第1話 深淵の水魔⑤
「何かって何だ。敵か!?」
「分からない。でも何かいる。待って。今感度を上げるから」
ノラは何か「ある」ではなく「いる」と言った。つまりノラが感知したのは生命体、そして恐らく魚や海鳥と言った看過できる程度のものではないものだろう。
とはいえここはまだ陸地とは程遠い海の上。仮に敵だとしても、それは敵にとっても意図した会敵ではないはずだ。
「私のレーダーの範囲には何も映っていません」
パティが小声で僕にそう告げる。
「オートマトンを出しますか?」
「…準備だけしておいてくれ」
もし敵ならこちらから先手を打ちたいところだ。もちろんそれは攻撃という意味ではなくあくまで友好的な接触という意味で。
「アーサー。見えたわ」
ノラが口を開くと同時に右手でこめかみのあたりを抑えながら僕の方に向き直る。
「敵じゃなさそうよ。多分遭難者。女が1人で浮かんでる」
「え?遭難者?」
「うん。意識は無いみたいだから、引き上げてあげればいいんじゃない?…私はちょっと部屋に戻るわ」
「いや、待て。部屋で寝るのは構わないけどせめてその遭難者の位置を教えてくれ。じゃないと引き上げるも何も」
「そうね。じゃあパティ。端末貸してくれる?」
ノラは転送魔法で自身をプールサイドに上げ、こめかみに当てていた右手をパティに向かって差し出す。
パティは頷き、レジスタンスに取り付けられた入り口がジッパーのポケットから端末を取り出し、ノラに渡す。受け取ったノラはその表面をなぞり、数秒ほどでパティに端末を返した。
「心得た。後は我々が」
「お願いね」
そう言って今度こそノラは転送魔法で自室へと消える。それと同時に頭上を覆っていた灰色の日傘も消失した。
「ノラさんは…一体どうしたんですか?」
ろくに事情も告げずに消えたノラを心配している様子のパティだが、僕は知っている。ノラは酔ったんだ。探知したものが何であるか詳しく見るために視覚を飛ばす魔法で遠くまで飛ばしすぎたために。
「ノラは大丈夫だ。寝ていれば治るよ」
「そうですか…」
「我が主よ!問題発生か?」
プールから上がってきたオスカーは顔とその不揃いな髪の先から滴を滴らせながらこちらに歩み寄る。スーツに水滴は一切付いていなかった。
「問題という程の問題じゃないよ。敵じゃなくて遭難者らしいからな」
しかしこの海域に遭難者が1人と言うのは不自然だ。考えられ得る最も妥当な状況としてはエレツからの船が難破して乗組員の1人がたまたまここまで流されてきたという状況だが、
「その遭難者っての」「俺らが取ってこようか?」
いつの間にかプールサイドまで泳いできていた双子が僕たちの足元から声を上げる。
「いや、いいよ。2人はこの城に居てくれ」
しかし僕はその申し出を断る。理由は簡単。遠すぎるからだ。パティ作のレーダーの範囲である5キロメートルよりも外へ双子を泳いでいかせるのは躊躇われる。
双子の体力がもつかではなく、双子がその距離を泳いで無事ここまで帰ってこられるかが心配なのだ。変な海流に捕まると双子の方が遭難する。
「パティ。オートマトンを向かわせてくれ。遭難者を引き上げるためのものと、他にも遭難者がいないか辺りを捜索するために何体か」
「了解。ではノイズホークver3を全機発進、回収にはヴァイスオルカ・プロトタイプを向かわせる」
「プロトタイプ…」
できれば完成機を向かわせて欲しいところだが、多分レジスタンスと同様、性能には問題ないのだろう。
「主よ。俺に何かできることは」
「…今のところはないけど、遭難者が意識を取り戻したら話してやってくれないか?多分遭難者もエレツの人間だろうし」
「心得た」
頷くオスカーの尖った耳を見て、エレツにいる人間の数とそうでない者との数を鑑みると遭難者がエレツの「人間」でない可能性の方が高いということに気が付くが、そこは言葉の綾。訂正はしなかった。
「パティ。オートマトンはどれくらいで帰って来る?」
「片道はヴァイスオルカ・プロトタイプも全速力で迎える。故に10分ほどで到着可能。しかし帰りはそうもいかないでし…だろう。遭難者の状態によっては不用意に動かせない場合もある」
「確かに。気絶してる人間を高速で海中を移動させるのは駄目だよな」
「故に、我が眷属たちには到着後は生命に危険が及ばない状態に留めるのみにし、この城の到着を待つ」
城を変形させれば遭難者を揺することなくこの城に引き入れることは可能だろう。一応敵という可能性もあるから意識を取り戻すまでは隔離しておくとして…
「この城はあとどのくらいで目的地に着く?」
「ああ、えっと、…そのことなのだが、このままの進路だと遭難者から逸れてしまう。直ちに進路の変更を」
「そういうことは早く言ってくれ」
最初に言うべきこととさえ言える。
「進路はこの向きです」
そう言ってパティは端末の画面を僕に見せた。僕はすぐさま城に命じて進路を変更し、まっすぐ遭難者のいる方へ向かわせる。
「では俺は失礼させて貰う」
オスカーはおもむろに踵を返してプールを後にしようとする。
「どこか行くのか?」
「自室へ。客人を招くのならば、正装で臨む必要がある」
正装とは恐らくいつも着ている黒い衣装のことだろう。
ということはオスカーはいつも正装してるということか。折り目正しい奴だ。
「私も着替えたいので少し失礼します。端末は置いていきましょうか?」
オスカーの姿が完全に見えなくなってからパティがそう言う。
「いや、いいよ。僕には使いこなせないから」
「そうですか。では」
パティがいなくなるとこのプールには僕と双子のみ。双子は差し込む日差しも気にせずに水遊びをしているが、それは僕にはとてもじゃないが真似できない芸当。パティの後を追って僕も城の中に引っ込むことにした。
そして自室にて。
「結局、着替えた意味なかったな…」
普段の服に着替えた僕はそう呟く。つま先さえ水に浸すことなくレジスタンスを脱ぐことになるとは、本当に何のために着替えたのやら。
「そう言えばノラ、大丈夫かな」
ふと、誰よりも先に自室へ退いたノラのことを僕は思い出す。
「あいつのことだし大丈夫だろうとは思うけど…」
今頃になって心配になる。
「ちょっと様子見に行くか」
もちろんこれは優しさゆえの行動ではない。自らのうちに渦巻く不安を解消したいという、私利私欲だ。
ノラの部屋は僕の部屋の隣にある。
と聞けばすぐ近くにあるように聞こえるかもしれないが、その実僕とノラの部屋は10メートル程離れている。この城は部屋の数に対して空間を持て余しているのだ。
「おーいノラ。大丈夫か?」
僕は自分の足で歩いていき、彼女の部屋の前に立ってドアを叩く。
返答はない。代わりにドアが開く。
「何しに来たのよ。暗殺?」
「暗殺するやつがドアをノックしながら『大丈夫か』なんて言うか」
それに、戦力の要を暗殺するなどもはや自殺に等しい。
仮にそうだとしても、僕のような剣も魔法も使えないただの人間にはノラを殺すどころか害することさえ叶わないだろう。
「具合はどうだ?」
「…心配されるほどのことじゃないわよ。ただ酔っただけだから」
「そうなのか?」
「ええ、この船のようにね」
そう言ってノラは口元を僅かに吊り上げる。僕は遅れて「ただ酔った」と「漂った」をかけた駄洒落だったということに気が付く。
出会った時のこいつはこんな冗談、口が裂けても言わないようなやつだったのに。
一体誰の影響を受けたんだか。
「なあ、一つ聞いていいか」
「その『一つ』って今の質問も数えるの?」
「数えるわけがあるか」
この上なく無駄なやり取りと言える。
「その、視覚を遠くに飛ばす魔法を使ったから酔ってるんだよな。何で部屋で寝て治そうとするんだ?魔法を使えばいいんじゃないのか」
「そうね。その通りだわ」
ノラは落ち着いた様子で頷く。察するに、その発想は無かった。というわけではないようだ。
「でも私は自分の頭にだけは魔法を使わないって決めてるの」
「頭?適性があれば魔力は人間に無害だったはずだろ?」
「ええ、そうよ。流石なんでも知ってるわね」
「皮肉か?」
「いやみよ」
いずれにせよそんなことを言われるいわれはない。ただ純粋に心配してやってるのだから。
「頭と言うか精神ね。魔法の中には心を操る魔法もあるんだけど、そういう魔法は絶対に自分には使わない」
「自分の心を自分で操る…よく分からない現象だな」
自分のしっぽを追う猫を思い浮かべてしまった。
「マインドコントロールだけが精神魔法じゃないわよ。落ち着かせる魔法とか、寝なくて済む魔法とかも含まれるわ」
「ああ、なるほどな。でも何でだ?別にそういった魔法に中毒性はないと思うけど」
少なくとも僕の知識ではそういうことになっている。
「確かに頭痛を止めたり心を落ち着けたりする魔法自体は安全よ」
でも、とノラは続ける。
「最初はそういう軽い気持ちからなのよ。心を落ち着けたり、沈んでるときに楽しいと思わせたり、でもそのうち魔法が無いと自分の心が分からなくなる人もいるの」
「そう、なのか…?」
「だから私は自分の首から上には魔法を使わないって決めてるのよ」
立派で賢明な心掛けとは言える。何度か魔法で髪を乾かしたり顔を洗ったりしてた気がするが、彼女の言う「首から上」とはそういう意味ではないのだろう。
「そうか。まあいいんじゃないか?それがお前の決めたルールなら」
「ええ。…言っておくけど、今のはあくまで私のルールで、あんたのことを悪く言ってるわけじゃないわよ」
「…分かってるよ」
僕の知識のことを言ってるのだろう。別に気にしないし、それに僕の知識は魔法ではない。
多分。
「アーサーはエレツに行ってその知識をどうするつもりなの?」
「どうだろうな。なるようにするとしか」
僕はこの知識を頭に宿してもうすぐで4年になろうとしているが、いまだにこの知識がどこから来たのか、そしてどうして僕が持つ羽目になったのか、分かっていない。
しかし今自分の頭の中に入り込んだ知識が完全でないことだけは分かる。
「エレツに行ってこの知識の正体が分かる保証があるわけでもないし、仮に分かったとしてもそれで僕の知識が完全になるとも限らない」
「分かるわよ。それでも行かないと気が済まないんでしょ?」
そうだ。この世界で一番の大国、そこに行けば手がかりくらいはあるはずだ。そしてきっと、この知識の意味と僕が果たすべきことも、見えるようになるはずだ。