10 変化と変調のお話
思惑どおり、はじめの頃は恥ずかしがっていたニケも、数日もすれば、膝枕をされることに次第に慣れていった。
すると、眠たい時に眠ることにも抵抗がなくなってきたようで、ニケは一日の半分近くを寝て過ごすようになる。
すやすやと眠る寝息を聞きながら、物音を立てないよう手仕事に従事するのは、それはそれで幸せな空間で、わたしのお気に入りのひとつになっていた。
そうして冬のシーズン最初のひと月は、本当におだやかな時間をニケと共に過ごしていたのだが、だからなのか、ほんの少しの変調は、何の前触れもなく訪れたように思えた。
その日の朝、目が覚めると、隣の寝台にニケの姿がなかった。
わたしとニケの寝台は、眠る場所こそ別々してあるが、他に寝床を作るスペースがなかったため、二つの寝台を隣り合わせにして、寝室は一緒にされている。
狭い寝室を見渡して彼がいないこと確認すると、わたしはニケの名前を呼びながら他の部屋を探し回った。
時間はさほど要さずにニケを見付けるが、彼は居間にあるテーブルの下へと隠れるようにして座り込んでいた。
何故か、ヤマネコの姿で。
「なんだ? どうしたんだ? ……まさか、狩りがしたくなったのか?」
めずらしい行動に質問を重ねるが、ニケは最後の問いにだけ首を横に振った。
ニケは、どこかうろたえた様子を見せたあと、獣の口を開き、鳴き声のような、呻き声のような音を出す。
「ん? なんだ?」
獣型のときは、人の言葉が喋れない。
そんなことはすでに知っているはずなのに、ニケはどうしてなのか、獣の姿のまま喋ろうとしていた。
わずかに開けた口から、くぐもった音をとぎれとぎれに発しており、かろうじて聞き取れた言葉もあったが、そもそも発音できる構造になっていないのだろう。
喋りたいのなら、人の姿に戻ればいいだろうと思い、そこでようやく気が付いた。
「――もしかして、人の姿に戻れないのか?」
とたん、ニケは何度もうなずく。
「そ、そうか。わかった。……そうか、戻れない……」
わたしは、あくまでも平静さを装っていたが、内心ではかなり動揺していた。
戻れないとはいったいどういうことなのか。獣人とってそれは、よくあることなのか。
だが、そんなことをニケの前では口に出来なかった。彼はあきらかに、わたしよりも気が動転しているように見える。
慎重に言葉を選びながら、ニケと視線を合わせるために、両膝を床につく。
銀灰色の目は、ほとんど同じ高さにあった。
「……戻れないことに、何か心当たりはあるか?」
ニケは、力なく首を横に振る。
ヤマネコの姿からは、表情がほとんど読み取れないが、耳はたれて、しっぽは床に落ちたままぴくりともしない。
彼の胸の内をとりまいている感情が、そこからよく汲み取れた。
そんな恐れを少しでも取り払いたくて、わたしはニケの頭をなでていた。
「……なら、まずは、しばらく様子を見てみよう」
しかし、そんな言葉は何の慰めにもならなかったのだろう。
ニケは、うなずくとは言えない首の振り方をした。
「……それに、いざとなったら、取り引きの魔法もあるぞ」
はっ、としたようにニケはわたしを見上げる。
「なんだ、忘れていたのか?」
こくりと、小さくうなずいた。
「でも、前にも言ったとおり、あの魔法はあまり使わない方がいい。代償が高くなってしまうからな。だから、まずは様子を見よう」
こくりと、今度はしっかりとうなずくニケは、耳とシッポも分かりやすく上を向いていた。
「安心したか?」
言いながら手を伸ばすと、ニケは手のひらに頬を寄せてきた。
そして、ごろごろと喉を鳴らす。
この反応も最初は何事かとおどろいたが、相手に好意がある時に出てくる愛情表現だと今では知っている。
しばらくニケの頬をなでていたが、わたしは自分の手を彼の喉元へ滑らせた。
ニケのヤマネコの毛並みは本当に滑らかで、触っていてまったく飽きることがない。
しかも今は、耳やシッポだけではなく、全身がふわふわの毛皮で包まれている。
となれば、することはひとつだろう。
「ニケ、だっこしたい」
わたしは、ニケの意思を確認するように、両手を広げてその場で待った。
ニケは、虚をつかれたような間をあけたが、それほど抵抗を見せずに、わたしの腕の中へと自分から踏み込んでくれる。
上半身で抱き留めるには、ややあまる体躯をぎゅっと抱きしめて、その体温と感触をしっかりと受け止めた。
ものは次いでと、ニケの毛並みに顔をうずめて頬ずりもしておく。
ニケの毛皮を贅沢に堪能しながら、ふと思った。
もし、取り引きの魔法を使うことになったとして、代償になるのは、この素晴らしき毛皮になるのではないかと。
その瞬間、脳裏に浮かんだのは、毛皮を半分ほど刈り上げられたヤマネコの姿。
慌てて想像を振り払う。取り引きの魔法が、どうしても必要になった場合はやむを得ないだろうが、そんな憐れな姿はできることなら見たくない。
それに、そんなことをして、人の姿に戻った時はどうなるのか。
人型の状態で髪を切ったとき、ヤマネコの姿には何の変化も見られなかったが、その逆の状態ではまだ試していないため、どうなるのかは分からない。
「…………」
そう。わたしは、ニケの体――獣人の体のことについて何も知らないと言っていい。
冬じたくに忙していて疎かにしてしまったが、その事実に今さらながらゾッとした。
これからは獣人のことをきちんと知っていかなくてはならないだろう。ひとまず、春になり、雪が溶けたら、大きい町へと降りて、獣人について調べなくては。
わたしはそう考えながら、膝の上に体をあずけてくれるニケの信頼の分だけ、わたしもニケへの想いを手のひらにのせていく。
少し離れたところでは、長いシッポが機嫌良くゆれていた。
尾のないわたしからしてみれば、それは一体どういう仕組みなのか不思議でならないが、大きくしなやかに撓んだかと思えば、シッポの先だけをちょこちょこと動かしたりと、実に自在な動きをする。
ニケの上体を膝に乗せている今は、シッポに手を届かせることは出来ないので、ニケのシッポを腕に絡ませて遊ぶことは、あとのお楽しみにすることにした。
しかし、その前にニケのお腹が鳴ってしまったため、色々と名残惜しかったがまずは朝食の準備へとうつる。
ヤマネコの姿ではお手伝いのできないニケは、せめて邪魔にならないようにしてか、わたしの様子を遠巻きに見ていた。
食事の時も、椅子にこそ着けたのだが、テーブルに乗った皿料理はじつに食べにくそうで、見かねたわたしは、床に使い古しの麻布を敷き、そこであらためて朝食をとることにする。
もちろん、ならんだ料理は、すべてニケのために用意したものであり、わたしは味見ていどに摘むくらいだが、その光景は世に聞くピクニックのようで、悪くない食事風景として楽しんだ。
他にも、ヤマネコの姿は色々と不便がおおくて、2人ともあたふたしたが、それでもどうにかその日一日を過ごしていく。
翌日の朝、ニケは何事もなかったかように、人の姿に戻れていた。
大げさにすることはなかったと、わたしもニケも安堵して、これまでと変わらない日常へと戻っていった。
そうしてわたしは、完全に油断しきっていたのだ。
さして日をまたいでいない内に、さらなる異変は起こった。
ニケは、朝から調子を悪くしていて、用意した朝食がほとんど食べられず、しかし、原因は彼自身にもよく分からないようで、ただただ食事を食べ残してしまうことを、わたしに詫びていた。
ニケが倒れたのは、その日の昼頃だった。
慌てふためいて抱き上げたニケの体温は異常に高かく、いつも腕に抱いている温かさとは、明らかに違っていた。
ニケの身に何が起こったのか、まったく分からなくて、わたしはひたすらニケの名前を呼んで起こそうとするが、ニケはいっこうに目を覚まさない。
口からは乱れた呼吸をもらしていて、肌はじっとりと汗をかいていた。
まさか暑いのかと、暖房器具の温度を下げようかとも思ったが、ニケはわずかに震えていることが腕をとおして伝わっくる。まるで、寒さに震えているかのように。
暑そうなのに寒がっているなど、わけが分からなかったが、いずれにせよ、ひとまず寝かせるべきだと思い、ニケを寝台へ運んだ。
寝台の上に横たわらせるが、運ぶ合間もニケはまったく起きようとしない。
こんな不可解な状態など、見たことがなかった。
これも獣人特有の性質なのか。だとしたら、どう対処すればいいのか。本当に何も分からなくて、思考ばかりが空転する。
そうしてわたしは、“病気”という概念を、頭の中から引きずり出すのに、ずいぶんと時間を要した。
けれど、本当の意味でわたしを愕然とさせたのは、そんな病気という概念ではない。
冬の準備をあれだけ骨身を惜しまず整えておきながら、病に対する方策を何ひとつ講じていないことだった。
あと2話ほど増えたので、次の更新から1日置きにさせてください <(_ _)>