01 寄り道と行き倒れのお話
三ヶ月ものあいだ雪に閉ざされていた冬が終わり、春の賑わいもようやく落ち着いてきた頃、わたしは、数少ない知り合いへと会いに麓の森へと降りた。
木々の合間に足を踏み入れていけば、鼻先をかすめていくのは、生まれたての新緑の匂い。朝露にぬれた草花や岩肌、しめった土の匂いもそこかしこに芽吹いている。
芳醇な森の香料を、わたしは背中で揺れる金髪――ひと束に纏められた長い三つ編みにまとわりつかせながら歩いていった。
目的地へと向かう途中、山菜や木の実など、ひととおり目に付いたモノを拾い、麻の手提げカバンに入れていくが、その際、自分の目の色によく似た赤紫のクサイチゴを見付け、それはその場でひとつ摘んで口に入れる。
そうした寄り道もしっかりしながら、春を迎えた森の豊かさを、少しだけ別けてもらっていった。
これだけ豊か土地ならば、外からよそ者が入ってきそうなものだが、傾れる滝の麓に広がる、この“魔の森”には、人間たちは誰も近づかない。
古くから魔女によって呪われた地だとされているからだが、事実、この森は以前、とある事情でかなりひどい有り様になっていたのだ。
それこそ“善い魔女と悪い魔女”という、お伽話として残されているほど。
今では、長い年月をかけて自浄作用が進み、本来の姿を取り戻しつつあるが、それでもまだ、ひどい有り様の名残として、この“魔の森”は奇っ怪な生物たちであふれている。
二本足で立ち、わざと歩行者の前を横切っていくウドの大木や、発した言葉を大群で反復するラッパスイセン、人懐っこい青紫色のオオムカデなどが生息しており、それらが必然と人間の立ち入りを拒んでいる。
当然、見た目が十代半ばの人間にしか見えないわたしが、こうして森の中を歩いていては、格好の標的なるはずなのだが、異形の生物たる彼らは、彼女が近くにいてもそしらぬ顔をして通り過ぎるばかりだった。
なんとも愛想のない態度だが、仕方のない反応でもあるため、わたしも気にせずに先を急ぐ。
目的地は、それほど遠くない。
いつものように滝壺のある開けた場所へと出て、落水の溜まったふちを迂回していけば、向かい側にあるのは二本の常緑樹。
一本は背の高いオリーブの木で、もう一本は背の低いリンゴベリーの木だった。
彼らは、わたしの昔なじみであり、そして、わたし自ら品種改良を施した、二本それぞれの改良種でもあった。
「……やあ、久しぶり」
わたしは、どこからどう見ても樹木である二本へと話しかける。
しかし、彼らの対応もまたそっけない。
言葉を発することは出来ずとも、葉を鳴らして応えることは出来るはずのに、それすら返してもらえなかった。
ただ、やはり、それも仕方のない反応のため、わたしも何も言わないでおく。
わたしは当時、彼らに品種改良を施したのは、ただ気まぐれに、より新鮮でより美味しいオリーブの実が欲しいという理由だけで、ろくに考えもせず手を加えていた。
通常は湿度の高い水場は受けつけないオリーブの木を、滝壺付近でも栽培できるようにし、オリーブの精油もたっぷり採れるよう、中身を色々といじくったのである。
そのため、実はつけても種がない、つまり、繁殖力がない品種になってしまったのだが、それがオリーブの木の不興を買ってしまい、彼はオリーブの実を一度も付けないという、ストライキに出た。
反抗されたことにわたしも腹を立て、オリーブの木を切り落とそうともしたが、苦心の結晶が惜しくて、だからこそ打開策として、もともとこの近辺で自生していたリンゴベリーの木に目を付けたのである。
同じように改良してやって、真っ赤な実をつける可愛いリンゴベリー木を恋人に見立てて植えてみせれば、オリーブの木はとたんに機嫌をなおした。
あまりに現金な姿に、昔のわたしは冷ややかに見るばかりだったが、今ではまったく別の気持ちで彼らのことを見ていた。
「…………」
ついつい思い出してしまった黒歴史に、あやうく落ち込みかけたが、すぐさま頭を切り替える。
色々と身から出たサビではあるけれど、この二本からは、それほど疎まれてはいないだろうと思う。彼らは毎年、秋の中頃になれば、その枝葉に実らせた多くの果実を、わたしにも分け与えてくれるから。
わたしは、物言わぬ彼らに、今年の冬はどうだったか、積雪で傷んだところは無いか、とりとめのない話をもう少しだけ話しかけていく。
彼らから何の返答もないことを息災の証だと受け取ってから、わたしはその場を後にすることにした。
来た道とは別の順路をとり、のんびりとした山菜採りを続けていくが、小一時間ほど森の中をさまよっていれば、ふと視界に入ってくるものがあった。
ボロ切れをまとった大きなモノが、景観の調和を乱すように落ちている。
傍らには青紫色のオオムカデが一匹、落ちている大きなモノの様子をうかがっていた。
まさかと思い近づけば、わたしの接近に気付いたオオムカデは逃げていく。
ボロ切れをまとった何かは、人の形をした子供だった。
人の形をしているが、完全な人ではなく、頭から獣の耳を生やした――獣人。
人懐っこいオオムカデが、地面に転がった子供に群がることなく、ただ様子をうかがっていた理由がそれで分かった。
「…………」
どうしようか、と迷う。
その体にウジがたかっている様子はない。鼻につくような血の匂いもしない。
だが、ぼさぼさに伸びた薄汚れた――黒と白のまだら髪からのぞく、死んだように閉じた目蓋は、ぴくりともしていない。
ためしに喉へと手を当ててみれば、かろうじて体温と脈があった。
ますます、どうしようかと迷った。
こう見えて、かなり長い年月を生きているが、獣人の生態に関しては良く知らないのだ。
彼らの勢力範囲は、もっと西の地方にある別の大陸だと聞いている。
ならばどうして、こんな辺鄙な森の中で行き倒れているのだろうか。
旅の途中だったのだろうか。しかし、どうみても幼体に見える。親なり同伴者なりがいるのなら、はぐれて迷子になってしまった可能性もあるだろう。
しかし、着ている衣服が気になった。誰かの庇護下にあるにしては粗末すぎる貫頭衣のうえ、旅行者では絶対にありえない素足だった。
わたしは、いぶかしながらさらに子供の、おそらく少年の体をよく調べていく。
目立った外傷はない。やはり行き倒れなのか。
生物の死線というものは、森の獣たちの営みで何度か見ているが、痩せ細った体に土気色の顔、憔悴しきったその様子では、あまり長く生きられないように思われた。
もしすると、たとえ保護者のような存在がいて、すぐさま介抱してやっても助からないかもしれない。
それくらい衰弱しているかと思えば、からだ自体は小綺麗な印象があって、やはり親がいるのかと訝しんでいたのだが、その小さな手の甲に、奴隷の印があるのを見付けとたん、わたしの迷いは吹き飛んだ。
なら、いいか。と、獣人の少年を拾って帰ることにした。
「坊や、坊や」
出身が別の大陸ならば、意思疎通ができる保障はなかったが、まずは話しかける。
「坊や、聞こえているかい?」
肩がある辺りを軽く揺すって、もう一度意識の確認をする。
これで駄目なら、昏睡したままの状態で運んでいくしかないが、その時、まだら髪から生えていた三角形の耳がぴくりと動いた。
うっすらと、銀灰色の目も開けてくれる。
「……坊や、このまま死ぬのは嫌かい?」
彼からの反応は薄い。
瞳がわずかに揺れただけで、ほとんど身動ぎもしなかった。
「死にたくないのなら、取り引きをしよう。お前が望むなら、お前の命を救ってやれる。ただし、それには代償が必要だ。わかるね?」
つとめて優しく語りかけたつもりだが、何とも妖しい文言になっていた。
しかし、これだけは、どうしても必要なやり取りなのだ。
少年は、わたしの言葉を理解しているのかいないのか、うつろな眼差しで地べたを見つめている。
「そうだな、お前の髪でいい。それを代償にして、取り引きをしよう。ほら、まぶたを閉じてごらん。それで取り引きの成立だ」
少年は、まぶたを閉じた。
閉じて、そのまま二度と目を開けなかった。
死んでしまったのかと一瞬あせったが、呼吸はまだあった。どうやら気絶してしまったようだった。
これでは少年との取り引きが成立したのか曖昧だったが、もし自分の意思で閉じていたのなら、取り引きの魔法は発動するはずである。
わたしは、持っていたナイフを取り出して、少年の薄汚れたまだら髪を切り取った。
ぼさぼさに伸びた部分を、注意深く見極めながら、三回ほど切り取っていく。
取り引きの魔法には、色々と制約があるが、取り引きが成立しているのなら、彼から切り取った髪は、精霊への供物として炎にまかれるはずである。
手のひらに乗せた三束をじっと見据えていれば、髪から青い炎が上がる。黒髪の部分だけが残っていたが、おそらく必要のなかった余剰分だろう。
よし、と胸中で呟いて、すかさず次の行動に移った。
手提げカバンから麻の紐を取り出すと、心なしか顔色のよくなった少年を背中に担ぎ上げて、しっかりと自分の体にくくりつける。
驚くほど軽い体になるべく負担をかけないよう、それでも足早に向かった先は、滝壺の頂上部分、滝口付近にかまえたわたしの住み処だった。
ただし、そこへと辿り着くためには、険しい斜面と切り立った崖の多い、人が足を踏み入れるにはあまりに不便な山道をとおらなければならない。
少年の体重はさほどでもないが、ほとんど断崖といっていい山道を縋り付くようにして歩くには、背中の重荷は充分に脅威になりえた。
できるだけ早く帰ってやりたがったが、一度でも足を踏み外せば、背中の少年の方はひとたまりもないだろう。それでは、元も子もない。
慎重に慎重を重ね、ゆっくりと歩を進めて、最後にはかけてあった縄ばしごをよじ登って、ようやく自分の隠れ家へとたどり着く頃には、昼をかなりすぎていた。
すぐさま自分の寝台に寝かせると、先ほどの“取り引き”によってかなり回復したのだろう、ほとんど虫の息だった呼吸が、胸部を上下させるほど深いものになっている。
彼の様子を見ながら、もう一度、取り引きの魔法を行うべきか、そんな考えがよぎったが、あの魔法には色々な制約とリスクを伴う。
この土地の人間ではない獣人の髪を、精霊が供物として認めてくれるかは、ほとんど賭けだったが、なにはともあれ、この少年はかなりの幸運にめぐまれたのだ。
とはいえ、まだ油断はできない。時間を置きながら様子を見て、場合によっては新しい取り引きも視野に入れておかなければならないだろう。
それまでどうしようかとアレコレと思案して、記憶の隅にある“看病”という項目をあたれば、お湯を沸かし、汚れていた体を拭いていく看病法を思い出す。
さっそく粗末な貫頭衣を脱がし、軽い体重に見合うだけの痩せた体を露わにした。
基準的な子供の体格に詳しくはないが、あくまでも個人的な私見では、十歳は超えているように見える。
頭から三角の耳、首と上半身から二の腕と移っていった時、手の甲にあった奴隷の印が目に付いた。
肌の下、肉の上にまで灼き付けられた、隷属の印。
今でも人里におりた時に見かけるが、その形は昔から変わっていない。
獣人の奴隷という、彼がたどってきただろう経歴に色々と思いを馳せながら、手早く体を拭き終えて、わたしの寝間着を着せてやる。
もっと温かくした方が良いのか、それとも息苦しくないよう何もしない方がいいのか、ひたすら頭を捻りながら迷っていたところに、少年がうわごと口にしはじめた。
「なんだ? どうした?」
掠れきったあまりにも小さい声に、わたしは急いで彼の口元に耳を寄せる。
「――…みず」
「わかった。待ってろ」
はじかれるようにして炊事場へと向かい、今朝汲んだばかりの清水を木のカップに入れてくるが、少年の意識は朦朧としていて、とても一人では飲めそうにない。
わたしは、彼の体をかるく抱き起こして、ゆっくりと少量ずつ水を飲ませていく。
飲みにくそうに細いのどを鳴らしていくが、いきなり意識を失った。
うでの中で突然くたりとされて驚いたが、彼の口からは、規則的なリズムをきざむ寝息の音が聞こえてくる。
どうやら、だいぶ持ち直してくれたらしい。
少年をもう一度寝台へ戻して、わたしもひと息付くために寝台の端に腰かける。
ふと思いたち、黒と白が入り交じったまだら色の、汚れを落としたばかりでやや湿っている少年の頭を撫でてみた。
人間たちは、こうして情愛を伝え合うことを知っている。
ただの真似ごとだったが、得も言われぬ熱っぽいものに胸をくすぐられる感じがした。
こう言ってはいけないのだろうけど、とてもいい拾いモノをした気がしていた。
もちろん気掛かりなことは、たくさんある。たとえば、何者かに所有されていた奴隷だったのに、どうやって逃げ出してきたのとか。
けれど、いまは何を置いても、自ら招待したお客さんが安心して養生できるよう、準備を整えておくべきだろう。考えても仕方のないことは、後回しでもいいはずだ。
準備といえば、そう。
彼へ名乗る時に必要な、わたしの“名前”も考えておかなければいけなかった。
これを書いている合間に、「魔女集会で会いましょう」なるものを知りまして、
わたくしは、もれなく天に召されました。
※8/5一部修正