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短編集

ホテル・パウダースノウ

作者: 忍野佐輔

 深夜の高速道路には彼の乗用車のみが走っていた。

 灰色のスカイライン。

 そのハイビームのライトも届かぬ広漠とした闇が、前方に広がっていた。

「本当にこの近くなんですか?」

 助手席に乗った近藤聖子が不安そうに尋ねる。

 対してハンドルを握る石島啓二は短く「ええ」とだけ答えた。

 しかし、聖子は変わらず不安そうな表情を浮かべている。仕方なく石島は言葉を付け足した。

「近藤の――ああいや、旦那さんのメールにはそう書いてありました。今は信じるしかないですよ」

「けど、こんな高速道路の真ん中にホテルなんてあるのかしら」

「アイツはそういう事で間違えることはないです。旦那を信じてあげてください」

「…………はい」

 そして再び車内に沈黙が流れた。

 スカイラインのエンジンが奏でる重低音だけが体に響いてくる。

 ちらりと横を窺うと、聖子は眉尻を下げて左手のシルバーリングを撫でていた。やはり不安は拭いきれないらしい。それだけ夫の事が心配なのだろう。近藤裕樹と聖子が結婚してもう五年は経つはずだが、夫婦間の仲は悪くない。結婚後三年であっさり離婚してしまった石島としては少し羨ましかった。

 石島啓二と、聖子の夫である近藤裕樹は高校時代からの友人である。大学進学後も交流があり、社会人となった今でも時折酒を飲む間柄だった。当然、裕樹の妻である聖子とも面識がある。

 ふと、石島はあることを思い出した。

 今言う必要もないが、このまま気まずい沈黙を続けるよりは良いだろう。

「けど聖子さん。どうしてアイツの携帯から電話してきたんです?」

 石島がこうして友人の妻を乗せて高速道路を走っている理由は、その電話にあった。

 仕事帰りの石島に近藤聖子から友人の番号で電話がきたのだ。それだけなら別に何ということはないが、話の内容が問題であった。

 ――『夫がもう一週間も帰ってこない』――

 ある日の夜、聖子が就寝したあと唐突に消えてしまったらしい。

 誰も信じてくれないそうだが、既に捜索願も出しているとのこと。しかし警察は、友人の石島にすら連絡してこない所からも判るように、まともに捜査をしていないようだ。それはそうだろう。有給まで取っているのだから、一人で旅行にでも行ったと考えるのが普通だ。

 しかし、

「アイツ……携帯も持たずに家を出てったんですか?」

「はい。でも遠出する準備のようなものはしていたみたいで。車も車庫から無くなってましたし……。だから警察も『たまには一人旅がしたくなるもんだ』って取り合ってくれなくて」

「なるほど。……でも、そうしたら話が通りませんよね。どうやってアイツは俺にメールしてきたんでしょうか。あんな変なメール、わざわざ」

 石島は片手で携帯を取り出し、一週間前に友人から届いたメールを開く。

 ――『例のホテルを見つけた。ちょっと探検してくるな』――

 画面にはそう表示されていた。

 続く文面にはそのホテルを見つけた場所などが記されている。

「今更ですけれど……この『ホテル粉雪』って、一体何なのですか?」

 画面を覗きこんでいた聖子が訊いた。

「ああ、最近の都市伝説ですよ」

 曖昧な記憶をたぐり寄せながら、石島は説明する。

「なんでも『一度泊まったら二度と出たくなくなるほど素晴らしいホテル』とかなんとか。でも、どこにあるか判らないんだそうで。名前はわりと広まっているのに誰も知らない。週刊誌とかが面白がって、最近の失踪事件と照らし合わせて煽ってますよ。『ホテル粉雪に食われたんだ』って。この間、アイツと飲み屋でその話をしたんです」

 見れば聖子の顔は車内の暗さを考慮しても、明らかに青ざめていた。

 少し配慮が足りなかった。石島は慌てて「すみません」と謝る。

「――とにかく。聖子さんの話ではアイツは携帯を持たずに出かけたんですよね? でも文面からすると、どう見ても高速道路を走ってる最中にホテルを見つけてメールしたように思える」

「まさか、誰かが携帯だけをうちに忍び込んで……?」

「それはないでしょう。する意味がない」

 身を震わせる聖子を落ち着かせる為、石島はわざと笑顔を浮かべて否定した。

「ともかく。その辺りはアイツから直接聞きましょう」

「無事、なんでしょうか……」

「大丈夫ですよ。それに、仮にこの『ホテル粉雪』の都市伝説が本当だったとして、それならアイツは楽しくやってるはずです。聖子さんはその横っ面を引っぱたいて連れ戻せばいいんですよ」

「そう、ですよね」

 石島が笑うと、聖子も少しだけ口を綻ばせた。

 少しだけ車内の空気が和らぎ、石島はホッとする。

「……っと。そろそろだな」

 カーナビの表示を見て、石島は高速道路の先に視線を飛ばす。

 そろそろホテルの灯りが見えるはずだった。

「あ、アレ!」

 唐突に、助手席の聖子が前方を指差した。

 見れば、高速道路の路肩に小さな灯りが見える。古いガス灯のような、か弱い灯りだった。周囲が暗くなければ見逃してしまうような弱々しい灯りである。

 石島は背後に後続車両がないことを確かめて、小さな灯りに向けて速度を落としていく。

 近づくとそれはランタンの明かりである事が判った。

 そしてランタンを持っているのはキリスト教の尼僧服を着た女性であった。

「こんばんは」

 石島はその女性の横に車を停め、窓を開けて声をかけた。

 尼僧は柔らかい笑みを浮かべて、軽くお辞儀をする。

 どこか現実感の無い女性だった。そもそも高速道路の路肩に立っている時点でおかしい。石島は自分が夢の世界にでもいるような錯覚を覚えた。

「もしかして、『ホテル粉雪』の人?」

 石島が問うと、尼僧は小さく頷いた。

「主人はッ――主人は来てませんか!?」

 聖子が尼僧に掴みかかりかねない勢いで叫ぶ。石島は聖子が勝手に車外へ出ないよう、慌ててスカイラインの内鍵を締める。ここで何か問題が起こっては、ホテル粉雪へは永遠に行けないかもしれない。

 石島は片手で聖子を制し、尼僧へ視線を向けた。

「そのホテルに近藤裕樹っていう男が来てないかな? 俺と同い年くらいの眼鏡をかけた男なんだが……」

 尼僧は笑顔のままだった。

 そして、左手で前方を指差す。

 そこには今までは無かったはずの教会が遠くに見えた。


    ●


 カーナビに登録されていない高速道路の出口を降りて、石島と聖子はその教会へと向かった。

 その道中、二人は無言だった。

 二人とも現実感をなくした世界に、戸惑っていたのだ。

 あの後、高速道路に立っていた尼僧は笑顔を浮かべたままランタンの火を消し、そのまま闇の中へ消えてしまった。――文字通り、消えてしまったのだ。

 車から降りて尼僧の姿を捜したが、尼僧がいた痕跡は何一つ発見できなかった。

「聖子さん、いきますよ」

 教会の礼拝堂。その戸口で石島は聖子の肩を叩く。

 尼僧が消えるところを見て、聖子の不安は頂点に達してしまったらしい。夫を連れ帰るという使命感と恐怖の板挟みにあって体が強張らせていた。祈るように、左手のシルバーリングを右手で強く上から覆っている。

「大丈夫です。あんなのトリックですよ」

 そう石島は笑った。

 人を元気づけるのは得意ではないが、無理でもやらなくてはならない。

「トリック、ですか?」

「以前にミステリーで読んだことがあります。霧とかに映像を投影するんですよ。多分ああいう風に驚かして、冷静な判断力を奪おうって魂胆なんです。騙されちゃダメです」

 適当にでっちあげた嘘だったが、それでも聖子には効果があったようだ。少しだけ表情に元気が戻る。それを確認して、石島は礼拝堂の扉を叩いた。

 すぐに中から鍵を開けるような音が聞こえ、扉が開く。

「あんたは……」

 出てきたのは、先ほどの尼僧だった。

 ――お待ちしておりました。

 尼僧はそう表情だけで歓迎を示し、お辞儀をする。

 煌々と灯ったランタンをかざして、尼僧は礼拝堂の奥へと石島と聖子をいざなう。

「階段……?」

 中へ入った聖子が驚いたように呟く。石島も同様に驚き言葉を失った。

 礼拝堂の中には、建物の横幅と同じ広さの石段が地下へと延びていたのだ。底は見えず、湿ったカビ臭い空気が鼻をつく。窓一つないらしく灯りは尼僧の持つランタンのみだった。

 先を行く尼僧を追い、二人は階段を踏み外さないようゆっくりと歩を進める。

 そして、地獄まで続くているかのような長い石段は、唐突に終わった。

 目の前には一つの扉。

 尼僧がその前に立って、石島と聖子に扉を開けるように促す。

「あの、主人は……この中にいるんですか?」

 聖子の言葉に尼僧はやわらく微笑みを返す。

 肯定とも『自分で確かめてください』という投げやりな態度にも見える。

「聖子さん、やっぱり一度戻って警察呼びますか?」

 石島は尼僧に聞こえないよう聖子に耳打ちする。

 正直、石島としてはこの扉を開けて中に入ると取り返しがつかないような気がしていた。

「いえ、行きます。ここまで来て帰れません」

 しかし、石島の言葉は逆に聖子の背中を押してしまったらしい。

 決意を固めた様子の聖子は扉を押し開けた。


 途端に、開放感に満ちた空間へと放り出された。


 高級ホテルのフロントのような場所だった。

 礼拝堂の石段とはうって変わって、優しい光に満ちている。

 天井からは煌びやかなシャンデリアが吊され、大理石で出来たフロアはダンスホールに出来そうなほど広い。楕円形のフロアの両側には、赤い絨毯がひかれた大きな階段が二階まで延びていた。

 そして正面のカウンターには、笑顔を浮かべてこちらを見つめるコンシェルジュらしき男。

 ガタリ、と背後で扉が閉じた。あの尼僧は中へは入らないらしい。

 石島と聖子は一度視線を交わしてから、カウンターへと歩み寄った。

「お待ちしておりました」

 コンシェルジュは張りついたような笑顔で二人を出迎えた。


「ようこそホテル粉雪へ

 ここはとても素敵なところです

 お客さまもいい人ばかり

 ホテル粉雪は様々なお部屋をご用意しております」


 決まり文句なのだろうか。

 唄うようにコンシェルジュはそう言った。

「あの尋ねたいことがあって来たんですけれど」

 聖子がカウンターに手を置いてコンシェルジュに声をかける。

 が、コンシェルジュの応えは少しズレたものだった。

「そうでしょうとも。ここに来られる方は皆、世の中に疑問を抱いた方ばかりです」

「いえ……あの、そうではなくて。ここに近藤裕樹という人が来てると思うんですが、ご存知ないですか? 主人なんです」

「なるほど……ご主人もきっと、世の中に疑問を持たれていたのでしょうね」

「そんなことどうでもいいんですっ、主人はここにいるんですかっ!?」

 コンシェルジュのはぐらかすような対応に、聖子が声を張り上げる。

 慌てて石島が間に割って入り、聖子に身振りで落ち着くように伝えた。

「石島さんどいて下さい。主人が――」

「大丈夫です聖子さん。僕がちゃんと聞きだしますから」

 興奮収まらない聖子を何とかなだめ、石島はコンシェルジュの方へ向き直った。

「あのさ。ここの宿泊者名簿を調べてくれないか。近藤裕樹って名前。ここに泊まってるなら、このフロントに来るように伝えてくれよ」

「近藤様、ですか」

 張りついた笑顔は変わらず、しかし意外にもすんなりコンシェルジュは要求を聞き入れた。

 コンシェルジュは名簿らしきものを取り出して、ページをめくり始める、

 そして近藤裕樹の名前を見つけたのか、唐突にページで手を止め、

「……残念ながら近藤様は既にお休みのはずですので、私どもではお呼びすることは出来ません」

「寝てるんなら起こしてくれ。部屋に電話くらいあるだろ」

「いえ。部屋には戻られておりません」

「はあ? じゃあどこにいるんだよ」

「第二ホールにおられると思います」

「呼んできてくれ」

「残念ですが第二ホールは現在、貸し切りパーティーの最中でございます。私どもが勝手に中へ入るわけには――」

「んなわけあるかっ! とにかく急用だって言って連れてきてくれ」

「申し訳ありません。できかねます」

 張りついた笑顔のまま、コンシェルジュは拒絶する。慇懃無礼も甚だしい。

 背後に立つ聖子が、石島の手を引いた。ちらりと顔を窺うと『引くわけにはいかない』というように頷かれる。

 仕方がない。石島は腹を決めた。

「じゃあ構わない。勝手に探す」

「さようでございますか」

 意外にもコンシェルジュは止めなかった。

 まあ、それならそれで構わない。石島は聖子に頷いて、カウンターの向こう側にある豪奢な扉へと向かう。

「ああ、お待ちください」

 その背中へコンシェルジュの声がかけられた。

 振り返ると、コンシェルジュが宿泊者台帳を持ってすぐ傍に立っていた。

 男は相変わらずの張りついた笑顔で、

「チェックインをお願い致します」

「……泊まるつもりはない」

「チェックインをお願い致します」

 コンシェルジュは引くつもりはないらしい。

 仕方なく石島は差し出されたペンを受け取り、名前を記入しようとした。

 が、

「お客さまは結構でございます。こちらのご婦人にご記入をお願いしたく思いまして」

「は? それは――」

「石島さん、とにかく急ぎましょう」

 聖子は言葉を遮り、石島が持っていたペンを奪うように取った。そのまま台帳に名前を記入する。夫の居る場所を目前にして気が急いているらしい。

「では、ごゆっくり」

 お辞儀をするコンシェルジュを振り返りもせずに、石島と聖子は扉を開け中へと入った。

 だが、コンシェルジュは今まさに閉まろうとする扉に向かって続ける。


「ようこそホテル粉雪へ

 ここはとても素敵なところです

 お客様もいい人ばかり

 どなたも――――」


 コンシェルジュの声は最後まで届かなかった。


   ●


 ――Second hall――

 そう記された広間はすぐに見つけられた。

 何しろこんな深夜だというのに、楽しそうに騒ぐ声が廊下にまで響いてきていたからだ。石島と聖子は声のする方へと向かっただけである。今も扉越しであるにも関わらず、男女問わず楽しげな笑い声が聞こえてきていた。

 中で何が行われているのか、正直恐いと石島は感じる。

 同様の感情を抱いているのか聖子も追い詰められたような表情を浮かべていた。

 このホテルは何かおかしい。現実感がない。地に足がついていない。

「じゃ、裕樹のヤツを連れ戻しに行きますか」

 石島は無理矢理笑顔を作り、広間へと続く扉を開ける。


 途端に漏れてきたのは歓声だった。


 広間では多くの男女が思い思いに過ごしていた。

 BGMのジャズに合わせて踊る者たち、カジノテーブルでポーカーに興じる者たち、ただひたすら並べられた料理を貪る者たち。年齢も性別も国籍すらも違う者たちが広間には集まっている。服装から何まで統一性のかけらもない。

 にも関わらず、彼らは同じ空気を纏っていた。

 笑っているのだ。

 ただひたすらに。楽しそうに笑いながら、食事や遊びに興じていた。

「……怖いわ」

 石島の隣で聖子が呟いた。

「まあ……気にせず裕樹を探しましょう」

 そう言って、石島は広間の端から端まで視線を巡らす。あまりパーティーの輪の中へは入りたくない。幸い、広間に集まった人間は石島と聖子に気づいていないようだった。

 と、広間の一角で拍手と共に歓声があがった。

 つられて視線をそちらに向けると、ある壁の一角に人だかりが出来ていた。何をしているのかは見えないが、どうやら何らかのパフォーマンスに対する拍手のようである。

 石島は聖子に合図してから、その人だかりへと足を向けた。

 広間に溢れかえる人々をかき分け、二人は人だかりまで辿り着く。

 人だかりは皆が一様に中心へと視線を向け笑っていた。この様子なら、こちらが部外者かどうかなど気づくまい。そう考えて石島は外周にいる青年に目をつけ、声をかけた。

「なあ、何やってるんだ?」

「ん? 楽しいことさ」

「へえ、それって何なんだ?」

「楽しいことさ!」

 青年は両腕を広げ大仰に言った。

 この話の通じなさは先ほどのコンシェルジュと似ている。

 これ以上は何も得られないだろう。石島はそれ以上青年と話すのを諦め、聖子の手を取った。直接自分で確かめた方が早い。そのまま人だかりをかき分けて、その中心へと向かう。

 やっとの思いで中心にたどり着くと、そこには壮年の男が一人立っていた。

 石島と聖子の側からは男の背中しか見えない。

 男は両腕を掲げ、叫ぶ。

「さあ! 捕まえた! 俺が捕まえた!」

 ――わああああああああああああっ!

 男の声に合わせて、周囲から歓声があがる。

 何かを捕まえ、それを自慢しているらしいかった。

 しかし、肝心の捕まえたものが見当たらない。

 男の足元に大量の銀ナイフが落ちてはいるが、それで捕まえたのだろうか。ならばきっと動物か何かだろう。銀ナイフには赤い血らしきものが付着している。

「僕も捕まえた! 出口を探す兎を捕まえた!」

「あたしも捕まえた! 狂ったように捕まえた!」

 観客の側にも『捕まえた』と叫ぶ者が何人かいた。

 そこで気づく。『捕まえた』と叫ぶ者たちの共通点を。

 皆、口と手が赤く汚れていた。

 服にも赤い汚れは飛び散っていた。一体何をどうすればあんな風に汚せるのだろうかという程、大人げなく赤い汚れを飛び散らせている。

 ――嫌な予感がした。

「これが証拠! 俺が捕まえた証拠!」

 壮年の男が叫ぶ。懐から何かを取り出して、中に掲げた。

「これが兎の足! 銀の足かせのついた足!」

「可哀相だから自由にしてあげたの!」

「僕たちは自由だ! だから兎も自由にしなきゃ!」

 湧き起こる歓声を聞きながら、男が掲げているモノが何なのか石島は考えた。

 男たちが『兎の足』と呼ぶもの。

 その薬指には見覚えのあるシルバーリングが嵌められていた。

「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああッ!」

 悲鳴をあげながら、聖子が男に飛びかかった。

 そして男が掲げていたモノを奪い取って抱きしめる。

 夫の左手を、取られまいと抱きしめていた。

「いや! いや! いやいやいやいやいやいいやいやいやぁッ!」

 左手を抱き締めて、聖子はひたすら拒絶を繰り返す。

 しかし、その左手が近藤裕樹のものであることはシルバーリングが証明している。

 そして、彼が辿った運命は『捕まえた』と叫ぶ男たちの口元に飛び散る赤い汚れが示していた。

「嘘! 嘘よ、嘘よ! なにこれ? なによこれ!? なんなのよおおおッ!」

 聖子が上げる叫び声に驚いたのか、人だかりは皆一様に押し黙っていた。理解出来ないものを見るような視線を聖子に向けている。

 やがて聖子はその場で泣き崩れてしまった。

 それがキッカケだったのか。人だかりのどこかから『嘘だ』という声があがった。

「嘘だ」「嘘だよ」「そう嘘なんだ」「嘘、嘘、嘘、みんな嘘さ」「それは嘘なの」「嘘に違いない」「嘘だってよ」「嘘なのか」「嘘さ!」「嘘よ」「嘘だよねえ」「うん、嘘」「嘘だよ!」

 それは異様な光景だった。

 人だかりとなった人々が皆一様に『嘘だ』と喚き立てていた。

 楽しそうに、嬉しそうに、新しいオモチャを見つけたように。嘘だ、と繰り返す。

 その歓声を聞いて、聖子が顔を上げた。

 何か腹をくくったような、遠い目をしていた。

「あんたたち、何がそんなに楽しいの……?」

「楽しいさ!」

 聖子の声に応えたのは、先ほど石島が声をかけた青年だった。

「ホテル粉雪につまらないことなんて一つもない! ここはとても素敵なところ! お客はみな良い人ばかり! ここには人生の全てがあるのさ!」

 くるりとその場で一回転し、青年は「アハハ」と笑った。

 それを見た中年女性が「アハハ」と言いながら青年の真似をする。その隣の女性も「アハハ」と踊る。その隣の老人も、その隣の少女も。青年の笑顔が周囲へと伝播していく。

「あんたたち狂ってる……。狂ってる、裕樹をこんなにして、何で笑ってられるのよ……」

「楽しいからさ! 何をしても、何をされても、ここでは全てが楽しいからさ!」

「そう。……じゃあ、あたしも楽しんであげるわよ」

 一瞬のことだった。

 壮年の男の足元に散らばる銀のナイフを拾って、聖子は笑い続ける青年の胸を刺した。

「あれ……?」

 それだけ言って青年は崩れ落ちた。

 もう、ピクリとも動かない。

 人だかりが静まりかえる。

 落ちているナイフを再び拾って、聖子は周囲へと叫んだ。

「あんたたち、全員殺してやる! 殺してやる殺してやる殺してやる!」

 ――あ、これは。

 石島はこの後の展開を察し、人だかりからスルリと抜け出した。

 そして人だかりから、予想通りの声があがる。

「殺してやる?」「そう、殺してやる」「殺そう」「殺すんだ」「殺しちゃう?」「殺さなきゃ」「楽しく殺そう」「殺さなきゃ」「殺すべきさ!」「殺さなくてはなるまい」「殺すことが一番」「殺すのさあ」「殺しちゃえ」「殺す殺す殺す」「さあ、殺っちまおう!」

 人だかりとなっていた群衆は、落ちていたナイフを奪い合い、次々にお互いの胸に突き立て始めた。ナイフを拾えなかった若い男は拳を握り老人の頭を殴った。少女は青年の手首に噛みついた。壮年の男は女性の首を絞め、逆に喉をナイフで裂かれた。

 殺し合いが始まった。


    ●


 広間の一角で阿鼻叫喚の殺し合いが行われるのを、石島は少し離れた所から眺めていた。

 気づけば、ポーカーに興じていた数人が集まって賭を始めている。どうやら誰が生き残るかを賭けているらしい。倍率が高いのは意外にも聖子だ。――いや、旦那の仇討ちという目的がある分、彼女の方が有利なのかもしれない。現にもう六人以上殺している。

「いやっほーい!」

 笑いながら殺し合いが行われている場所へと走っていく男がいる。どうやら殺し合いを「楽しそうだ」と思ったようだ。手に握り締めたダーツでどこまでやれるのか疑問だが、殺されてもきっと男は楽しそうに死ぬだろう。

「ようやく戻ってこれたな……」

 狂喜乱舞するホール中の人間の歓声に浸りながら、石島は目を閉じる。

 『ホテル粉雪』。

 石島は以前にもここへ来たことがあった。

 偶然たどり着き、そして虜になってしまった。

 ホテル粉雪では全てが楽しい。

 楽しいことしか、ホテル粉雪にはない。

 ただその場にいるだけで気持ち良いのだ。この空間は一種の麻薬とも言える。不思議なことだった。けれど考えてみれば、そもそも『世の中に疑問を持った者』にしか見つけられないホテルなど、現実のものであるはずがないのだ。だからきっと、ここは人間を哀れに思った神様か何かが作った天国なのだろう。

 いつまでも、ここに居たいと思った。

 けれど、石島がこの天国にいる事を許さない者がいた。

 近藤裕樹だ。

 以前から近藤が有能な男であることは知っていた。だが『世の中に疑問を抱いている』者でなければ見つけられないホテル粉雪すらも見つけてしまう程とは思わなかった。いや、もしかしたら何か疑問を抱いていたのかもしれない。その疑問が何か。今となっては判らないことが少しだけ惜しいと、石島は思う。

 ともかく石島は近藤のせいで、ホテル粉雪から出ることになってしまった。

 ホテル粉雪には出口が無い。チェックアウトは出来ても、一度入れば建物から出ることは出来ないはずなのだ。

 その掟を破って外へ出た石島は、ホテル粉雪に戻ることが出来なくなった。

 何故なら妻との離婚で生じた石島の『世の中への疑問』は、ホテル粉雪での生活によって既に消し飛んでしまっていたからだ。そして、一度『ホテル粉雪』で過ごした者は世の中への興味を無くす。当然『世の中への疑問』など持ちようもない。その後何度、石島が高速道路で車を走らせても、ランタンを持った尼僧が現れることはなかった。

 だから、石島は一計を案じた。

 石島を気遣う近藤に対し、更正したように見せかけた上で『ホテル粉雪から助け出したい者がいる』と話した。もしかしたらホテルの関係者が妨害するかもしれない。誰にも話さずコッソリとホテル粉雪へ向かいたい、と付け足した。

 近藤は『ホテル粉雪』へ向かうことが出来る。だから、その近藤と一緒に高速道路を走れば再びランタンの尼僧に会えると石島は考えたのだ。

 しかし、結果として作戦は失敗した。近藤は石島を高速道路に残し、一人でホテルへと向かってしまったのだ。再びホテル粉雪に入れば、石島が再びおかしくなってしまうと考えたのだろう。もしかしたら石島の企みを半分以上わかった上で、話に乗ったのかもしれない。

 そして、近藤はホテルから出てこなかった。

 石島は絶望した。全てが終わったように思えた。

 だが気づいた。近藤が偶然にも車の中に自身の携帯を置き忘れていたことに。

 そこから石島の行動は早かった。その携帯を使って、近藤が一人でホテル粉雪に向かったかのよう偽装し、近藤の家に忍び込んで携帯を戻した。

 そうすれば、夫を心配した聖子は家に残された夫の携帯を見るだろう。そしてメールの送信履歴には、石島が近藤の携帯を使って自身の携帯に送ったメールがある。

 あとは聖子が連絡してくるのを待つだけ。

 そして、石島はただひたすら、聖子から連絡が来るのを待ち続けた。

 地獄の一週間だった。

「それも、これで終わり……」

 石島は壁に寄りかかり、壮年の男とナイフを斬りつけ合う聖子を眺める。

 電話が来た後も楽にはいかなかった。『友人を心配する男』を演じるのは正直大変だったのだ。石島も全く罪悪感を感じないわけではない。ホテルさえ見つける事が出来れば良かったのだから、聖子には石段下の扉の前で帰って貰って良かったのだが。

 案の定、遂に聖子は壮年の男にナイフを奪われ組み伏せられてしまっていた。途端に生き残っていた数人の男達が群がり、一斉に聖子の胸にナイフを突き立てる。

 ホールに聖子の絶叫が響き渡った。

 何度も引き返せる場面はあったのに、これで終わりだ。

 そう、石島は友人達と自分自身を心の中で嗤った。

「ま、良いか。こんなに楽しいんだから……」

 石島の口元に、他の宿泊客と同じ笑みが浮かんだ。

 どこからか唄うような声が聞こえる。

 

 ようこそホテル粉雪へ

 ここはとても素敵なところです

 お客様もいい人ばかり

 どなたもホテルでの人生を楽しんでいらっしゃいます

 口実の許す限り、せいぜいお楽しみくださいませ



【終わり】

少し毛色の違う作品の練習をしようと思い作成した習作になります。

楽しんで頂けましたでしょうか。もし楽しんで頂けたのなら幸いです。


ちなみにお気づきの方もおられると思いますが、この作品はイーグルスの名曲

『ホテルカリフォルニア』

をモチーフにした作品となっております。

よろしければ、こちらもお聴きください。

(まあ、権利関係は問題無いと思いますが、一応断らせて頂きました)


またこちらは『小説家になろう』ページ内で頂いたお題「都市伝説」を元に作成した短編になります。

もし創作修行にご協力頂けるようでしたら感想などに次のお題を書いて頂けると助かります。

それでは、今後ともよろしくお願い致します。

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― 新着の感想 ―
[良い点] うーん、さすがの文章力だと思いました。 唸らせてくれますね。 [気になる点] ただ、文章があまりに巧みなためか誤魔化されていますが、ストーリーの方は、どうでしょう。はじめはインパクトが大き…
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