05 これまでとこれからのお話
わずかな空白を置いて、目が覚めた。
ゆっくりと起き上がろうとするが、ぬめつく何かに手を取られて、邪魔される。
首もとへ手をやれば、えぐり抜かれたはずの傷口は、もう塞がっていた。
「――…ニケ」
彼のことを思い出してあたりを探すが、その場にはニケの姿もヤマネコの姿もない。
自分の血を浴びた体には、べっとりと真っ赤な痕跡が残っており、このまま探しに行くのは迷ったが、早くしないと彼が遠くに行ってしまうかもしれない。
血を失いすぎて、ふらふらする体を叱咤して、ひとまずあばら家へと向かう。
途中、落ちていたニケの衣服が目に入るが、残されていたのはズボンとサンダルだけで、なぜか上着のチュニックだけがなくなっていた。
血まみれの体では拾う気になれなくて、とりあえず捨て置いたまま先を急げば、探していたニケは、あばら家の軒先でしゃがみ込んでいた。
チュニック一枚だけを着て、剥き出しの足を抱えながら、膝に顔を埋めている。
「……ニケ」
びくりと、彼の肩どころか全身が跳ね上がった。
そして、ひどく緩慢に見える動きでニケは顔を上げる。
「――――」
声にならない悲鳴を上げ、立ち上がりざま背後の壁面に背中を打ち付けた。
とてつもない恐怖に震えるその姿に、わたしは一歩だけ後ろへと下がる。
「……ニケ、これ以上お前に近づいたりしない。だから、少しだけ私の話を聞いてくれないか」
ただでさえ恐慌状態のニケと、どれだけ会話が成り立つか分からないが、これからの事を考えるなら、彼には嫌でも聞いてもらわなければならない。
ニケの返事は、聞いているのか聞いていないのか分からない怯えた声だった。
「――――なんで――しん、で――ま、まじょ」
「違うんだ。聞いてくれ。きっと誤解している。説明が足りなかった」
とにかく口早にまくしたてる。
「わたしは魔女ではない。本当に魔女ではないんだ。あの“善い魔女と悪い魔女のお話”は、本当にあった出来事で、わたしはこの地に封じられた囚人なんだ。ニケと同じように自由を奪われているんだ」
わざとそう言った。ニケの気を引けるように。
その効果はあったようで、はっきりしない言葉ばかり羅列していたニケの口が止まった。
「……でも、ニケと違うところは、わたしは“悪い魔女”だというとこだな」
ニケは、わたしの話を確かに聞いている顔で、こちらを見ている。
「わたしは昔……すごく昔な、この傾れる滝一帯を支配する魔女で、でも新参で、世事にもうとくて、それはもう傲慢だったんだ」
ニケはまだ聞いてくれていた。
それなら話はなんでも良かった。ニケを落ち着かせることができるなら、そちらを優先させなければならない。
「変な万能感があったんだな、調子に乗って色々とやらかして。お前も見ただろ? 麓の森に生息してるあの異形たちは、ほとんどがわたしのせいなんだ。……魔女の気まぐれな性質は、生まれついてのものだから、ある程度の災厄は当然の事象でも……でも、それは自らの支配領域に限っての話だ。だと言うのに、わたしは傾れ滝の水流が、下手の河川ではまったく別の名を冠していることを理解しておらず、自分の住み処にあるからといって、あの傾れ滝を呪いで汚染したんだ」
こんな己の恥にしかならない昔話、できればしたくなかったが、とっさにできる話を他に思い付かなかった。
「いや、そもそも安易に呪いをかけるのも問題だが、その時のわたしは、自分の気に入らない生き物――人間も含めた生物をわたしの領域から追い出したくて、傾れ滝にそういう呪いをかけた。当然、その呪いは下流の水域でも効果を発揮して、生態系がもう洒落にならない規模で狂い、ぐちゃぐちゃになってしまったんだ」
喋りながらも、わたしはずっとニケの様子をうかがっていた。
ニケは、わたしの話を理解しているのかしていないのか、表情の乏しい顔でこちらを見ている。
「それは河川を飲み水にしていた人間たちも同様で、彼らにも甚大な被害が及んだ。水を巡った争いが起きて、人死にも出たそうだ。……だから人間たちは、お伽話でいうところの“善い魔女”に助けを求め、その“善い魔女”はわたしのもとを訪れた。彼女はわたしを諭したが、魔女が他者の言葉を聞き入れることは滅多にないことを分かっていたんだな。魔女よりももっと大きな存在、精霊の権能を以てして、わたしから傾れ滝の魔女という名を奪い、わたしを人間とほとんど変わらない状態にまでおとしめた」
ニケがわずかに視線を落とした。わたしは、それを見逃さない。
「もちろん、それだけでは終わらなかった。傾れ滝こそ“善い魔女”が浄化していったが、わたしは罰として、“魔の森”と呼ばれるまでになってしまった麓の森が、本来の姿を取り戻すまで、ここで浄化の時を待つことになっている。それにはおそらく2、3百年以上の時がかかる。きっともう、半分くらいは過ぎたと思うが……とにかくわたしは、自分のしでかした過ちが償われるまで死なないし、死ねないんだ」
「……死ねない」
ようやくニケが言葉を発してくれた。
「…そう、死ねない」
たとえ、首の骨を砕かれても。だが、さすがにそこまでは口に出来なかった。
わたしの言葉を繰り返したと言うことは、それだけ落ち着きを取り戻したあかしだろうか。もしそうだとして、思考力も戻っているのなら、その間にきちんと助言をさずけなければならなかった。
次の台詞を慎重に選びながら、わたしはようやく本題へと切り出していく。
「……ニケ、ここから出て行きたいだろ」
ニケは、わかりやすくギクリと肩をふるわせた。
「でも、何も持たずに飛び出し行くのはダメだ。すぐにまた行き倒れるか、最悪、売り買いの世界に戻されるはめになる」
彼の戸惑いはとりあえず後回しにして、その背後にあるあばら屋を指さした。
「まず、家にもどって荷造りをしろ。わたしの手伝いが嫌なら、わたしはここにいる。もちろん、家の中にある物をなんでも持っていっていい。一番大きな棚に背負い袋があるから、衣服と軽食を中心に入るだけ詰めこむんだ。ただ、ここを下りるのに険しい山道を通ることを忘れるな。それを考慮して、重さを調整していくんだ」
ニケは、わたしに指示されるまま、わたしとあばら屋を交互に見返していく。
「それと……生憎いまは持ち合わせがないんだ。だから、金の代わりにわたしの髪を持っていけ」
とたん、ニケの両目が驚愕に見開かれた。
だが、それにすらかまわず、わたしは続ける。
「大丈夫だ。わたしの金髪が町で売れることはもう分かってる。それなりの値段が付くことも。ただし、売る場所には気を付けなくてはいけない。下手な店を選んでしまうと、かえって危険を招きかねないから」
「――髪って。お金がないって、どうして?」
ニケだった。どこか拙いしゃべり方で口を挟んでくる。
「だって、買い物たくさんして、このあいだ、何度も……」
ニケが何を言おうとしているのか、全てを聞かずとも分かった。
「……あれは、その……あと半年、お前がここに居ると思って、色々と買い込んでしまって。それで……」
「それで、お金がないんですか?」
察し良くつぎの台詞を読んでくるニケに、どう返すべきか迷うが、彼がさらに言い放った言葉は意外なものだった。
「だから、何も食べないんですか?」
気付いていたのかと、わたしは少なからず面食らった。
一緒に食事をしたのは最初の数回だけで、その後は、何かにつけて忙しく振る舞い、ニケ一人だけに食事をさせていた。
食べる喜びは知っているし、消化器官も機能しているが、飲まず食わずでも死なないことは検証済みだったから、食べ物のほぼ全てはニケに与えていた。
ニケがそれに気付いていたのなら、自分にばかり食べ物を与えてくるわたしの姿は、いったいどう見えていたことか――そんなもの、考えずとも分かった。
「……そうか。まだ、わたしがお前を食べるつもりでいると思っていたんだな?」
すると、ニケは後ろめたそうに視線を背ける。
「すまない。いじわるな言い方をした。自分から“悪い魔女”だと言ったんだものな。そう思って当然だ。むしろ、そのせいでずっと怖い思いをさせていたんだな」
「……いえ」
「言ってしまうと、腹じたい空かないんだ。それに、食べなくても死なない体より、これから大きく成長する体に、より食わせてやる方がずっと大事だろう?」
「…………」
「いや、これも言い方が悪いか。私がお前を育てると言ったから……いや、うーん。そうだ。私は、ニケのために何かすることが楽しいんだ。ニケが着るもの作ったり、ニケが食べるものを用意したり、ニケに家の事を教えたりすることが」
わたしを見上げてくる銀灰色の瞳が、大きく揺れた。
「ここにずっと一人でいた時は、することが本当に何もなくて。何も出来ないなりに何でもしてきたけれど、それでもやっぱり、時間を持て余して仕方がなかったから。でも今は、毎日がとても忙しくて、それがとても楽しいんだ。だから―――」
――――だから?
その先に続けようとした言葉に気付いて、わたしはあわてて口を噤んだ。
「だから、もっと一緒にいたい」そんな台詞は、あまりにも自分勝手な言い分だと気が付いて、すぐさま喉の奥へと引っ込めた。
ニケの様子をうかがえば、彼はわたしが作ったチュニックを握りしめながら俯いている。
「……すまない。引き止めるつもりはないんだ。それよりお前のこれからだ。早くしないと、じきに日が暮れる。お前は夜目が利くから、むしろ夜に行動した方がいいかもしれない。それから―――」
そこで言葉が止まったのは、遮るようにニケが首を横に振ったからだ。
「――――……います」
小さな呟き声だった。それでも、はっきりとわたしの耳に届いた。
「……ここに、います。ずっと。……出ていきません。手の“印”を消しても」
一瞬、聞き間違えかと思ってしまった。
それほどわたしは、ニケが言ったことが信じられなくて、理解するのに時間がかかった。
「――――……い、いいのか?」
「……はい。……ボクは、大丈夫です」
「――でも、……でも、怖いだろう? わたしが“悪い魔女”だったのは事実なんだ」
ニケはまた、首を横に振る。
「ぜんぜん怖くないです。ぜんぜん」
ついさっきまで、あれだけわたしに怯えていたのに、ニケはそう言い切ってみせた。
けれどそこには、強がりや誤魔化しといった虚勢はないようにも見えた。
「……いいのか、本当に」
「はい。ボクは、ここに居たいです」
「――――……そうか」
わたしは、この時ほど自分に呆れたことはなかった。
ここに居たいといってくれたニケに対して、それだけしか言えなかった自分に呆れ果ててしまう。
けれど、胸の中は、じんじんとした感情の高ぶりでいっぱいだった。
これまでも、ニケと話す度に胸の中はほかほかと温められていたが、今では痛いくらいに熱くて、まともな言葉を発せそうにない。
ニケが、ここに残ってくれる。
どんな心情の変化があって彼がそう言ってくれたのか、その気持ちを正しく汲み取ることは、きっとわたしにはできないだろう。
それでも少しだけ自惚れるなら、ニケがいる生活を、わたしがどれだけ日々の糧にして今日までいたのか、その気持ちを、たぶんニケの方が汲み取ってくれたのだと思う。
だからわたしは、わたしの気持ちを知ってくれたニケに、込み上げるような熱を感じてならなかった。
そんな、とめどない熱を呑み込むことは、ひどく難しかったが、このままではろくに喋れないため、それでもどうにか呑み込んで、お腹の中へと大事にしまい込む。
「――えと。なら、どうしようか……そうだ、夕飯ができていたんだ。食べに――」
言って、すぐさま気がついた。あんな凄惨な場面を目の当たりにした直後に、食事をしろというのは無神経ではないかと。
何よりわたしは、現在進行形で血まみれだった。
「あ、いや、今日の夕飯は無理に」
「食べます」
ニケが言った。
「全部、食べます。ちゃんと」
視線を合わせてはくれなかったが、何かを堪えるような顔をしながら言い切った。
「……そうか。うん。分かった。でも、ゆっくりでいいからな」
ニケは、こくりと頷く。
「……あ、でも、その前に、服ひろってきます。ボクの……」
そう言うニケは、チュニックのすそから膝小僧をのぞかせていおり、彼のズボンとサンダルは、まだ雑木林に捨て置かれたままだった。
「……ああ。それじゃあ、私は水を汲んでくる。着替えるにしても、色々と汚れてしまっているし……先に食べていてくれいいぞ」
もう一度うなずくニケを見てから、わたしは足を踏み出した。
ニケが、わたしが作った衣服を、“ボクの”だと言ってくれた。
たったそれだけの言葉を、密かに噛みしめながら水を汲みに向かうが、しかし、数歩と行かない内に、ニケがぽそりと喋るのが聞こえた。
それは、「さっきは、ごめんなさい」と囁く声で、思わず振り向けば、ニケがびっくりしたように一瞬固まり、そして、右と左を交互に見てから、雑木林の方へ逃げていく。
「…………」
どうやら、私の拾った元奴隷の少年は、とても口べたな子ではあるけれど、心の中は思い遣りで溢れた優しい子でもあるらしい。
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