第5話 鎖錠の森精⑰
それからキレネは僕が驚くくらいスラスラとこれまでの僕達の軌跡を語り、獣人帝国から死人街への馬車の素晴らしさを語り始めたところで僕の頭にノラの声が響いた。
『アーサー。授業が終わったわ』
「了解。飛ばしてくれ」
「いってらっしゃいアーサー」
『アーサーお兄ちゃんいってらっしゃい!』
「ああ、いってき・・・」
僕の別れの言葉は最後まで彼女らには届けられず
「ます」
取り残された「いってきます」のかけらは獣人帝国に落とされた。
目の前にはいつかの学校。
ここではクーデターを企てたり、それを失敗させたりと多少の因縁がある場所。エレツ内で僕が生涯忘れないであろう場所の一つだ。
『後ろを見なさい』
僕が校内に踏み入ろうとすると再びノラの声が頭に響く。
その声に従って後ろを向くと、足下に半透明で灰色の木の芽のようなものが生えていた。
ノラとはもう長い付き合いなので、これがノラの魔法であることはすぐに分かる。
『それは転送魔法・術式『菜ノ花』よ。帰るときはそれに手で触れなさい。自動でここまで飛べるわ』
「足じゃ駄目なのか?」
『駄目に決まってるでしょ。あんた人の魔法を何だと思ってるの?』
「駄目」というのが魔法的な観点でなのか、礼儀的な観点でなのかは聞けなかったが、こう言われては帰る時に地面を撫でるのは避けられそうにない。
「分かったちゃんと撫でるよ。ありがとう」
『ええ、それじゃ』
念話が終わり、僕は今度こそ校内に侵入する。
職員室の場所は記憶に残っていたのでそれを頼りに廊下をギシギシ音を立てながら進んでいると、運が悪いと言うべきか、あるいは休み時間なのだから当然と言うべきか、僕はここの生徒に遭遇してしまった。
「あれー?」
そりゃああれ~だろう。校内に見慣れない人間がいるのだから。
この瞬間僕は様々な言い訳を脳内に巡らせたが、それと同時に僕の記憶がその生徒の特徴的な語尾に聞き覚えを見付ける。
「あ、君は・・・」
いつかお世話になったガンダルヴァの少女。名前はセミラ。
「お久しぶりですねー。私、セミラです。覚えてますかー?」
「ああ、もちろん覚えてるよ。あの時は僕らを泊めてくれてありがとう」
「いえいえー。と言っても、アーサーさんを泊めたのはうちじゃなくて叔父ですけどねー」
そう。大人数だった僕たちは二手に分かれることになり、僕と双子はラクティブという牛のガンダルヴァの家に泊めてもらったのだ。
「ところで今日はどうしたんですか?もしかしてノラ先生が戻ってきてくれるんですかー?」
「ああ、いや、実は違うよ」
目を輝かせているセミラには申し訳ないが、違うものは違うので仕方ない。
「今日はベヒーモスに用があって来たんだ。職員室にいるかな?」
「先生なら今裏庭ですよー」
「裏庭?そうだったのか。ありがとう。行ってくるよ」
「いえいえーそれじゃー」
セミラに翼をふって見送られながら、僕は学校の裏庭へと足を向ける。
裏と言ってもそこは日当たり良好で、むしろ明るさで言えばそっちの方が表とさえ言えるのがこの学校の裏庭だ。
その裏庭は畑として使われており、僕はそこにたたずむ一人の男を見付ける。
「久しぶりですね。ベヒーモス」
僕はその男に声をかける。
男は僅かに首をひねり、恐らくは視界の隅で、僕を捉えて口を開いた。
「土に魔力が流れたのを感じた。まさかとは思ったが、お前だったか」
「少し話したいことがあって来たんですけど、いいかな?」
今は休み時間。であれば問題などないと高をくくっていた僕だったが、しかしベヒーモスの反応は思いのほかよくなかった。
「話したいこと、か。その前におれに言うことがあるんじゃないのか?」
僕の記憶が正しければベヒーモスはレヴィアタンの時とは違って揉めたりなどはしなかったはずなのだが、目の前の彼は間違いなく僕に対して怒りとは言わないまでも苛立ちのようなものを感じている。
まあ、心当たりならもちろんある。
「確かに彼らには悪いことをしました。騙すようなことをして。でもそれは全部彼らを思ってのことだったんですよ」
「確かに。あれは成長のきっかけにはなった。でもそれはただの結果だ。最悪ではなかった方の、結果だ」
ベヒーモスが生徒たちのことを我が子のように大切に思っているならば、その怒りも納得できる。
「僕は彼らの境遇に同情したんですよ。そして行動した。結果彼らを騙す形にはなったけど、学びを与えられたし、何もせずに放置しておくよりははるかにいい変化をもたらせたと思ってます」
「いい変化だと?」
「ええ。あなたのようにただ見守るだけでは絶対に与えられない変化です」
こんなことを言ってベヒーモスの神経を逆なでしても逆効果かもしれない。しかし、一度こちらに不信感を抱かれてしまえば今後の関係は先細りだ。危険な賭けになるかもしれないが、ここは賭けに出るべきだ。
「見守るだけ、か。まるで見てきたかのような言い方だな」
「実際僕は何も分かってないのかもしれません。でも知ってますよ。あなたもレヴィアタンも、今となってはただの牙をもがれた獣だってことは」
彼は魔王との戦いで癒えない傷を負い、魔王に対する戦意が削がれている。それはレヴィアタンも同じこと。しかしベヒーモスがレヴィアタンと決定的に違うのは、今の彼には守りたいものがあるということ。
彼が戦いを拒む理由もそこにあるのだろう。
「あなたはたった一度の大きな負けに臆しているだけだ。戦えばまだ取り戻せるものだってあるはずなのに」
「何のことを言ってるのかは知らんが。失ったものは取り戻せない。絶対にな」
「ええその通り。失ってしまえば取り戻せません。だからその前に手を伸ばさないといけないんです。…いや、あなたは手を伸ばすどころか、直視することさえしようとしていない」
「お前は…何のことを言ってるんだ?」
ベヒーモスが眉根を寄せる。今はまだ僕の言ってることを本当に理解できないのだろう。
「前にここに来た時、僕は彼のこと、大丈夫だって言いましたよね。ニルプさんの看護のお陰で今は元気にしてるって」
「ああ。それがどうした?」
「あれは嘘です。彼は全然大丈夫なんかじゃありません」
「何?」
ベヒーモスが僕をじろりと睨む。正直帰りたかったが、ここで引いてしまっては何の意味もない。毒を食らわば皿までだ。
「彼は毎日酒に逃げてます。そんな彼をニルプさんはいさめることもなく甘やかし続けています。あのままではもう二度と彼は戦えないと分かっていても、彼女は彼をあの酒の匂いの浸みついた部屋から出す気はないそうです」
「ふん。出まかせだ」
「かもしれませんね。でも、ならどうしてあの時の僕の言葉の方は出まかせだと疑わなかったんですか?」
「あの時のお前はまだ、おれの中では嘘つきではなかったからだ」
「そうでしょうか?単にその方があなたにとって都合がいいからじゃないですか?」
ベヒーモスは言い返さず、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりにふんと鼻を鳴らした。
「お前はまだ、まともな負けを経験したことがないからそんなことが言えるんだ」
「そりゃあなたに比べれば経験は浅いでしょう。じゃあ聞きますが、レヴィアタンの安否は僕から聞かずとも把握していたんですか?」
ベヒーモスは答えなかった。
「やっぱり、目を逸らしているんじゃないですか」
「仕方ないだろ。それが魔王との契約なんだから」
「一体どんな契約があればかつての仲間を無視し続けられるのか、聞かせてほしいものですね」
挑発的過ぎる物言いな感は否めないが、しかしある程度自然に聞きたい話につなげることができた。
「どんな契約だと?そんなものを聞いてどうするつもりだ。まさかお前ならもっとうまい手を考えられたというつもりか?」
「いえ。それはどうでしょう。ただ、僕ならその契約の穴を見つけられるかもしれませんよ?」
「穴?」
ベヒーモスは首をかしげる。単純に意味が分からなかったのだろう。
「恐らく、魔王にはレヴィアタンに会わないようにと命じられたのでしょう。その代わりあなたの魂だけは見逃してやると」
「逆だ。おれの体を差し出す。その代わりにここの民とレヴィアタンのことだけは助けてもらった」
「なるほど。ここの民と、レヴィアタン…。ジズはどうなったんですか?仲間だったんですよね?」
「…死んだ」
重々しくそう答えたベヒーモスだったが、僕はその言葉を鵜呑みにする気にはなれなかった。
「それは怪しいですね。彼はあなたやレヴィアタンと同じ存在ですよ。彼もあなたやレヴィアタンと同様に肉体と魂を分離されてるだけと考えるのが自然じゃないですか?」
「自然かどうかは知らん。だがおれにはやつの言葉を信じるほかに道はなかった。やつの言葉を疑って戦い続けたところで、何もかも失うだけだ」
「まあ、レヴィアタンだけでなくここの民まで人質に取られていれば、仕方ないかもしれませんね」
ジズがどこにいるかは分からないが、やはり首都であろう。
しかしここで引っかかるのはジズの肉体を魔王ならばどこに隠すかということだ。彼は肉体の無力化のためにベヒーモスの肉体を首都ではなく辺境の水魔城に預けた。この法則でいけばジズの肉体もその力を無力化できる場所に隠していそうなものだ。
空中全域がテリトリーであるジズの肉体をどこに置けば無力化できるか、それは僕も知らない情報ゆえに予想が立てられない。
「じゃあ単刀直入に聞きます。あなたに肉体が戻り、そしてここの民の安全も保証されれば、魔王打倒に力を貸してくれますか?」
「断る。なんで民の安全が保証されたのに戦う必要があるんだ」
確かにその通りだった。では、と僕は質問を変える。
「じゃあ逆に、ここの民が、あなたの生徒たちのためならば、あなたは魔王相手でも戦いますか?」
「そんな日は来ない」
「質問からは逃げられても現実からは逃げられませんよ。まあ、その答えを僕に伝える必要は、ないんですけどね」
僕は確信した。ベヒーモスは牙を折られはしたが、爪までは失っていない。
環境に恵まれたと言うべきか、彼ならその時が来たら、もう一度戦うことだってできるだろう。
「悪いが次の授業がある。話は終わりだ」
そう言うとベヒーモスは横目で僕を一瞥してからくわを手に持ちこちらに背を向ける。
「ちょっと待って下さい!最後に一つだけ」
本題をまだ聞けてなかったので僕は慌ててベヒーモスを呼び止め、質問を投げつけた。
「あなたたちが魔王と戦っていたとき、アルフへイムはどうしていましたか?」