12 彼の願いと彼女の想いのお話
春まで、およそひと月半。
あの薬剤師が言ったとおりなら、それまで保たせられれば、ニケの症状は改善するのだろう。
わたしは、街道を休みなくひた走り、家路を急いだ。
ニケには一週間で戻ると約束していたが、この調子なら難なく一週間後に帰宅できるはずである。
麓の森へと続く途中で立ち塞がっていた雪の壁も、すでにいちど掘った通り穴があるのだから、何のとどこおりもなく通り抜けられた。
難所があるとすれば、山道をのぼる時になる。
降り積もった雪を振り払いながらの作業になるため、どうしても時間がかかった。
中腹で壁面に沿うように足を動かしながら、あともう少しと、視界の端にある洞窟の入り口を見ていたわたしは、気がはやっていたのだろう。
足下の雪払いをぞんざいに済ましてしまい、気付いた時には岩壁を転がり落ちていた。
意識を取り戻した時、わたしは雪の中にいた。
身動きができず、自分の置かれた状況に混乱するが、すぐに崖から落ちたことを思いだす。ついで、落ちた拍子に小さくない雪崩れが起こり、それに巻き込まれたことを察した。
ほとんど雪の重みに拘束された状態だったが、それでも何とか手足を動かしていれば、わたしの体温で雪は徐々に溶けてゆき、やがて身動きが出来るようになる。
本当に何時間もかけてわたしは、雪の牢獄から這いだして、それから息つく間もなく山道を再度のぼりはじめた。
外は昼間だったが、薄雲から見える太陽の位置が、崖から落ちた時とほとんど変わっていないことに気付いて、背筋に悪寒が走る。
気絶していた時間。生き埋めになっていた時間。どれだけの時間が経過したのか、正確には分からなかったが、確実に十数時間は経っているはずだった。
一週間以内に帰ってくると言ったのに、一日遅れてしまった。
ニケがどんな状態でいるのか、わたしは気が気じゃないまま山道の登りつづけ、ようやく洞窟入り口まで辿り着くが、異変は隠れ家のある洞窟を、半ば過ぎた時から起きていた。
何かがおかしいことはすぐに感じていたのだが、その正体がはっきりとしなくて、漠然とした違和感を抱えながら、ひんやりとした洞内を駆けていくが、ようやく隠れ家と見慣れた木の扉を目の前にし、扉のノブへと伸ばした時に気が付いた。
暖房器具がついていない。
「――ニケっ!」
わたしは乱暴に扉を開け、中へと飛び込む。
入ってすぐ、テーブルとソファの置かれた居間は、オイルランプの光すらひとつも灯っておらず、暗く、冷たく、乾いた空気に包まれていた。
一も二もなく飛び込んだのは、寝室だった。
またあの病を発症して、動けなくなっているのではと血の気が引いたが、寝室には誰もいなかった。
簡易な寝台が二つあるだけで、人が横たわっている形跡すらない。
「ニ、ニケ……いないのか?」
震えそうになった声で名を呼ぶが、返事はない。
ニケはいなかった。
肌を逆撫でするような恐怖が、足下から這い上がってくる。
以前なら、帰ってきたわたしを出迎えて、ほっとした顔を見せてくれていたのに、今はどこにも居ない。
どうして居ないのか、わけが分からなくて、わたしは知らず知らず居間へと戻っていた。
居間の中はほの暗い。まだ昼間で夜目の利くわたしには充分に見えていたが、平静さを取り戻そうとしてか、気付けば、オイルランプに灯を入れていた。
ランプに照らされた室内に、荒らされた痕跡はない。全てが全て、収まるところに収まり、見慣れた日常として静まりかえっている。
それなのに、私の目には、まったく知らない景色が広がって見えた。
ほんの少し前まで、あれだけ温かで、あれだけ幸せな光景がそこにはあったのに、同じはずの居間には、同じ色取りを何ひとつ重ねて見ることができなかった。
ニケがいない。
ニケを探さなければと己を叱咤して、わたしは両の足を動かしだす。
寝室の次に向かったのは、奥にある炊事場で、かまどと暖炉が置かれているそこは、本来なら薪がくべられて温かいはずのなのに、今はひんやりと機能を停止している。
暖房器具の使用方法は、ニケにはきちんと教えあるし、たきぎも充分に蓄えられている。使い方が分からなくて放置されたとは考えにくい。
いったいつから火が消えていたのか。恐ろしい想像をしそうになった頭を振り払って、ニケを探す作業に戻る。
かまどや食器棚の横、調理台の下、大きな麻袋の中などを、くまなく確認するが、ニケの姿はどこにも見当たらなかった。
これで、隠れ家にある三つの部屋すべてを調べ終えてしまった。
その事実に心臓が嫌な音を立て始めるが、ここで冷静さを欠いては、見付けられるものも見付けられないだろう。
ニケが居ないのなら、どうして居なくなったのかと、無理やりにでも思考をずらすため、いったん居間に戻ることにした。
居間のテーブルにオイルランプを置き、身体を支えるために卓上へ両手をつくが、その時、かたりと、どこからか物音が聞こえてくる。
すぐ近くではないが、それほど遠くでもない。音が聞こえてきた方向は、寝室だった。
きちんと閉めていなかった寝室の扉を手のひらで押し広げれば、ほんの数分前にはなかった白い大きなものが、暗闇の中でぼんやりと立っていた。
「……ニケ?」
白い何かが、ぴくりと反応する。
おそらく寝台の両脇かその下に隠れていたのだろう、白い敷布を頭からすっぽりと被った彼は、ゆっくりと振り返り、わたしの方を見向く。
白い敷布からは、丸い2つのが瞳孔だけがのぞいていた。
わたしの背後にあるランプの光を照り返し、闇の中でくっきりとした妖光を放っている。
だが、大事な大事なあの子の目を、わたしが見間違えるはずがない。
そこにいるのは、間違いなくニケだった。
「ニケ、良かった。無事だったんだな」
「…………」
聞こえていないはずはないのに、ニケはわたしに何の言葉も返さなかった。
「ニケ? どうしたんだ?」
「…………」
光を鈍く照り返す両の目は、変わらずわたしを捉えている。
けれど、何も応えようとしない。
「…………怒って、いるのか? 帰ってくるのが遅れたから」
わずかな呼吸音が聞こえた。
それが肯定と否定、どちらを意味するかは分からなかったが、反応したという事実だけは受け取れた。
そうか、と思った。やはり、とも。
予兆はあったし、気付いてもいた。わたしが何日もかかる遠出をするたびに、ニケが何かしらの怯えを見せていたから。
分かっていて、わたしは何度も出かけていったのだ。
すべてニケのためだった。だから、分かっててもそうするしかなかった。
でも、まさか、たった一度のあやまちでこうなるとは思わなかった。
ニケの目が、わたしに向けているものは、まぎれもなく“不信”だった。
「ニケ、すまなかった。約束を破ってしまったな」
「…………」
何も答えないニケに、まるで、最初の頃に戻ったようだと思った。
たった一度、たった一日。
何日も、何ヶ月もかけて積み上げてきたはずのわたしたちの信頼は、たった一日のひび割れであっさりと崩れ去り、振り出しに戻ってしまった。
「――――……も、もう一度だけチャンスをくれないか?」
わたしの口から、衝いて出ていた。
ニケが心がこうも易々と離れてしまったのは悲しいし、やり切れないが、しかし、そんなことは、ニケを失う恐ろしさに比べたら些末なことだった。
「……今度は、絶対にお前を」
「――――」
ニケが何かを言った。
しかし、あまりに小さな呟きで、よく聞き取れない。
「な、なんだ? すまない。聞こえなかった」
たじろぎながら弁解するが、ニケは、その場にうずくまってしまう。
「ニケ」
「――ごめんなさい」
くぐもった声は、懺悔のそれだった。
敷布にくるまったただでさえ華奢な背中を、ニケは悔恨に丸めてさらに小さくする。
「……ごめんなさい。ボクは、……ボクは、……あなたを疑いたくないんです。それなのに、ボク……ボクは……ごめんなさい……」
わき目もふらず詫び続けるニケに、わたしは応じるのが遅れた。
そんな必要はないと制止しようとした時、彼が言う。
「ボクは、罪人の息子として、故郷を追われたんです」
声こそふるえていたが、その語り口はしっかりとしていた。
「あの頃はまだ小さくて、詳しい事はよく分かっていません。知っていることは、父が長年仕えていた主人を手にかけてしまったことと、その場で処刑されてしまったことだけです。そのせいで、ボクと母もまた、父の咎を負わされて、追放という形で罰せられたんです。だからボクたちは、母の出身地であるこの土地へと移ることになって……でも、ここにまで辿りつくまでに、お金がほとんど尽きていて……だから、母は……ボクの母は、生きていくために、ボクを人間たちに売りました」
それは、これまでニケが、自分を語るうえで頑なに言おうとしなかった部分だった。
「誰もいない廃墟に身を寄せていて……すぐに帰ってくると言って……ボクを置き去りにしたんです。ボクを迎えに来たのは、奴隷商人でした」
「……ニケ」
「あなたは、ボクの母ではありません。母とは違います。違うと分かっています。なのに、ボクは……ボクは、怖くて」
わたしは、足下でさらけ出された告白に、どうすればいいのか分からなかった。
もういいと、声をかければいいのか。すべて吐き出せるよう、聞いてやればいいのか。
彼がいま、求めているものを懸命になって探す。
「ボクは、あなたの使い魔になりたい」
「――え」
「そうしたら、縁を結べるって。どこに居ても分かるようになるって……」
ああ、と漏らした言葉は、声になっていなかった。
そんな話を、ニケにしたのはいつだったか。秋の中頃、ニケが狩ったアナウサギの血抜きをしていた時だ。確かにその時、わたしはそう言った。けれど―――
「お願いです。ボクを、あなたの使い魔にしてください」
わたしはこの時、正反対の感情を同時に味わっていた。
ニケが求めているものが何なのか、それは痛いほど伝わった。
しかし、その何かは、わたしを喜ばせるものであり、悲しみに沈ませるものでもあった。
そこまでして彼が求めてならないものを、叶えてやれる術が、わたしには無いのだから。
何も言わずにニケのそばへ歩み寄ると、うずくまり凝り固まったニケの背中を、覆いかぶさるようにして抱きしめた。
「……わかった。わかったよ。春になったら方法を探そう」
すっかり冷え切った小さな背中を、温めたくて何度も何度も撫でさする。
「その頃には、お前の病気も、きっと良くなっているはずだから。それで、いいな?」
はい、と答えたニケの声は、あまりにかそけなく聞こえた。