第1話 深淵の水魔⑰
「ちょっと、お待ちください!洗脳だなんてわたくしはそんなことしてません」
突如現れたノラにニルプは眉根を寄せて抗議する。
「じゃあさっきどうしてあんたの手から魔力が出てたのよ」
「あれは消して洗脳などの効用はありません。不安や疲労を取り除く効用のものです」
そう言ってニルプは自分の手を合わせてお椀の形を作る。すると彼女の手からにじみ出るように白いものが空間を満たしていく。まるで液体のように波打ちながら。
「それがあなたの魔力。液体なのね」
「はい。アプサラスは水の精であるためこのような形を取ります」
やがて魔力は手の中からあふれ出して床に落ちるが、床と衝突した瞬間しぶきになって消えてしまう。水のように浸透はしないようだ。
「それを頭に流し込んで支配しようっていう魂胆だったんじゃないの?」
「そんなことしません!何ならノラさんにもしてあげましょうか?」
ニルプは手から白い魔力を滴らせながら右手をノラの頭に伸ばす。
「やめて!」
ノラは強く言い放って後ずさる。
いえいえそうおっしゃらずに。とニルプは一歩踏み出す。だからいらないって。とノラがさらに一歩引く。
気付けば決して広くはないニルプの部屋の中で鬼ごっこが始まる。
「ちょっと2人とも落ち着いてくれ」
しかし僕の制止も彼女達には届かない。このまま不毛な争いを続けさせるわけにもいかないので僕は何とか2人の間に割って入る。
「ニルプさん。安心してください。僕は疑っていませんから」
「ああ、ありがとうございますアーサーさん」
ニルプは両手から魔力を滴らせながら胸を撫で下ろす。
「アーサー。何でそんなやつのこと信じるのよ」
「ノラ。お前だって分かるだろ?洗脳魔法がどれほど難しいものか。初対面の相手にできるようなものじゃない」
ノラは口をつぐむ。催眠で操り人形のようにする魔法は存在するが、それははたから見ても異常だと分かるような状態になる。
「誤解も解けたところで、折角ですのでお2人もなでなでして差し上げましょうか?」
「結構です」
「いらないわ」
安全だとわかってもノラは頭に魔法を掛けられること、あるいは魔力が触れることそのものを嫌っている。それゆえにニルプの申し出を拒絶する。
僕が断ったのは単純にノラに見られていると思うと気恥しかったからだ。
そうですか…と分かりやすく落ち込んでニルプは両手から魔力の放出を止めた。
「ところでノラ。僕を助けようとして駆け付けてくれたことには感謝してるんだけど、なんで僕が危ないって分かったんだ?」
まさか虫の知らせとは言うまい。
「何でって。監視するように言ったのはアーサーじゃない」
「え?僕が?」
「私とキレネが卓球してる時、私に目で合図したでしょ?」
あのアイコンタクト。ちゃんと伝わってなかったのか。ということは僕とニルプが遊技場を出て話していた内容から聞かれてたのだろう。
「もしかしてここでの話も全部聞いてたのか?」
「ええ、まさか天使と悪魔が初めから味方同士だったとはね」
もはや言い逃れはできまい。ノラは知ってはならないことを知ってしまった。
ニルプの表情を伺うと、困ったような何とも言えない顔をしていた。
「あの、ニルプさん。さっきノラは例外として扱うって言ってましたよね…」
「はい…ですが、撤回しなければいけません」
「どういうこと?」
ノラは飄々としていた。自分の身に何が降りかかろうとしているか分かっていない様子だ。
「お前が僕達の話を聞いてしまったせいでここから出すわけにはいかなくなったってことだ」
かみ砕いて説明してやると理解したようで頷きながらなるほど。と呟く。
「言ってる意味は理解したけど、それって絶対なの?私ってもう首都とはほとんど何の縁もない状態だし、私1人が知ったところで何もないと思うけど」
「それは、わたくしには何とも…」
ノラをこの城から出すわけにはいかない。と言われるとすごく厄介だ。ノラがいなくなるとうちで魔法を使える者はいなくなってしまうので確実に計画は頓挫する。
パティが魔法を使うこと自体は実は不可能ではないのだが、彼女は科学技術の研究に専念していて魔法の訓練を一切積んでいない。魔力はあっても魔法力はゼロに等しい。
「あの、ニルプさん。なんとかノラも特例というわけにはいかないでしょうか…?」
「それは…難しいかと」
当然の返事だった。もし仮に許してもらえるとしてもそれを判断するのはニルプではなく魔王だ。
「ニルプさん。ここには僕たちしかいません。あなたがノラを見ていないと言えば、ここにノラはいなかったことになるんです」
「なるほど、それもそうですね」
ニルプははっとした顔でそう言う。
「ここにはノラはいなかったということにしませんか?幸いノラは魔法でここまで飛んできたんですから、誰にも見られていないはずです」
「それは私も保証するわ。私がここにいることを知ってるのはここにいる3人だけよ」
「では、わたくしが黙っていれば解決ということですね!」
ニルプはその顔に笑顔を咲かせながら頷く。
そしてさらにこう呟く。
「つまり2人の命運はわたくしに」
満面の笑みだったがその言葉にはさすがにぞっとしなかった。もしかしたら僕たちは巧妙に嵌められてしまったのかもしれない。
「では、もう夜も遅いのでそろそろお部屋に戻ってお休みください」
「え?」
「先ほどの話はくれぐれも3人の秘密。ですよ」
ニルプは嬉しそうに笑みを浮かべ、立てた人差し指を口元に添える。その笑みの真意を汲み取れないままに僕は転送魔法であてがわれた寝室に飛ばされた。
「ノラ。聞いてるか?」
暫く待ってもノラの声は頭に響かない。もう一度同じ言葉を呟いたが反応がない。ノラはもう寝るつもりなようだ。僕が気を揉んでいるのはノラの行動のせいだというのに。
いや、元をたどると悪いのは僕か。曖昧なアイコンタクトを送ったのは僕なのだから。そもそも僕自身が自衛の策を持っていればノラも僕を監視なんてしなかっただろう。
「……」
これ以上考察を深めると反省が自虐に変わりそうだ。
僕は反省を早めに切り上げてベッドに潜り込んだ。目を閉じても暫くは眠れなかったが、ベッドの上で転がっているうちにいつの間にか眠っていいたらしい。気が付くと目が覚めていた。
「朝、だよな」
ドアの隙間から光が漏れている。夜は明けてるみたいだ。
ドアの向こうには昨日のようにニクス達が椅子を構えて待機しているのだろう。僕は覚悟を決めてドアを開く。
「…あれ?」
出迎えたニクス達に朝の挨拶をするつもりでいたのに、その挨拶は不発に終わる。
部屋の前にもどこにもニクス達はいなかったのだ。
僕の部屋だけではない。他の部屋の前にもニクス達はいなかった。
「もしかして僕が起きるのが遅すぎて先に行っちゃったのか?」
そう思ってまずは左隣のオスカーの部屋のドアを開ける。
するとその部屋は明かりが備え付けられていないにも関わらず光に満ちていた。
「王よ。どうかしたのか?」
「王よ。おはようございます」
パティもいた。
明かりの出どころは天井付近に浮かんでいる金属球だった。おそらくパティの発明品だ。
「おはよう。今何時か分かるか?」
「マル、キュウ、ヒト、ナナだ」
一瞬暗号化と思ったがすぐに0、9、1、7つまり午前9時17分であると僕は理解した。
昨日中々寝付けなかった影響か、起きるのがいつもより遅くなってしまったようだ。
「で、2人は今何をしてるんだ?」
「見ての通り、道具の整理だ」
2人はベッドの上で、さながらおもちゃ箱の中身を広げたように様々なパティの発明品を並べていた。
「置いてくるように言ったよな。持ってきてたのか?」
「フッ。それは違うな」
「ノラさんに頼んで転送してきてもらったのだ」
「いつ?」
「初日の夜に」
さて、どうしようか。今部屋の中を照らしているような道具は置いていてもいいが、武器は持って帰らせたい。
しかし厄介なのは一目見ただけではそれが武器なのか便利品なのか分からないということだ。
「2人とも。その中に武器はあるか?」
「フッ。王よ。どんな道具も使い方次第では人を殺める武器にもなりうるのだ」
なるほど。それは真理だ。一本取られた。
「言ってる場合か。ちゃんと答えてくれ。武器になるようなものはあるのか?」
「ない。それは私が保証する」
パティが力強く言い放つ。
「言い切ってくれて助かるよ。ところで2人とも、外の様子について何か知っているか?」
「あの忠実なるニクス達がいないことか?」
「私たちも変に思ったのだが、なにやら城の外でやっているらしく、早朝は少し騒がしかった」
「早朝?」
「6時頃だ」
しかし今は騒がしいどころか静まり返っている。
「何か起こったのかもな。みんなで様子を見に行くか」
まあお腹が空いたので朝食を貰いに行くという狙いもある。
道具を片付け始めた兄妹をおいて部屋を出、僕はまずキレネの部屋に入る。
「キレネ。起きてくれ」
ベッドに横たわるキレネの肩を揺する。
「ん…あと5秒」
「…待ったぞ」
「もうご飯?」
「多分な」
昨日とは違うパターンのやり取りだった。
「分かった。じゃあ起きる」
むくりと、10分前に既に起きていたのではないかという勢いでキレネは身を起こす。
次はノラだ。多分一番時間を食わされるだろう。朝食前でも朝飯前とはいかない。
「ノラ。起きろ」
「もう起きてるわよ。むにゃむにゃ」
「起きてる人間が『むにゃむにゃ』なんて言うか」
「ん…あと5年」
「いちいちタチが悪いなお前の要求は。…逆に、そんなに寝てられるのか?」
無理に決まっている。
「はいはい起きるわよ。起きればいいんでしょ?」
「そうやさぐれるな」
起きたノラを伴って僕たち5人は歩いて大広間へ向かう。いや、ノラは浮遊魔法で移動していたので厳密に歩いていたのは4人だった。
「あれ?誰もいない…」
まるで僕たちの存在など忘れ去ってしまったと言わんばかりだった。
どうしたものかと暫く大広間の入り口で立ち尽くしていると背後から何者かの足音が聞こえた。
音の主は1人のアプサラスだった。彼女は僕達に気が付くと小走りで走り寄る。
「申し訳ありません。すぐに朝食の準備をいたします!」
頭を下げながら詫びる彼女だったが、彼女の衣服、長めのスカートは移動しやすくするためにたくし上げられていた。
その動作からもこれまでのような優雅さは感じられない。
「何かあったんですか?」
「いえ。お客様である皆様には決して危険の及ばないように一同全力を尽くしておりますので、ご安心ください」
顔を上げて力強くそう言った彼女は失礼しますと言い残して駆け足で去っていった。
「何かあったみたいね」
「そうだな」
彼女の言葉は裏を返すと、一同が全力を尽くさないとこちらに危険が及ぶ可能性があることが起こっているということだ。
昨日ニルプから衝撃的な話をノラと共に聞いてしまったこともあってか、僕の胸中は穏やかではなかった。