5.神ヲ狩ル狼
森の小道に入った頃には、雨が上がっていた。
フレイは立ち止まり、空に視線を向けた。
さっきまでの豪雨が嘘のよう。
「お、上がったな?」
ロバにくくりつけた荷物の一つをほどき、革袋を取り出した。
袋の中には衣類一式が入っている。
もう一つの革袋を取り出し、ビィーに放り投げた。
「あいにく予備の服は持っていない。それで工夫してくれ。文明人がいつまでも裸でいてはいけないからね」
男前の顔で何か言ったが、それは至極普遍的な事である。
ただ、放り投げられたのが、布切れ二枚だったって事が非普遍的だった。
ビィーは少し考えた後、おもむろに布を纏った。
一枚は肩から胸にかけて。もう一枚はスカート風に。
腕と臍と腹筋丸出し。スカートは骨盤で支える淺履きタイプ。
第一印象で敵の動きを止める戦い方が正統派スタイルのデスロイド。デフォである。
スカートの背にハンドガンを差し込んで一丁上がり。
パンツははいてない。
中天には大きな満月がかかっていた。平地の森は木々がまばらである。ランタンの明かりがいらない程に明るい。
足下に霧が湧き上がってきた。
何とも不思議な光景が広がっている。
「さて、ここいらで君が何者かを――おや?」
ロバの足が止まったのだ。
歩かせようと手綱を引くフレイ。
「うわっ!」
そのフレイの後ろ襟を掴んで転がす者がいる。
ビィーだ。
「何を――」
口に手を当てられて声が出ない。
ビィーは自分の口元に人差し指を立てて当てる。黙れという合図らしい。
フレイは仰向けのまま。ビィーはうつぶせ。二人並んで地に伏せている。
続いて彼女は指を前方に向けた。
そこには――。
巨大な狼がいた。
青白い毛並みが月の光を反射している。
煌々と光る、二つの黄色い目。
姿を見るだけで、死を受け入れてしまう神々しさ。
「ま、まさか。か、神を狩る狼!」
世に伝えられる6つの災害魔獣の1つ。それが目の前の巨大狼。
神を狩る狼。フェンリル狼。フェリス・ルプル。その他にもいろんな呼び名があるという。
6つの災害魔獣と呼ばれるだけあって、全部で6体とされている。
空飛ぶ要塞、ロック鳥のアーキ=オ=プリタリク。
大海獣、クラーケンのラブカ。
毒竜、ベノムドラゴンのスイートアリッサム。
土地神、テュポーンのカムイ。
迷宮の黒霧、堕天のアンラ・マンユ。
そして、神を狩る狼、フェンリル狼のフェリス・ルプル。
彼ら一体にでも襲われようものなら、抵抗は無意味。
人程度の生き物ができる事といえば、去って行くのを怯えて待っているのみ。
なぜなら、この者達の戦闘力は自然災害並。
津波や雷や噴火や猛吹雪の脅威に対し、槍や剣で立ち向かう者はいないであろう。
もはや神の領域。
フレイが、神を狩る狼を知っていたわけではない。
しかし、見た目、巨大さ、雰囲気や圧力から、伝説の災害魔獣である事を理解させた。いや、生物の本能が、警笛を鳴らしたと言っても良いだろう。
ましてや、しがない薬の行商人に何が出来るというのか?
仰向けのまま動けないでいるフレイの横で、ビィーが動いた。
彼女は、背に手を回している。あの黒い金属に手をかけている。あれは、たぶん武器だ。
だとすれば止めねばならない。
「止めるんだビィー。あれは敵じゃない。怯えた相手や、戦う手段を持たぬ者に牙を剥く事は無い、と伝承にある」
だから、じっとしていろと。
ビィーも、この相手との戦いは回避したかった。
ついさっき仕留めたティラノサウルス型と同程度の巨大さだが、測定された戦闘力が桁違いだ。
銃を含めた飛び道具で仕留められる気がしない。むしろ、飛び道具との相性が悪い気がする。
……もっと接近戦に特化した武器なら……、いや確率は低い。
戦わなくて済むならそれに超した事はない。よって、ビィーは戦闘行為を中止した。
神を狩る狼は、こちらに向かって、足音も立てず森の中を歩いている。
フレイ達に気づいているはずだが、見る事はないだろう。人間が、地べたを這うダンゴムシに注意を払わないのと同じ理屈だ。
仰向けに倒れているフレイは心細かった。腹を見せて倒れている事が、こんなに不安だとは思わなかった。しばらく上を向いて寝る事ができなくなると思う。
それにしても……美しい毛並みである。知り合いの毛皮商人だったら、きっと命を落とすだろう。いや、動けないか。
そんな事を考えている間に、神を狩る狼は間近に来ていた。
今正に真横を通り過ぎようとしているところだ。
ふと、神を狩る狼の足が止まった。
フレイの体が硬直する。
こちらに巨大な頭を振った。
何も考える事が出来なくなった。……が。
神を狩る狼の目はフレイではなく、ビィーに向けられていた。
ビィーも神を狩る狼の目を見つめている。
緊張の時間が流れる。
それは僅かな時間だった。
神を狩る狼は、何事も無かったかの様に前を向き、再び歩き出した。
その巨大な姿が見えなくなるまで、フレイは、生きた心地がしなかった。
息をしてなかった事に気づいたのは、生物として感じる危機が去ってからであった。
ハァハァとせわしく息をし、胸を大きく上下させる。
ビィーは……彼女は立ち上がっていた。
平然とした態度で魔獣を見送っていた。
手をフレイに差し出している。捕まって立ち上がれ、という意味だってことになかなか気づけないでいた。
次話「剣士」