第1話 深淵の水魔⑫
「あら、お眠りですか?」
「みたいですね」
「では寝室にお通しします」
「あ、すみませんお手数かけます」
よく考えたら今はまだ午前の10時を回った頃。そんな時間から酒を呑んで眠ってしまうとは不健康かつ不健全だ。
まあ一杯しか呑んでないから泥酔はしたというわけではないだろう。
泥のように眠る、さしずめ泥睡と言ったところか。
「私が連れて行くわ」
ノラが立ち上がり、キレネに魔法を掛けて風船のように浮かび上がらせる。
「そんな。お客様のお手を煩わせるわけにはいきません。わたくしどもにお任せを」
「大丈夫よ。私にとってこの程度の魔法は息をするようなものだし、それに私も少し酔ってきたから眠りたいの。だからついでよ」
ついでというのは本当だが、酔ってきたというのは嘘だろう。ただ自分も眠りたいだけに決まってる。ノラは酒を一口しか呑んでいないのだから。
「いえ。この城の中では皆様は何もなさらずにわたくしどもをお頼りください」
しかしなおも引き下がらないニルプがそう言った直後、数名のニクスが2つの担架、それはもう移動式ベッドと呼んでも差し支えないような担架だった、を持って現れた。
「さあ、どうか」
「いや、どうかって言われても…」
ノラもさすがに引いている。隣で互いに酌をしあっていたオスカーとパティの手も止まる。
「酔ったって言っても少しだけだから私は歩けるわ」
ノラはキレネだけを担架の上に横たえ、自分は歩いていこうとするが、ノラの分の担架を持ったニクス達はそれを阻む。
困惑した表情でノラは僕を見る。
「ノラ。ここはお言葉に甘えるとしろ」
相手の厚意なわけだし、固辞すると角が立つというものだ。
ノラは不満を顔に表しながらも担架に横たわる。
持ち上げられる瞬間にノラはさらに身をこわばらせ、そのまま大広間の外へと連れ出されていった。
これがオスカーとパティなら心配だったが、ノラなら大丈夫だろう。危なくなれば僕たち全員を連れてこの城から脱出することだってできるはずだ。
「ところで、見事な舞ですね」
僕は今更になって周囲で舞っているアプサラスのことを称賛する。今まで食べることに夢中で目を向けるのを忘れていた。
彼女らは一見、てんでばらばらに舞っているようだが、しかしそれは一人一人を見た時に受ける印象であって、全体をぼんやりと見ると一部の隙も無い連動性と言うものが見えてくる。宴のバックダンサーとしては最高の舞だった。
「ありがとうございます。そう言っていただけると彼女らも喜ぶでしょう」
ニルプは表情を綻ばせる。
「あの、ところで…」
僕はそろそろ然るべき情報を収集しようと話を切り出す。
「ここの料理はどれもおいしかったんですが…」
ちらりとテーブルの上に目をやると既にすべて片付けられていたということに気が付く。
「すべて火を通したものですね。生で食べることはしないんですか?」
一応知識として、水魔城では火を通した肉しか食べないというのは知っている。
しかしここは海の中。取れる魚介類は新鮮そのものなはずなのだから少しくらい生食のものが出てもおかしくないし、実は僕自身それを期待していたのだが、出てくる料理はどれも茹でられたり焼かれたりしたものばかりだった。
「確かに、外の国では肉を生で食べるという食文化もあると伺います。ですが、わたくしたち水魔城の民は火が通った肉のみを食べられる肉とするのです」
「なるほど…」
「水魔城では生の肉を死肉とみなし、口に入れません。火を通すというある種文明的な処置を施した肉の身を食らうのは、知能を持たない他の魔物と自分達を区別しようとする思想に端をなしていると、遥か昔にそんな話を聞いたことがあります」
「そういった食文化はこの州ができた時から続くんですか?」
「いえ、ここが州になったのはわたくしが生まれてからのこと。この州ができる遥か前からこの文化は根付いておりました」
「この州ができた時、あなたはおいくつくらいだったんですか?」
さて、なぜ僕が知っているようなことをわざわざ聞いたのかというと、ある事実を確認したかったからだ。
「あの頃は確か…500を超えたくらいだったでしょうか…」
その事実は水魔城がエレツの統治下に置かれたとき、ニルプがこの世に存在していたということを意味する。
この州が州としてエレツに統治されたのは1000年以上前のこと。目の前にいるニルプは相当古株ということで間違いはなさそうだ。
「その時あなたは…」
「わたくしの話など取るに足りません。この城を詳しくお知りになりたいのであれば、今から案内して差し上げますよ」
僕の言葉を遮ってニルプはそう提案する。そのあからさまな態度に僕は確信する。僕の知識にある歴史は事実とは異なるということを。ニルプはそのことを誰か、恐らくはエレツの王、に口止めをされているということを。
僕の知識にあるのは歴史。過去に起こった事実そのものではない。
歴史とは過去の事実に対する一つの解釈だ。僕が知っているのは最も多くの人間に知られている歴史。つまり、人類にとっての過去の最大公約数。
「えっと、じゃあ…お願いします」
気弱な僕は食い下がることはせずに引き下がってニルプの申し出を受け入れた。
まあ、ここで変に粘って不信感を抱かれては元も子もないので賢明だったと言えよう。
「オスカー。パティ。お前たちも来るか?」
「フッ。ああ、お供しよう」
「クフフ。是非もない」
2人ともかなり顔が赤かった。まあ当然か。彼らの前には空になった酒瓶が鎮座していた。量にして2リットル程だろうか。この量を15分ほどで飲み干したとあれば、アルコール度数から考えても彼らこそ泥酔している量だが、さすがはエルフといったところか、足取りはしっかりしている。
「では参りましょう」
ニルプが立ち上がると、その背後から僕たちを案内したあのアプサラスが現れた。
「クティ。お客様に城の中を見せて回ります。舞と歌はもう結構です」
「かしこまりました」
そう言ってクティと呼ばれたアプサラスは深々と頭を下げる。
ニルプが手を伸ばして暫くその頭を撫でる。撫でる手が離されると同時にクティは恍惚とした表情で顔を上げた。
「残りの者のご褒美はまた後ほどにと、みんなに伝えておいてください」
「はい…。かしこまりました」
惚けた顔を元に戻しつつ、再びお辞儀をしてクティは去っていった。その直後から周囲で踊っていたアプサラスは1人、また1人と舞いながら消えていく。
「では、まずは牧場からお見せしましょう」
「牧場…ケルピーのですか?」
「はい。それに加えてアーヴァンクも飼っています」
ケルピーはここに上陸したときにその姿を見たが、アーヴァンクの姿はまだ一度も見ていなかった。
歩くこと数分。僕たちは城の裏にある潮だまりにやってきた。この潮だまりというのはニルプによってそう呼ばれたので僕もそう呼ぶことにしただけで、一目見ただけでは普通の海と大差ないほど広い。
「今お見せしますね」
そう言ってニルプは2度手を叩く。すると水面から続々と馬と、口がワニのようになった巨大なビーバーが顔を出した。
「さあみなさん。お客様にご挨拶」
直後にケルピーはいななき、アーヴァンクは尻尾で水面を叩く。皆懸命に自らの存在をアピールしている。
「フッ。なかなかに躾の行き届いた魔物達だ。称賛に値する」
「クフフ。兄者よ。躾ならば私のマテリアルクラスターの方が行き届いているぞ」
「お前のマテリアルクラスターは機械仕掛け。躾ではないだろう」
「でもパティの功績である。称賛に値して」
僕の後ろで酔人2名が問答を繰り広げている。
「では次に参りましょう」
酔っ払いエルフ兄妹になんら言及することなくニルプは移動を開始する。
その後城の中をぐるぐると厨房や訓練施設や執政室に通され、気が付くと正午を回っていた。
その頃には僕の脚は棒になり、オスカーとパティからはすっかりアルコールが抜けていた。
「次の部屋が最後の部屋になります」
「フッ。次に待つ部屋は何か。今から楽しみだな」
「ククッ。まさしく。これまでの部屋から察するに、素晴らしい部屋であろう」
酔いから醒めたテンペスト兄妹は接待モードだった。
「長らく歩き続けてすっかりお体もお疲れでしょう。次の部屋は回復室でございます」
「回復室…?」
想像できる光景は休憩室と大差ないものだが、あえて休憩室と呼ばないのは何か意味があるのだろうか。
そんな疑問を胸に抱きつつ、僕は導かれるままに足を動かし続ける。棒になった僕の脚は、立ち続けるよりも歩き続ける方が楽に感じるほどだった。
「着きました。ここが回復室です」
言いながらニルプは両開きの扉を開け放つ。その先に広がっていたのは確かに回復室と呼ぶにふさわしい空間だった。
「ここは…」
そこには数十台の机のようなベッドのような台が並んでいた。
「ここは戦闘や重労働の後の疲労を取り除くための施設です。休憩室よりも疲労の度合いが著しいものが優先的に運び込まれますが…今は空いているようです」
空いているどころか使っている者は1人もいなかった。
「ではこちらの台の上にうつぶせでどうぞ」
「え?いや、そんな」
「ご遠慮なさらず。是非一度味わってください」
それでもなお遠慮する僕はニルプに手を引かれ、台と呼ぶにふさわしい簡単なベッドの前まで連れていく。
脚が棒だった僕がそんなに長く抗えるわけもなくものの数秒で指示に従ってしまう。
「さあ、お2人もどうぞ」
「フッ。折角だ。言葉に甘えよう」
「ククッ。そうだな」
オスカーは僕の右隣に、そしてパティはさらにその右隣のベッドに横たわる。
「では、始めてください」
うつぶせになっているため詳しく状況把握ができないが、新たにアプサラスが3名ほどやってきたようだ。それが僕たちの脇に1人ずつ付く。
「では、始めさせていただきます」
僕の脇に来たアプサラスがそう声を掛けると僕の体、肩に手を触れた。
肩から順に下に下りていき、腰まで来るとまた上がるという風にして上半身がほぐされていく。
こうされてみて初めて自分の体がこっていたということに気が付く。肩よりも背中の方が凝っていたようだ。
上半身がほぐし終わると今度は足の裏に飛ぶ。棒になっていた脚を突き抜けて頭に衝撃が走る。これは効く。
足の裏から順にふくらはぎや腿といった筋肉の集中してるところをほぐされていく。
暫くすると脚のマッサージも終わり、上から布をかぶせられて全身を優しく揺すられた。
母親に抱かれるときっとこんな感じがするんだろうな。というようなことを考えながら、僕は徐々に意識を手放していった。