は当然のように宴に招待されていた。

 しかし両親は大人達と話してばかりだし、アルトゥールも大人と囲まれていたので、私は必然的に他の友人達と一緒にいた。彼らのことは決して嫌いではなかったし、私のような臆病者のことも丁重に扱ってくれるのは心地よかった。

 けれど彼らは、いつだって私に対してよそよそしい。私達の関係は、友人ではなく主従と言っても差し支えがないほどだった。何故なら私は現王の弟たる大公イヴァンの息子で、ライコフ家の嫡男で、王位継承権第三位という地位にいたからだ。だから私にとって対等な友人は、王子アルトゥールしかいなかった。

 やがて私も大人に囲まれ出した。面倒なことになる前に、私は一人で大広間を抜け出した。なんとなく今は人に会いたくなくて、使用人の手すら借りたくなかった。どこか手ごろな控室がないか探しているうちに、廊下をふらふら歩くアルトゥールを見つけた。


「アーチャじゃないか。今日の主役が、一体どうしてこんなところにいるんだい?」

「手洗いの帰りだよ。少し気分が悪くてね。君のほうこそ、伴もつけずにどうしたんだ?」


 振り返ったアルトゥールの顔は真っ青だった。しかし私の頭の中で、この元気な幼馴染と病気のたぐいが結びつくことはなかった。食べ過ぎたか、あるいは間違って強い酒でも飲んでしまったに違いない。私は彼に肩を貸し、目についた狭い控室に入った。


「キーラ、君は僕の友達だよな? もし僕が死んでも、ずっと友達でいてくれるか?」

「何を言ってるのさ? そんな不吉なこと、口にするのはやめてくれ。大丈夫、何があっても私達はずっと友達だよ。当たり前じゃないか。そんなに不安だって言うなら、ここで神に誓ってもいいけど」


 アルトゥールは苦しそうだった。お腹が痛いのか、手をお腹に当てていた。こんなに体調が悪そうなのに、わざわざわかりきったことに意識を割くなんて。少しむっとして答えると、彼は「そうだな」と力なく笑った。


「神に誓おう。何があっても、私達は友達だ」

「ああ、誓おう。僕らの友情が、永遠であることを」


 コートを脱いで、アルトゥールはベッドに横たわった。大きな黒曜石の瞳が、縋るように私を見上げていた。


「どうか、内緒で医者を呼んできてほしい。血が止まらないんだ……」

「血!? 大変じゃないか! どうしてそれをもっと早く言わないんだ!」


 一体何があった。まさか暗殺者が現れたのか。けれどそれすら尋ねる時間も惜しくて、私は急いで侍医を探しに行った。

 アルトゥールはどこを怪我したんだろう。命にかかわるものなのだろうか。ずっと彼の傍にいたかったが、あっさりと侍医につまみだされてしまった。私が医者を呼んだのに。

 それでも心配だったから、私はこっそりドアの隙間から診察の様子を見ていた。王族の主治医である侍医は、その時は助手や看護師の一人すら連れてこなかった。侍医はアルトゥールのことしか見ていなかったから、部屋の様子を覗き見するのはたやすいことだった。


「ついにお迎えなさったのですね。これは月のものですよ。初めてのことですから、戸惑いなさったのでしょう」

「これは一体どういう病だ? 僕は死んでしまうのか?」

「まさか。病などではございません」


 侍医の言っていることはよくわからない。だが、アルトゥールが死んでしまうような病気を患っているわけではなかったのでほっとした。

 侍医はアルトゥールに、何かの薬を処方した。国王達には自分が言っておくのでしばらくここで休んでいるようにと告げた。侍医は部屋に据え置かれた寝巻きを用意し、アルトゥールの着替えを手伝った。

 侍医は彼のジレを脱がせ、シャツを脱がせた。あの包帯のようなものは、やはりアルトゥールの胸元を覆っていた。


「お休みになるのに、これでは苦しいでしょう」

「ああ。寝るときはいつも外しているぞ」

「では、失礼いたします」


 侍医は彼の包帯にそっと手をかけた――――アルトゥールの胸は、わずかに膨らんでいた。

 薄い胸板の上に、手のひらで覆い隠せてしまいそうなほど小さな脂肪の塊が二つ。それは私の胸のありようとはまったく違う。私にそんなものはない。

 それが意味することは知っていた。あの日悪魔が囁いた理由を初めて理解した。私はなるべく静かにドアを閉め、その場から一目散に逃げ出した。心臓は早鐘のように脈打ち、ほてった頬は地獄のように熱かった。



 冬。王は正式に、アルトゥールを王太子と定めると告げて彼を王位継承者に指名した。まだ子供のアルトゥール。彼の継承権は二位から一位になり、次期国王は父上ではなくアルトゥールだと決められた。

 それ自体はずっと前から、いずれこうなると言われていたことだった。隣国から嫁いできた王妃殿下は、アルトゥールを産んだ時にお隠れになっている。国王陛下は妃殿下を深く愛していらっしゃったので二番目の妃を娶る気がない。だから現王朝の王家の直系の子はアルトゥールしかいなかった。

 けれど私は知っていた。この国において女性の継承権は認められていないことも、アルトゥールが“王子”でないことも。


「アーチャが次の王様なんておかしいです。アーチャは王様にはなれません。だってアーチャは、女の子なんですから」


 アーチャは女の子だ。だから、男の子(わたし)が守らないと――――父上の前で放ってしまったその言葉が、すべての元凶だった。


*


「王は民を欺いた! 王女を男装させて王子として扱い、あまつさえ即位させようとしている! 我々は王太子の真の名さえ知らないというのに!」


「これは王家の、民に対する侮辱だ! 神に対する背徳だ! そんな裏切りが許されていいのだろうか!? そんな背信者を、王として崇める理由があるだろうか!?」


「我々は、偽王子を王太子とは認めない! ライコフの黒き梟の名のもとに立ち上がり、セロフの白き鴉を我らの空と森から追放するのだ!」


 傘下の貴族達とともに、父上は戦に明け暮れた。私が思っていたよりも、父上と伯父の仲は悪く、父上は玉座への野心が強かったようだった。

 セロフ家とライコフ家の戦争は四年で終結した。セロフ家の旗印だった王が戦死し、アルトゥールが指揮を引き継ぐまでもなく父上が王冠を奪い取ったからだ。

 父上は伯父を侮辱しながらその首を斬り落とし、胴体は獣に食わせて頭だけ城門に飾った。誰もが父上の残忍さを恐れたし、私も初めて知った父の残虐性に恐れを抱いた。

 父上が起こした反乱は革命と呼ばれ、セロフ朝はミハイル四世の代で幕を閉じた。新たな王は、父上がなることになった。イヴァン五世を祖とするライコフ朝のはじまりだった。


「父上。どうか、アーチャに情けをいただけませんか。彼女は、大人達に従っていたに過ぎません。彼女には何の罪もない」

「そう何度も言われずともわかっている。安心しろ、悪いようにはしない」


 哀願する私を前に、父上はため息をついた。今日は前王朝を象徴する者への、その後の扱いが決まる日だった。裁きの場には、新たな王子である私も立ち会うことになった。

 前王は惨殺された。では、前王子は。アルトゥールに下される裁きを、私は必死で震えを抑えながら待っていた。


「まだ男の装いをしているのか、元王子よ。……お前の父は、お前に女の名さえ与えなかったらしいな。おかげでお前のことを何と呼べばいいのかわからない」


 引き立てられて跪くアルトゥールを前にしてやれやれと首を横に振った父上の横に立ち、私はまじまじと彼を見つめた。

 四年ぶりに見たアルトゥールは、十一歳のころとは違っていた。私よりも背が小さくて、全体的に肉付きがいい。男物の服に身を包んだ身体はしなやかな丸みを帯びていた。今も胸は潰しているから平らで、華やかな美貌は憂いを帯びて陰っていた。


「黙れ、恥知らずの逆賊が。誰が何と言おうと僕は僕だ。この僕が貴様ごときに媚を売ると思ったら大間違いだぞ。僕はこの国の正当なる王位継承者だ。僕を貶め、我が一族を辱めた貴様を、神は決して赦しはしないだろう」

 

 父上に対して、アルトゥールは毅然とした態度を崩さなかった。黒曜石の瞳には、憎悪がらんらんと燃えていた。


「あいにくだが、お前に与えられた継承権は神を欺いたことで得た不当なものだ。私が弑逆の罪を被るだけで、お前を王に据えようとしていた罪を神に対して贖えるなら、いくらでも私はこの手を血に染めよう」


 しかし父上は気にも留めない。父上にとってアルトゥールはただの子供に過ぎなかった。


「アルトゥール・ミハイロヴィチ・セロフ。お前は今日からアンゲリーナ・ミハイロヴナ・セロヴァと名乗れ。お前にふさわしい名だろう」

「……」

「そしてここに、アンゲリーナ・ミハイロヴナとキリル・イヴァーナヴィチの婚約を宣言する。これをもってライコフ家とセロフ家の和睦の証としよう。セロフの血は、ライコフ朝の中で生き続けるのだ!」


 集まった貴族達に向けて、父上は声高らかに宣言した。割れんばかりの盛大な拍手の音が、人々の総意を示していた。

 でも、これでアルトゥールの命は助かった。ほっと胸を撫で下ろす。最悪の事態は避けられたのだ。


「アーチャ、」

「僕を二度とそう呼ぶな。今しがた、君のお父上がおっしゃっただろう。僕の名はアンゲリーナ・ミハイロヴナだと」


 その名を呼んで手を伸ばす。ようやく私を見たアルトゥールの声は冷え切っていた。彼は、彼女は、すべてを拒絶するような目で私を見ていた。

 アルトゥールにとっての私はただの裏切り者で、簒奪者で、己を辱める男なのだ――――何があっても友達だと誓った二人は、もうどこにもいなかった。


*


「エーリャ、貴方はもう少し女性らしくできないのか」

「女性らしく? 面白いことを言うな。ところで、それは一体誰が決めることなんだ? 僕が女性らしくないと誰が言った? 僕が僕らしくあることの何が悪い? 僕は女だ、じゃあ僕が僕らしく生きているならそれこそ女性らしいということじゃないか」


 アンゲリーナは読んでいた本を閉じ、はじらいも見せずに長い足をテーブルの上に乗せた。

 王太子の婚約者とは思えないほどみすぼらしいドレス姿に、紳士というには長く淑女というには短い髪。アンバランスな令嬢は、挑発的な眼差しを私に向けている。口元には嘲笑が浮かんでいた。


「それともなんだい? どこぞの風刺小説に登場する頭の悪い姫君のように、君が選んだ趣味の悪いふりふりのドレスやごてごてしたアクセサリーで着飾って、君の横で白痴のようにへらへら笑って、砂糖漬けの甘ったるい菓子を君と一緒にほおばりながら君にあげるへたくそな刺繍をしていれば満足してくれるのか? それがお望みならやってやるぜ、なにせ僕は君の婚約者だからな」


 アンゲリーナと婚約してからもうすぐ一年が経つが、私達の関係は最悪の一言に尽きた。

 アンゲリーナに贈った豪奢なドレスはその日のうちに切り裂かれ、装飾品はさっさと質に流される。可愛らしく微笑みかけられたことなんて一度もなかった。菓子はまっすぐにくずかごへ放り込まれるし、刺繍などしてもらったこともないのだ。


「どうして貴方はそうなんだ。貴方が私やライコフ家を憎むのは当然だが、少しは考えて行動してくれ。貴方のその振る舞いは、セロフ家の名誉すら貶めるんだぞ」

「我が家の名誉だって? そんなもの、叔父上が踏み躙ってくださったじゃないか。今さら守るべきものなんて、僕には一つもないんだぜ?」


 私とアンゲリーナの婚約は、セロフ家の残党を黙らせてライコフ朝の正統性を主張し、かつ隣国を牽制するための政略的なものだ。それでも私は彼女を愛していたし、彼女の心が私に寄り添ってくれる日など永遠に来ないことも知っていた。

 父上は、王太子である私が自分を越えるほどの権力を握ったり、あるいはアンゲリーナが国政に口を出したりすることを恐れている。だから父が自分の力のみで現王朝の地盤を確固たるものにするまでは、アンゲリーナはライコフ家の人間になってはいけない。よって私達は、婚約者のままでずるずると居続けなければいけなかった。


「君のそれは自己満足の死体蹴りだよ、キーラ。……君の友だったアーチャは君が殺した。それで、今度は意に沿わない目障りなエーリャを殺すんだろう? 叔父上が僕の父上にしたように、死体すら辱めて!」

「……ッ」


 投げつけられたのは、アンゲリーナが読んでいた本だった。

 そうだ。もう、アーチャはいないんだ。いるのは私を殺したいぐらいに憎むエーリャだけ。あの日誓った友情は私が踏みにじったし、そのうえこの想いを純粋な友情ではないものに変えてしまっている。それでも、私は――――


*


 隣国が不穏な動きをしているのは知っていた。セロフ派の残党が水面下で結託していることも気づいていた。そして、それらの中心にいるのが一体誰なのかも理解していた。

 それでも私は何も言わなかった。沈黙することの尊さを、不用意な一言がもたらす破滅を、身をもって思い知らされていたからだ。

 だから私は口をつぐんだ。誰もその秘密を暴くことのないよう密かに手を貸すことさえした。二度とあの過ちを犯してしまわないように、そしていずれ訪れる断罪の日を待つために。


「ごきげんよう、キリル・イヴァーナヴィチ殿下」


 階段の踊り場に立って階下を見下ろしていると、男装の麗人が現れた。彼女は私に気づくと、嫌味なまでに丁寧な敬礼をしてくれた。

 騎士服を着て剣を携えた彼女は、多くの兵を従えていた。元セロフ派の騎士達だった。

 今、王の宮殿は反乱軍に包囲されている。反乱軍は隣国からの増援も得ていて、やすやすと抑え込めるものでもなかった。

 この宮殿はもともと彼女が暮らしていた場所だ。ありとあらゆる抜け道に精通し、城の構造を熟知する指揮官が敵にいるのだから、宮殿が陥落するのは当然の流れだった。

 血の臭いに宮殿内が慌ただしく騒ぎ出す中、私はその騒乱から逃げるようにこの場所へ赴いていた。初めてアルトゥールの違和感に気づいてしまった、この階段に。


「思ったよりも遅かったな、エーリャ」


 喉に張り付いていた言葉をなんとか吐き出す。

 アンゲリーナはこの場所のことを覚えているだろうか。一緒に遊びまわった幼い日のことを、彼女は忘れてしまっただろうか。それでも私は、すべてを覚えている。


「臆病な殿下なら、まっさきに宮殿の外に逃げ出すと見当をつけていたんだよ。だから外にも追手を手配していたんだ。それがまさか、こんな何もない奥まったところにいたとは当てが外れた。腰でも抜けていたのかい?」


 嗤うアンゲリーナの剣の切っ先は、まっすぐに私に向けられていた。背後から軍靴の音がする。上の階からも反乱軍の騎士が来たらしい。


「さあ、もうどこにも逃げ場はない。……最期に何か言い残したことでもあれば、聞いてあげてもいいぜ?」

「それでは一つだけ――アンゲリーナ・ミハイロヴナ。貴方との婚約を破棄しよう」


 これは私のけじめだ。贖罪だ。これで、簒奪者の息子たる私が王太子だったゆえんは失われた。同時に、両家の和睦の象徴も。


「愚かな女だ、せっかく救ってやったのに。私が貴方を見初めていなかったら、父上は早々に貴方を殺していただろう。それをわきまえず、恩を仇で返すとは。残念だよ、アンゲリーナ」


 アンゲリーナは淑女のように微笑んだ。そして従えている騎士達に向けて獰猛に吼えた。


「聴いたか、お前達! ついに貪欲な黒梟は、むしり取った白き羽をくちばしから取りこぼした! もはやライコフ朝に正統性はない! 今こそセロフの鴉の白き翼を、梟の血で赤く染める時だ!」


 猛る騎士達の声がそれに応える。

 ああ、今頃父上は殺されているだろう。父上は武勇で名をはせた方だ。けれど多勢に無勢ではどうしようもない。たった一代、わずか二年あまりの短い栄華だった。


「……ッ、……」


 溢れ出す血の色は何より紅い。銀色の剣の生えた胸が熱かった。剣はすぐに抜き取られ、そこからじわりと紅がにじんだ。

 痛い、苦しい。ふらり、よろけた。伸ばした腕は手すりを掴めない。そのまま階段を転げ落ちていく。投げ出された先に、エーリャがいた。 

 ああ、エーリャ。私は、一度だって貴方に想いを伝えられなかった。かつての貴方は男として生きていたし、今の貴方は私のことを憎んでいたから。

 それに、謝ることすらできなかった。私が臆病だったせいだ。私に貴方の勇気や知性のひとかけらでもあれば、こんなことにはならなかったのだろうか。伝えたいことも、伝えなければいけなかったこともたくさんあったのに、何一つとして声にならなかった。


「エー……リャ……」


 震えた言葉は血に変わる。名前は正しく呼べただろうか。

 最期に言いたかったのは、あんなことじゃなかったんだ。本当はもっと、別のことを言いたかった。

 でもそれは、決して言ってはいけないことだったから。貴方を愛してる――――なんて、どの口が言える? 今さらなんの意味がある? 貴方の剣を鈍らせ、貴方を嘲笑(わら)わせ、騎士達に遺恨を残すだけだろう? 

 貴方は高潔な革命者として、私を殺さなければいけない。私は傲慢な暗愚のまま、貴方に殺されなければいけない。

 そうでなければ、貴方の正当性が揺らいでしまう。政敵(わたし)に慈悲を与えるような優しさ、それは(よわ)さと取られていずれ貴方を苦しめる。戦う意思のない者を殺す残酷さ、それは民の疑念となってきっと貴方を狂わせる。


「……大丈夫だよ。僕が楽にしてやるからさ。さよなら、キーラ。僕は、君を――」


 視界がにじむ。理由はわからなかった。かすむ世界の中で、かろうじてエーリャが剣を振りかざしていることだけわかった。


 エーリャも、泣いて、くれたのかな。

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― 新着の感想 ―
[良い点]  ただただ切ない。  正しく悲恋とすれ違い。  何時か、何処かでひとつでも違う選択をしていれば、違う結末が有ったのではと思わせてくれる作品。
[良い点] 自らの過ちで地位と名誉を失う話かと思ったら壮絶な覚悟で文字通りの全てを失う話で驚きです
[一言] キーラが可哀想ですね(:_;)
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