17 財産と身代のお話
魔女の名と共に、魔女の力も復活した。
その力は、わたしの悲鳴と共に放出され、周囲の一切合切を破壊つくしていく。
そのはずだった。
しかし、感情的な爆発がおさまり、辺りの状態が見えてくると、洞窟どころか隠れ家すら無傷でとどまっていた。
すぐ側では、豪奢な椅子に腰掛けた北の森の魔女が、変わらずわたしを見下ろしている。
「うーん。やっぱり、ちょっと弱っているみたいね……あ、感謝してよね。お前の癇癪は、わたしがきちんと抑え込んあげたわ」
「…………」
「それとも何? これから本格的に災厄でも撒き散らすのかしら? かまわないわよ。どのみち、あの取り引きの魔法には、わたくしのように相手をだまして使わせる方法もあるから、お前が何の反省もせず魔女に戻っていたら、今度はわたくし自らから手を下してあげる予定でもあったしね」
「…………」
「ふふ。そう。仇討ちする気力さえないのね。カワイソウに」
北の森の魔女は椅子から立ち上がり、わざわざ、わたしの傍らにまでやってくる。
「ねえ、苦しい? 人間たちが味わった思いを、きちんと思い知れた?」
「…………」
わたしが、北の森の魔女に何かを言えるはずがなかった。
すべて身から出た錆なのだから、そんな資格などあるはずがない。
それでも、それでも、それでも。
ニケは、ニケだけは、何の関係もないはずだった。
非などひとつもなかったあの子を、わたしの罪業に巻き込んでしまった。
悔恨と哀号に涙はとめどなくあふれ、しかし、為す術もないわたしは、ただ泣き伏せる。
まだ、小さな子だった。まだ、色々なことに気兼ねをする子だった。
過酷な運命に翻弄されながら、それでも生きようとしていた幼子だったのに―――あってはならない形で、無惨な死へと追いやってしまった。
何もかも、わたしのせいで。
「……そう。充分に思い知ったみたいね。なら、いいわ」
わたしはもう、悲嘆に暮れていたいのに、北の森の魔女が何かを言った。
「じゃあ、ひとまず顔を上げなさい。それから、あちらに注目」
どうしたら放っておいてくれるのか、気が済むまで付き合えばいいのか。
投げやりな気持ちで、彼女の指示に従って顔を上げると、彼女は人差し指でわたしの背後をさしていた。
のろのろと振り返ってみれば、寝台の上にあった掛布のふくらみがもぞもぞ動き出していた。そこは、さっきまでニケが座っていた場所。
何が動いているのか考える暇もなく、一匹のヤマネコがひょっこりと顔を出す。
「…………」
銀灰色の瞳と、目が合っていた。
白地に黒の縞模様の入った大きなヤマネコは、わたしの顔を見るなり、低い声で鳴く。
人の言葉ではなかったが、わたしの名を呼んだに違いなかった。
「――――……どう、して?」
ヤマネコが、ニケが、問いかけに応えるようにして寝台から下り、わたしのそばへと駆け寄ってくる。
その体躯に欠けた部分はなかった。
四本の脚は、四本とも胴体からすらりと伸び、軽やかに動くので、わたしの目を釘付けにする。
「お前がさっき、自分で確かめていたじゃない。ニケの獣の部分は、供物になりえないって。だからこうして、ヤマネコの部分だけが残ったのよ」
わたしの問いかけに応えたのは、北の森の魔女だった。
「――そ、そんなに簡単に」
「失礼ね。ぜんぜん簡単じゃないわよ。あのね、その昔、お前の名を奪ったあの取り引きの魔法で、ひと一人が犠牲になっているの。だから、お前を魔女に戻すのに時にも、ひと一人を犠牲にする必要があったの。つまり、ニケの体の半分だけじゃ、ちっとも足りなかったのよ」
「……どういう」
「それだけじゃないわ。お前が、ニケとの取り引きをバカスカと連発するから、人間のの方の腕を一本を無くしてしまったうえ、次の取り引きでは、その腕一本以上の価値を余分に支払わなければならなくなっていたから、本来なら取り引き自体成立しなかったのよ」
「なら、どうやって……」
「だから、たくわえてあったニケの財産から、足りたりない部分を補填して、ようやく供物として成り立たせたのよ」
彼女は、さも当然のことのように言うが、わたしの疑念はますます強まった。
「……いや、財産って……この家に銀貨なんてもう」
「だからお前は、無知だと言っているのよ」
北の森の魔女は、呆れた口振りでわたしをなじる。
「取り引きの魔法は、太古の昔からあるの魔法なのよ。それこそ人間たちが貨幣を使用する前から存在しているの。なのにどうして、人間の財産が金貨や銀貨に限定されてしまうのよ。財産というのはね、身代のことよ」
「……しんだい?」
「身代とも言うわね。それは、人間が作り出せるすべての生産物のことで、衣類品から食物品といった財物のほか、人間が要した労力なども含まれるわ。金銭は、それらを交換するための媒体にすぎないの」
さも訳知り顔といった様子で、北の森の魔女は微笑んでいたが、その微笑が、まったく別の予見をわたしに仄めかしていた。
「ここまで言えば、ニケの財産が何のことか、もう分かったんじゃない? 何と言っても、お前たちはこれまで、冬に備えたたくわえを財産として散々ため込んできたんだから」
わたしは、北の森の魔女には応えず、あるモノを床の上に探していた。
すると、ニケも同じようにして、床の上に視線を移す。
しかし、いくら二人で探しても、ニケのためにわたしが作った、彼のサンダルがどこにも見当たらない。
それだけではなかった。わたしが作ってニケがずっと使っていた寝間着も無くなっている。
駆り立てられるように、わたしの体は動いていた。
急いで寝室を出て、ついてくるニケを伴いながら、隠れ家の外にある氷室用の保管庫へと走る。
そこに広がっていたのは、想像していたとおり、目を見張る光景だった。
ニケのためを考えて、棚という棚にぎっしりと蓄えてあった備蓄品が、ごっそりと消えていた。
保存食をはじめとしたリンゴベリーの砂糖煮やジャム、オリーブオイルで作ったウサギ肉の油煮や燻製肉、穀物、酒類などの食料品はもちろん、蝋燭やランプオイルといった生活用品の何もかもが、根こそぎ無くなっている。
きっと、それだけではない。
糸から編んで作り上げたチュニックやズボン、完成に何ヶ月もかけたサンダルや革靴、新調した防寒着の数々――ニケの所持品だとされる物は、隠れ家のいたるところから失われてしまっているのだろう。
すっかり空っぽになってしまった棚を見て、わたしの目頭がまた熱くなる。
整理棚や保存棚に少しずつ詰め込んで、まるで心の糧ようだと思っていたものが、ひとつ残らず無くなってしまった。
けれどそれは、心の糧よりもはるかに得がたく、尊いものの身代わりとして役目をまっとうした。
わたしとニケのこれまでの奮闘は、何ひとつ無駄にはならなかった。
すべてが、ここに報われていた。
わたしは、わたしの足下で体を寄せながら待っていた、ヤマネコの首筋へと抱きつく。
目から溢れてならなかった涙が、とたん彼の毛皮に吸い込まれていった。
温かでフワフワなニケは、同じようにして頬をわたしにすり寄せてくる。
「……ちなみにね、供物になる財産には、その物品にかけられた労力や年数も含まれるわ。ようするに、手間暇を惜しまず、手塩にかけたた分だけ、価値は高まる寸法ね」
声の方を見上げると、北の森の魔女が、ぴんと伸びたニケのシッポに興味を示しながら、口をこぼしていた。
「で、そうした労力と、ニケの財産と、ニケの体の半分をいろいろ加算して、魔女復権に値する供物へと代えたのだけれど……良かったわね。あくまでも肉体的な価値での取り引きで。命なんかが取り引き材料に入っていたら、そうそう支払えるものではなかったわよ」
また、はじめて聞いた新事実に、わたしが北の森の魔女を見つめていると、彼女はその視線に気付いたように、わたしへと顔を向ける。
「知らなかった? 命での取り引きは出来ないのよ。そんなことが出来たら、命で命をあがなえることになってしまうでしょ。自分の命や他人の命を差し替えられたら、生者と死者の境界が崩壊して、それこそ世の中大混乱だもの」
けっこう重要なことだと思うのに、彼女はニケのシッポを撫でながら、さらりと言う。
シッポを触られたことに気付いたニケが、背後で動くよその手に目を向けたが、振り払ったり唸り声をあげたりはせず、大人しくされるがままにしていた。
きっと彼なりに、北の森の魔女へと謝辞を示しているだろう。
彼女の気が済むまで、わたしもなだめるようして、ニケの頭と首筋をなでつづけた。
「さてと。じゃあ、そろそろいいかしら」
しばらくして、満足したのか、ふとしたように北の森の魔女が切り出す。
「わたくしのお陰で、色々と救われて、色々と賢くなったはずのお前に、その大恩人からひとつ要求があるのだけれど」
「え」
いきなり飛び出してきた“要求”という大仰な語句に、わたしは面食らう。
すると、北の森の魔女は、最後の最後まで含みのある笑みを浮かべてきた。
「傾れ滝の魔女復権をお祝いしてあげたついでに、ニケの使い魔就任のお祝いも、わたくしにさせてちょうだい」
からかうように、ひけらかすように称えた笑みは、どこまでも蠱惑的で美しかった。