16 北の森の魔女と傾れ滝の魔女のお話
「そもそもどうして、罰を受けたお前に取り引きの魔法が残されていたと思う?」
北の森の魔女は、豪奢な椅子に深くもたれかかりながら、そう言った。
無駄口を挟めば帰ると言っておきながら、平然と問いかけてくるむら気の多さに納得いかないが、指摘しても仕方のないことなのだろう。
現に、わたしの答えを待たずして、彼女は続ける。
「あの魔法はとても古い魔法よ。原初の魔法とも言われているわ。でも、その内実を語るなら、あれは人間と精霊の取り引きであって、魔女はただの仲介者にすぎないのよ」
それくらいのことは知っていたが、いまは聞き役に徹するのが最善だろう。
「原初の魔法といわれているのは、太古の昔、人間たちが精霊に供物を捧げて、災厄を静めていた祭儀に端を発するの。それが段々と形をかえて、今のような魔女を介して願い事を叶えるという魔法になっていったのだけれど……まあ、さすがにその辺は割愛するわね」
言いながら、北の森の魔女はニケへと笑いかける。
ニケの体が弱っていることを、彼女なりに気を遣っているようだった。
寝台の上で掛布にくるまれたままのニケは、何も応えなかったが、わたしの背に隠れるようなことはせず、むしろ、北の森の魔女に立ち向かうように姿勢を伸ばしていた。
「ちなみに、災厄というカテゴリーには魔女も含まれていてね。ほら、ちょっとした昔、どこぞの魔女が不始末を起こして、名前を奪われる羽目になったのも、このわたくしが、人間たちに頼まれて、直々に取り引きの魔法を施したからなのよ」
それは初耳だった。
「いまどき、取り引きの魔法なんて、古風なことよく知っていたものだと驚いたけど、まあ、それだけ彼らが、かつてないほどの危機に追い込まれていたってことね」
ぐっと、わたしは、後ろめたさに息を詰まらせる。
かつて無い危機に彼らが見舞われる原因を作ったのは、言うまでもなくわたしだった。
「――さて。ここから本題に戻るのだけれど、さっき言った、罰を受けたはずのお前に、どうして取り引きの魔法が残されていたのか、その理由を教えてあげるわ」
ここまで勿体ぶったからには、いったい何が飛び出してくるのか。
それを考えると恐ろしくて、わたしは知らず知らずに身構えていた。
「単刀直入に言うと、それを使えば、お前は魔女に戻れていたのよ」
さらりと言ってのける。
ここまで勿体ぶったわりにやたら口調が軽くて、冗談なのか本気なのか判断が付かず、わたしは、かなり時間を要してから、「なに…?」と呟いていた。
「だから、お前が人間の力を借りて、お前を傾れ滝の魔女に戻すという取り引きを成立させられていれば、お前は魔女に戻れていたの。かつて、わたしが交わした取り引きも、はじめから、そういう内容だったしね」
「――そ、そんな話は聞いていない」
「そうね、言っていないもの。でも、お前がもっと、どうしてあの魔法だけが残されていたのか。どうして、森に封じられた身で人間の町へとほいほいと出かけられたのか。その辺のズレに、きちんと頭を回せていれば、けっこう自明の理だったと思うけどね」
そんな食い違いなど、気にもとめていなかったわたしは、何も言い返せなくなる。
「あの大災厄の直後では、さすがに無理だったろうけど、それでもいつか、お前が自らの行いを悔いて、人間との信頼関係をきずくことができたなら……あの“悪い魔女”だと知られてもなお、魔女に戻って欲しいと願ってくれる人間が現れたなら、お前は魔女に戻れていたのよ。たとえば―――」
言いながら彼女は、もう何度目かになるか分からない、意味ありげな視線をわたしとニケに向けてくる。
「たとえばそう、今のお前とニケのような信頼関係をね」
北の森の魔女は、さも得意気な顔をして、わたしたちを見つめていた。
あれだけ含みのある言い方をされていれば、虚を衝いてくる“答え”がそこにあるのは分かっていた。
けれど、いざ答えを提示されてみれば、まるで過程をすっ飛ばして解答だけを与えられたような、そんな隙間の空いた感覚におそわれる。
「それって――」
「それって、ボクなら、この人を魔女に戻せるという意味ですか?」
わたしより先に、ニケが応えていた。
すると、北の森の魔女は、わたし相手には絶対に見せない満面の笑みをたたえてニケへと向き合った。
「いいわね。飲み込みの速い子は好きよ。ご褒美に、もうひとつわたしからアドバイスしてあげてもいいわ。知りたい?」
「知りたいです」
ニケもまた、うって変わって、警戒心など微塵も感じさせない様子で返事をするので、北の森の魔女の好感を得る。
「じゃあ、教えてあげるわね。そこにいる元魔女が、完全無欠の魔女に戻れたのなら、お前たちが抱えている問題の全てが、いっきに解決するとは思わない?」
「解決……ボクの病気のことですか? 魔女なら治せるんですか?」
「それはもう、楽勝よ。君が失った片腕も……まあ、何とかなると思うわ」
ニケが、事実の確認を取るように、わたしの顔を見てくる。
たしかに、魔女の力がわたしに戻れば、人智の及ばない万事を成し得るようになるのだから、あれだけ再発を繰り返したニケの病も、完治が可能になるだろう。
わたしは、ニケの視線にうなずくと、ニケは希望に満ちた顔して、再び北の森へと視線を移す。
「でも、病や腕よりも、ニケにはもっと叶えたい願いがあったのではなくて?」
彼女がせっつくように促すと、ニケは、何のことか分からないという表情を見せた。
「あら、一番大事なコトを忘れてしまったの? 傾れ滝の魔女が復活すれば、お前を使い魔にすることだって容易いじゃない」
ニケの横顔が、いっきにほころぶ。
この数日、まず見ることの無かった、こぼれるような笑顔だった。
「――はい。はい、そうです。そうなりますっ」
「ふふ。素直な反応ね。なんだか、わたくしも嬉しいわ」
ニケと北の森の魔女は、すっかり打ち解けてしまったようで、わたしなどそっちのけで、とんとん拍子に話を進めていく。
「あ、でも。取り引きの魔法で、使い魔になりたいと願ってもダメよ。それではニケの願いが叶うことはないわ。どうしてか分かる?」
「え、えーと……」
ニケは、耳を動かしながら考え、それから思慮深げ目でわたしを見上げてくる。
「この人が……ガートルードが、まだ魔女じゃないからですか?」
「正解。使い魔は、魔女との契約がなければ、絶対になれないの。だからまず、そこの元魔女を魔女に戻さなければならないわね」
こくりと、ニケは北の森の魔女へとうなずく。
「じゃあ、次の質問。取り引きの魔法を成立させるためには、ニケの願いが、心の底からわき出たモノでなければならないけれど、お前にそれだけの想いはある?」
「――はいっ」
迷いなど、ほとんど見せずにニケは答えてみせた。
「あら、たのもしいわね。なら、実際に気持ちを込めて言ってみて」
「傾れ滝の魔女を、魔女に戻してください」
「取り引き成立ね」
「――え」
瞬間、ニケの全身が青い炎に包まれた。
わたしの横で、突如としてあがった青い炎は、これまで幾度となく見てきた、精霊に供物が捧げられた時の炎だった。
わたしは驚きに目を見開き、視界の端では女が――魔女が笑っていた。
ニケの姿が消え、彼が肩にかけていた掛布が寝台の上へと落ちていく。
とてもゆっくりと、緩慢な速度で落ちていくから、ニケがさっきまでいた場所に、手を伸ばすのが遅れた。
ひと拍も、ふた拍も時が過ぎてから、手を動かそうとして、
「魔女復権、おめでとう」
ひどく遠くの方から、女の声が聞こえてきた。わたしは、彼女を振り返る。
「あら、まだ自覚がないのかしら? でも、ニケの願い通り、お前は魔女に戻れたのよ。よかったわねぇ」
豪奢な椅子にもたれたままの彼女は、いま目の前で起こったことなど、まるで頓着していない仕草で、わたしに祝辞をおくってくる。
彼女の仕打ちに思わず立ち上がっていたが、足に力が入らず、その場に崩れ落ちた。
「――…な、なぜ? どうして、こんな……」
ようやく声だけ絞り出せたが、ますますわたしを見下ろす形になった北の森の魔女は、待っていたとばかりに口の両端を歪ませた。
「だって、これが本当の“罰”ですもの」
彼女は椅子から身を乗り出し、わたしへの呪詛を吐き出す。
「お前への復讐に、人間たちが願ったのよ。彼らは言ったの、あの魔女に自分たちと同じ思いを味合わせて欲しいと。お前がいったい何をしたのか。自分たちから何を奪っていったのか、それを思い知らせて欲しいのだと」
「…………あ」
「あなた、相当うらまれていたわよ。そりゃそうよね。飲み水をめぐって人間たちは争ったんだもの。どれだけの被害が出たと思っているの? どれだけの生活が壊されたと思っているの? どれだけの親が、子が、兄弟が、お前のせいで死んだと思っているの?」
彼女の口から吐き出されているのは、彼女の言葉ではなかった。
かつてのわたしが、気まぐれに踏みにじった人間からの、まぎれもない怨嗟だった。
「だからね、いつか、お前を魔女に戻したいと言ってくれるほど、お前を慕っている人間があらわれた時、その子をそそのかして、取り引きの魔法を持ちかけるのが、わたくしの役目だったの。お前の目の前で、ムリヤリ奪ってやるために」
「…………あ……ああ……」
「さあ。もう一回、お祝いしてあげるわね。傾れ滝、魔女への復権、オメデトウ」
わたしの口が、慟哭を衝いた。
つんざく女の鳴号に、滝は、森は、ことごとく震撼し、主たる魔女の復活をいろうなく知らしめた。