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いずれ誰かが辿る物語

その唇に詩をのせて

作者: 笹倉錦



パンの焼けるいい匂いで目を覚ました私は、跳ねるように起き上がると大きな声を上げた。


「う、わあぁっ!寝坊!!」


階下から母の「うるさいわよー」なんて間延びした声が聞こえた。



急いで身支度を整えて階下の奥、両親が営むパン屋に向かう。もちろん消毒はバッチリだ。

店名が刺繍されたクリーム色のエプロンを付けながら、母に恨みがましい視線を向けた。


「~~っお母さん!何で起こしてくれなかったの!」

「まぁまぁ、落ち着きなさい。大体、今日は手伝わなくていいって前から言っていたでしょうに」

「…あれ、そうだっけ?」


母にそう言われ、今日のそれぞれの予定が書かれた黒板を見る。父はいつも通り製造・販売。母は販売と配達。そして私――オルフェ・プルキオルは休みと書かれていた。


「…ありゃ」

「それに昨日、配達用のパンを作るの、任せちゃったでしょう?今日はゆっくりしてなさいな」

「そうだぞオルフェ。最近、少し働き過ぎだ」


奥からひょっこり出てきたのは父だ。日頃から常に無表情の父の眉間にはシワがよっている。…どうやら、心配されているらしい。


「お父さんほど、仕事バカじゃないつもりだけど…」

「…オルフェ」

「あ、あはは!えっと、じゃあ配達くらいやらせてよ。折角準備だってしちゃったんだし」


そばに置かれたバスケットを手に取る。バスケットに貼られた紙には今日の配達先が書かれていた。


「それじゃ、行ってきまーす!」

「あ、オルフェ!」


母の引き止める声は聞こえないふりをして、私は家から離れた。




**************************************************************************************




最初の配達先は三軒先の、特に信仰心の篤い女性の家だ。

…彼女は神への信仰に人生を捧げ、少し壊れてしまっている。この国にはそういう人が少なくない。


「おはようございまーす、マギアブレドでーす!」


少々恥ずかしい、母の付けたパン屋の名前を告げながら家のドアを開ける。

いつもは奥の部屋で待っている彼女は、なんとドアの前で立っていた。


「っひょえっ!?び、びっくりした…」


彼女は私のそんな態度を気にした様子もなく淡々と自分の用件を告げる。


「…オルフェちゃん、配達ご苦労様。パンは?」

「あ、はい!いつもの捧げ物用のパンですよね」

「えぇ。それと、何か美味しいパンをくれる?」


彼女の言に思わず目を開いた。彼女が女神の祭壇に捧げるため以外でパンを求めるのはいつ以来だっただろう。


「は、はい!それならこのストロベリージャムたっぷりの、」

「それをもらうわ」

「あ、ありがとうございます!…あの、何かあったんですか?」


彼女は私が不思議そうな顔をしていることにやっと気付いたようだった。

彼女は顔に喜色を見せて――あぁ、この顔には覚えがある。


「そうなのよ!一年ぶりに、私に神託が下ったの!うふふ、あの日から一年も経つのね、ふふっ」


彼女は受け取ったばかりのジャムパンを握りつぶしてそう言った。パンからぐじゅりと音を立てて溢れるジャムは、まるで血のようにも見える。

そのジャムを踏み潰すように彼女は楽しそうに、踊るように回る、回る。


「だからねっ!私は今日パンを食べないといけないのよ、ふふっ、あはっ、あははっ!!」

「あ…ありがとうございました!また来ますね!」


彼女の血走った目を見て、私は逃げるように家を出た。まだ彼女の声が聞こえるようで私はぶんぶんと首を振る。


「…次、行かないとね!」


まだ配達は始まったばかりだ。先も長いし、張り切って行かなくちゃ!




**************************************************************************************




二軒目は教会だった。ちょうど礼拝が終わったらしく、教会を出て行く人の波をかき分けて教会の奥に向かう。

奥にある部屋には、良く知る司祭様が二人いた。


「ユーシア司祭、ダンテ司祭、パンの配達に来ましたー!」


私の声にこちらを見たのは年老いた司祭様…ユーシア司祭だった。彼は私だとわかると顔を和らげる。


「おぉ、オルフェか。さぁ、入りなさい。何か飲み物を準備しよう。ダンテ、茶菓子を出してくれるかのう」


ダンテ司祭はユーシア司祭の言葉に頷くと、深い茶色をした戸棚の中をあさり始める。確か前に、そこには秘蔵のお菓子があるのだとユーシア司祭が茶目っ気たっぷりに教えてくれた。


「ゆ、ユーシア司祭、いいですよ。いつもそんなに良くしてもらわなくても…」


私の言葉に、ダンテ司祭が振り向くと軽く首を横に振った。「気にするな」のサインだそうだ。


「ダンテもいいと言ってるんじゃ。何よりおぬしはかわいい孫も同然じゃからな」


はっはっはと笑いながらユーシア司祭がお茶を出してくれた。ダンテ司祭は焼き菓子がいくつか乗ったお皿を出してくれる。




この二人は、この地区の教会を預かる教区長だ。ユーシア司祭が教区長で、言葉を発せないダンテ司祭はその補佐をしている。

二人との出会いはそれは小さいころで、その頃からまるで孫の様に、妹の様に可愛がられている。


「うぅ…ありがとうございます…」

「うむうむ。…して、今日のパンは何がおすすめかな?」


ユーシア司祭がバスケットの中を覗き込む。そして歓声を上げた。


「お、おぉ!あの、卵とベーコンのやつがあるではないか!ダンテ、おぬしの好きなショコラを使ったものもあるぞ!」

「!」


ダンテ司祭が顔をほころばせる。そして私の頭を撫でた。


「だ、ダンテ司祭っ?」

「…そうか、今日のはオルフェが作ったんじゃな。うむむ…用意していた金では足りぬか。少し待っておれ、金をも少し持ってくるわい」


そう言うとユーシア司祭は部屋を出て行った。残されたのは私とダンテ司祭のみ。

…私は、彼のすべてを見通すような黒い瞳が、実は苦手だった。

ダンテ司祭は私の正面の椅子に座ると、紙に何かを書き始めた。私は両手でカップを包みながらぼんやりと眺める。

ほどなくして、彼は私に紙を差し出した。



「?………え…」



「いやぁ待たせたの!これだけあればたくさんのパンを――どうしたんじゃ?」


ユーシア司祭の声に思わず紙をぐしゃりと握った。急いでポケットに押し込んで笑顔を取り繕う。


「なんでもないですよ!ちょっと話してただけなんです」


私の言葉にダンテ司祭がこくりと頷く。…どうやら話を合わせてくれるらしい。


「おぉ、ダンテと…。これからもダンテと仲良くしておくれ、オルフェ」

「はい、もちろん」




ユーシア司祭とダンテ司祭がパンを選ぶのを少し離れて見ながら、ポケットの中に手を入れる。

かさりと触れた紙の感触に、私は迷いを捨てるように紙を握りつぶした。






オルフェが去った部屋で、二人は静々と茶を楽しむ。しばらくすると、大きな足音と共に一人の大男が部屋にやって来た。


「ようじーさん、生きてるか?」

「…ふぅ、相変わらず失礼な奴じゃな、ジョルジュ。何用じゃ?」


このジョルジュという男は女神の神託を実行する者たちの集団に属している。執行者というのが、そんな彼らの役職の名前だった。


「あぁ。今しがたパン屋の娘が来てたって言うじゃねーか。俺も買おうと思ったんだが…」

「オルフェなら少し前に行ったわ。配達の途中じゃからな」

「あー…そりゃ残念。…な、パン貰っていいか?神託なんだよ、今日は三食パンを食えってな」


そう言いながらジョルジュはパンをいくつか腕に抱えた。


「…まさかおぬし、それを一人で食べるつもりか?」

「ちげーよ。ほかの連中も同じ神託が下りてんだ。神託の達成を目的に生きる執行者がそれを破ったなんて笑い話にもならねーだろ。金は後で持ってくらぁ」

「待たんかジョルジュ、まだ話は――行ったか、はぁ…」


ジョルジュを呼び止めようとして立ち上がったユーシアは脱力したように椅子に座った。


『彼はいつもああ言いますが、金を持ってきたことは…』


すっと渡された紙を見れば、そこには整った字でそう綴ってあった。渡したのはもちろんダンテだ。


「ないのう。…まぁ、これまでの約束が果たされることは永遠にないのじゃが…」


ユーシアはパンを手に取った。ベーコンと卵がのった美味しそうなパンだ。何より、作り手の気持ちが透けて見える。


『食べるのでしょう?』

「そうじゃな。神託がどうだとか、そんな理由ではない。これはあの子の、一世一代の大勝負じゃ。わしらが裏切るわけにはいかんじゃろうて」


ダンテもユーシアと同じく、黒くコーティングされたパンを手に取った。

彼は今でもはっきりと覚えている。それを食べた時の感動を。

それは、彼が生きていて初めて口にした「人の作った、あたたかい美味しいもの」であった。

二人は祈りを捧げてパンを口にした。ただある一人の少女を、思いながら。




**************************************************************************************




三軒目はパン屋から特に離れた、聖都の郊外にある家だ。青い屋根が目印のその家には、親友たちが住んでいる。


「こんにちは、マギアブレドでーす!パンの配達に来まし、」

「っオルフェ!オルフェ、オルフェオルフェオルフェ…!!!」

「…た?」


家から飛び出てきたのはアンナだ。私の友達の中で一番の美人でとても優しい、私の自慢の親友だった。

その彼女が、どういうわけか泣きじゃくりながら私に抱き着いている。


「オルフェっ、本当に、本当にごめんなさい…!!」

「あ、アンナ?どうしたの?」


確かに会うのは一年ぶりだが、別に謝られるような出来事があったわけでもない。泣くようなことでもなかった。

私が戸惑っていると、アンナを追うように家から一人の青年が現れた。アンナの婚約者で、聖堂で神官見習いをしているトーマだ。


「アンナ、なんで走って――オルフェ……?!」

「…えーと、久しぶり、トーマ。とりあえず、アンナをどうにかしてくれない?」


一年ぶりに会う友人は、どこか気まずそうな顔をしてこくりと頷いた。





「オルフェ、ごめんなさい、ごめんなさい…」

「…もう、アンナってば。謝ってばかりじゃない。別に許すことも許されることも、もちろん謝る必要もないわ」


家に入れてもらってソファに座っても、アンナはずっと私の手を握りながら謝るばかりだった。

進まないこの状況に若干の疲れを感じた頃、お茶とお菓子を乗せたトレーを手にしたトーマがやって来た。


「トーマ、どうにかしてよ。ずっとこうなの、お手上げだわ」

「そう…だね。アンナ、謝るのは後だ。折角一年ぶりの再会なんだし、積もる話もあるだろ?」

「……」

「アンナ」


トーマの声が聞こえていないかのように振る舞う彼女は、少し強く名前を呼ばれると小声で「わかった」とだけ答えた。

少しの沈黙の後、アンナは私から離れて正面のソファに座った。トーマはお茶を配り終えると当然の様にその隣に座り、アンナの肩を抱く。


…その光景に、胸がぎしりと音を立てた。



「…そ、れにしても…トーマ、もしかして背伸びた?前はこーんなだったのに」


こーんな、と言いながら指で銅貨が一枚入りそうな隙間を作る。それを見た彼は、硬かった表情を少し和らげた。


「誰が豆粒だよ。今は父さんより少し大きいくらい、かな。流石にアンナの父さんには負けるけど」

「アンナのお父さんより大きくなってたら、トーマのこと分かんなかったわ」


アンナお父さんは大工をしている。私の知る限り、誰よりも大きい人だ。


「そういうオルフェは、少し痩せたか?」

「あ、そうなの。よく分かったわね、誰も気付かなかったのに」

「人を見る目を鍛えろ、っていうのが大神官様の教えでね」

「大神官様って――…えーっと、エリオット様、だっけ?え、そんなすごい人に教えてもらってるの?」


大神官エリオットと言えば、このアストラ神国では知らない人はいないほどの有名人だ。

その容姿もさることながら、最年少で大神官という国のほぼ頂点に立った人。私は一度だけ、聖堂で見たことがあった。

優しそうな目をした、多くの人から慕われるような人だったのを覚えている。


「あぁ。今は聖女様の下に神官として仕えてるんだ」

「…そっか、見習い終わったんだ。じゃあアンナとトーマってもしかして…」

「…そう言えば、手紙も書いてなかったか…アンナ」


トーマが優しい声でアンナを呼ぶ。アンナは先程までの暗い表情に喜色を浮かべて頷いた。


「…あのね、オルフェ。私たち、あれから結婚したの」

「来月で一周年なんだ」



幸せそうな二人の手には、銀色の指輪。

心臓を掴まれたような痛みに顔が歪みそうになるのを必死に耐えて、祝福するかのように笑顔を浮かべた。



「―――おめでとう!もう、そうならそうと教えてよね。お祝いに豪華なパンでも焼いたのに!」

「やっぱりパンなんだな、そこはケーキとかじゃないのか…」

「当たり前!パン屋はパンを焼いてナンボでしょ?さ、今日は安くするから沢山買ってよね!」


二人の前にバスケットを置けば、二人はやっと、ほっとしたような顔をした。

二人の視線がそちらに向くのを確認してから、私は服の上から胸を押さえる。


大丈夫だ。私は迷わない、悲しまない。自分の心の中でそう言い聞かせていると、アンナがぽつりと、ふとこぼれたのだろう言葉が、耳に届いた。


「…オルフェのパン、ディークが一番好きだったよね」


その言葉はトーマにも届いたらしい。先程までの談笑がまるで嘘のように、部屋は沈黙で満たされた。

漸く、言ってはいけないことを言ってしまったのだと気づいたアンナは可哀想なくらい慌てふためいた。

「あ、ちが、ちがうの!」「ただ、なんか、……」。そう言ったきり、アンナは俯いてしまった。

…漏れ聞こえた声で泣いているのは分かったけれど、今口を開いたらひどいことを言ってしまいそうで、結局私も黙ることしかできなかった。



呼吸音すら聞こえるような沈黙を破ったのは、幼いころから変わらずトーマだった。


「…オルフェ。君は俺たちを恨んでいるか?」


その言葉に、アンナは肩を跳ねさせて顔を上げた。が、一瞬私と目が合うとまた顔を俯かせてしまう。


「……俺は、あの日のことを間違いだとは思ってない。

神託に従うのは女神ステラに連なる者の義務だ。たとえそれが――」


「親友を殺すことになっても、…だよね。知ってるよ、昔からずっと言ってたじゃない」


そういう奴だ、トーマは。…ちゃんと分かっていて、私とあの人は二人と親しくしていたのだから。


「…正直、恨んでない…なんて、言えるほど、私はまだ大人になれないみたい」

「じゃあ、」


恨んでるのか。そう続きそうな言葉を遮った。


「でも、トーマがするべきこととしては、正しかったんだと思う。…でも、私はあの日のことも、あの人の…ディークのことも忘れられない。

多分私たちが生きている間は何もかもが許せない。だから…許してもらおうなんてことは、考えないで」

「っ……」


アンナが体を震わせているのを横目に立ち上がる。誰も何も言わなかった。


「…ごめん、まだ配達あるから。私行くね」


部屋を出ようとドアに向かう。ノブを掴んでから、誰かが服を掴んでいることに気付く。


「ま、って、オルフェ!」

「アンナ?!」


私の服を掴んでいたのはいつの間にか近くに来ていたアンナだった。

彼女の目はウサギのように真っ赤で見ているだけで痛々しい。なのにその瞳はどこまでも澄み切っていた。


「オルフェ、また…また、来てくれる?私とお話ししてくれる…?」


それは質問というには重すぎた。懇願、そんな使う日が来ると思わなかった表現が頭に浮かんだ。


「………そうね。いつか、また来るから」


彼女はその言葉に、ただまっすぐ目を見て一度だけ頷いた。




**************************************************************************************




四軒目の配達先は――本当はない。けれど私はどうしても今日、その場所に行かなくてはならなかった。


街よりずっと東にある、人が踏み入らないような森の一番奥にそびえる大樹の根元。そこに私の恋人…ディーク・トルシュは眠っている。


一年前、女神にその命を望まれ、拒んだがために毒で殺されてしまった愛しい人。


「……ディーク、終わったよ…?」


木の根元に座り込んで、彼の墓に話しかける。墓、と言っても立派な墓石なんてありはしない。目印程度に小石が積まれた拙いものだ。


「…みんな、あの日を過去のことにしたいみたい。……まだ、やっと一年しか経ってないのにね」




**************************************************************************************



一年前、ディークは女神に死を詠まれた。



熱心な信者でもない私には、女神の意思も、ディークが死ぬことで得られる利益も分からなかった。

神託を受けたディーク本人も、一体何を言われたのかが分かっていないような顔をしていて、唯一分かっていたのはきっとその神託を告げた神官だけだった。

神官は笑顔で、ディークに液体の入った小さな瓶を手渡した。

「東の国から伝わった毒です。苦しまずに女神の下に行けますよ」、なんて、そんな言葉を添えて。



ディークはひどく悩んでいた。彼の母であるエミリア・トルシュは熱心な女神の信奉者だったけれど、ディークは神託のことを、「当たればいい程度の占いが、ほんの少しの幸運をもたらすもの」くらいにしか考えていなかった。

私も同じようなもので、そして彼の母がまさか、いくら神託と言っても息子の命を命を奪うことを良しとする人ではないと、そう思っていたのだ。



今でも、彼女の表情を、言葉を、一字一句違えることなく覚えている。


「その子を、ディークを殺してあげてください!女神ステラはそれを望んでいるのですから!」


女神の言葉に従い、それを実行する者たち…執行者を背に、彼女は狂喜の表情で、声高に叫んだのだった。

私はすぐにディークの手を取り、人を押しのけてその場を逃げ出した。執行者から逃げ切れるなんて、思っていたわけではない。

それでも、もしかしたら、なんて淡い期待を持って、私たちは郊外の、アンナの家に逃げ込んだ。



アンナとトーマは、驚きながらも私たちを招き入れてくれた。私とディークは、そこでこれからの話をするつもりだった。

ディークは母親から捨てられたという衝撃が抜けきらないらしく、時折相槌を打つのが精いっぱいらしかった。

私とディークは、国を出ようと思う。そう言えば、アンナたちは頷いた。そしてトーマが神妙な顔で言うの

だ。

「船の手配が済むまで時間も掛かるだろう。俺とアンナは買い出しに行ってくる。二人は休んでるといい。誰が来ても入れるなよ」


私たちはそんな友人の言葉に感謝して、甘えさせてもらうことにした。

ここで違和感の一つでも感じていたのなら、ディークは死ななくて済んだのではないかと、私は思ってしまう。

けれどこの時の私はあまりにも馬鹿で、考えが足りなかった。だから、私はディークのことを慰めながら、二人の家に留まってしまうのだった。




戻ってきたトーマは、泣きはらしたような顔で眠るアンナと、――執行者たちを連れていた。

親しい友の裏切り。…信じていた人みんなに裏切られたディークは全てを諦めたように、執行者の下に下った。一人泣き叫ぶ私を置いて。


それからはとんとん拍子に――彼と私は自分の住む地区の教会に連れて行かれた。

待ち受けていたのは幼いころからの顔なじみの司祭たちで、彼らは痛ましいとでも言いたげな顔で私たちを見ていた。

執行者たちは私とディークを離すように床に座らせ、司祭に耳打ちした。司祭――ユーシア司祭は頷いて、もう一人の司祭――ダンテ司祭から小瓶を受け取り、それを執行者に手渡した。

小瓶の中身は毒だ、間違いない。私ですら、分かってしまった。

ディークは無表情のまま項垂れていて、その顔はどこか泣いているようにも見えた。

私の泣き叫ぶ声だけが響く教会で、彼は無理やり毒を飲まされて――殺されたのだ。

ディークの体が傾き、床に倒れた時、目の前が真っ暗になった。声すら出ないほどの衝撃に――気付けば、私は拘束を解いて、執行者の腰のナイフを奪い取っていた。

そしてそれを勢いよく胸に突き立てようとして……ダンテ司祭に止められた。



そこから先は何も覚えていない。

気付くと私は自分の部屋のベッドの上で、膝を抱えて蹲っていた。

机の上の、ディークが使うことのなかった毒の小瓶が、カーテンの隙間から漏れ出た光を受けて怪しく光っていた。




**************************************************************************************



ずっと、復讐の機会を窺っていた。それがまさか、ディークの命日にやってくるとは思わなかったけれど。

私に神託が下ったのはつい一昨日。その内容はごく単純で、「愛しいものを亡くした日、お前の望みは全て叶う」というものだった。

――私の望みなんて、そんなもの一つしかない。私はあの毒の小瓶を、鍵をかけた箱から取り出した。

唯一残ったディークの形見。それが奴らを殺すのだ。そう思うと笑いが止まらなかった。

パンに毒を混ぜて、それを配達して回った。まさか殺したい奴らが全員パンの配達を望んでいるなんて、何の罠かとは思ったけれど、今更止められるわけがなかった。

でもこれで、私の一人きりの戦いは終わる。…そう、終わるんだ。




「…頑張ったでしょう、私」


こう言えば、彼は穏やかな笑みを浮かべて頭を撫でてくれた。そして、「お疲れさま、オルフェ」と囁いてくれるのだ。

けれどもう、ディークはいない。そんな風には言ってくれない。私に、笑いかけてはくれないのだ。

たとえ復讐なんてしても、あの心地いい場所は…戻ってこない。


「……きっとね、あなたは泣いて止めるだろうなと思ってたから、復讐が終わったら私がどうするのか言ってなかったの」


地面に置いたバスケットから小瓶を取り出す。中には液体がほんの少し入っているだけだ。しかし、私が死ぬ分には十分すぎる量が入っている。


「…どこかの国のおとぎ話にはね、死んだ恋人を冥界に迎えに行く男の話があるんだそうよ」


あぁ、それはなんて素敵だろう。しかし彼は決して後ろを振り返ってはならないという言葉を破って、振り返ってしまう。そして恋人と、二度と会えなくなってしまうのだ。


「もし私がその男なら、なんて、考えても仕方ないのにね。…でも、私もその男と同じくらい、あなたに会いたい…」


何をどれだけ考えても、私はその男にはなれない、恋人を迎えには行けないのだ。

なら、私がそちらに行こう。迎えに行くことはできなくても、私たちはそれでもう一度会える。二度と離れることもなくなるのだ。



ふと、ポケットからかさりという紙の音が聞こえた。中から出てきたのはダンテ司祭の字が書かれた紙。そこには「誰も、貴女を恨みません」と、まるで私がこれから何をする気だったのかを知っているかのような内容が短く書かれている。

いいや違う。私は誰からも恨まれて死ぬ。…それが私の罪。それが私の運命なのだから。



「…今行くからね、ディーク」


小瓶の中身を一気に呷る。そして樹にもたれるようにして目を瞑った。

思い出すのはある日の穏やかな昼下がり。ディークと愛を囁きあった、戻れない幸せの記憶。

あの時彼が歌ってくれた詩の名前は何といっただろうか。思い出せないまま、かろうじて動く口で、かすれた声で歌を紡ぐ。

まるであの日みたいに。胸の中を幸福と、安堵と、ほんの少しの後悔で満たして。

どんどんと世界が遠くなるのを感じながら、私は胸の中でただ謝り続ける。ごめんなさい、…ごめんなさい。

それが何に対しての謝罪なのか、私にもわからない。

けれどその遠い世界で、私は確かに、私を許す彼の言葉を聞いた。





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