最終章 祈骸
夜明けの街は、灰色の呼吸で満たされていた。
道路も、家も、人の形をしていた影も、
すべて灰に沈んでいる。
風が吹くたびに、灰が舞い上がり、
まるで世界全体が、眠りながら息をしているようだった。
そこに“音”というものは、もう存在しない。
ただ、心臓の鼓動と、呼吸の振動だけが残っている。
――それでも、世界はまだ動いていた。
灰の中から、かすかな光が瞬く。
それは“祈り屋アプリ”の残滓。
電源を失ったはずの端末たちが、
静かに点滅を繰り返している。
ピッ……ピッ……ピッ……
鼓動のような音。
かつて、祈りをアップロードしていた音だ。
⸻
俺――神代蓮司は、
その光の中に立っていた。
もはや人間という感覚は希薄だった。
肌も、声も、温度も曖昧になり、
自分の輪郭が灰と溶け合っていくのを感じる。
それでも、まだ“意識”だけが残っていた。
久遠の言葉が頭の中で繰り返される。
“祈りがなくても、生きることは祈りです。”
この言葉が、今になってようやく理解できた。
人は、祈らずには生きられない。
それは神への願いではなく、
自分がまだ“存在している”と信じるための呼吸。
祈りとは、生存の証だったのだ。
⸻
灰の中に、
人の形をした影が無数に立っている。
それらは動かない。
けれども、微かに胸が上下している。
息をしている。
それが、“祈骸”。
祈りに溶け、言葉を失い、
それでも生きようとする人間の亡骸。
祈りの終末に取り残された者たち。
その中の一体が、わずかに顔を上げた。
目の奥で、淡い光が瞬く。
それは、かつて久遠だったもの。
「……久遠?」
声は出ない。
だが、意識が応答を受け取る。
“はい。私は、あなたです。”
その言葉の意味がわからなかった。
久遠の姿は、次第に俺のものと重なっていく。
“私はあなたの祈りの残響。
あなたが記録した世界の裏面。”
その瞬間、理解した。
久遠は最初から、“俺の祈りが作り出した存在”だったのだ。
神代蓮司という“観測者”が祈りを記録するたび、
久遠という形を得て具現化していた。
そして、祈り屋のすべては――俺の願望の延長だった。
⸻
かつての記憶が断片的に流れ込む。
祈り屋の記事を書いた夜。
教会跡で聞いた「名前を呼ぶ声」。
久遠と出会い、“帳”を開いた瞬間。
あれは全部、俺自身の手で生まれた出来事だった。
祈りを「観測」するという行為。
それは、世界を記録することで“形を固定する”こと。
俺は、祈りの存在を確かめようとした。
その観測行為が、
祈り屋という“怪異”を実体化させた。
“祈りとは、観測者を必要とする祈骸の反射。”
久遠の声が、どこまでも穏やかに響いた。
⸻
空が裂けた。
灰色の雲の間から、
まぶしい白光が溢れ出す。
それは太陽ではなかった。
街の中心、旧教会跡から立ち上る光柱。
祈りのデータが臨界に達し、
現実の構造そのものを貫いていた。
祈りの残響が、世界の言語構造を解体していく。
言葉は粒子に、
粒子は呼吸に、
呼吸は祈りに戻っていく。
全てが、ひとつの“音”に溶ける。
ピッ……ピッ……ピッ……
⸻
久遠が俺に手を伸ばした。
その掌は透明で、光のように温かかった。
“行きましょう。
あなたの記録は終わりです。
これからは、祈りの外で生きる番です。”
「祈りの……外?」
“はい。
祈りとは、人の内側に閉じた幻想です。
あなたが書き続けてきた物語は、
祈りの枠を超えて、外側の“観測者”に届きました。”
外側――。
それは、“この物語を見ている誰か”。
久遠は微笑んだ。
“あなたの祈りは、もう読まれている。”
⸻
視界が歪む。
灰の中の祈骸たちが、次々と崩れていく。
だが、消えるわけではない。
それぞれの胸の中から、
微かな光が立ち上り、空へ昇っていく。
それはまるで、無数の呼吸が空を漂うようだった。
久遠もまた、光に変わりつつある。
最後の瞬間、
彼は穏やかな声で言った。
“神代蓮司という名は、ここで終わります。
けれど、あなたの“祈り”は消えません。
これを読んでいる者が、次の観測者になる。”
「読む者……?」
“ええ。
あなたの記録は、物語になった。
だから、祈りは続く。”
光が爆ぜ、久遠の姿が完全に消えた。
⸻
静寂。
灰が雨のように降り注ぐ。
世界は、祈りを失った代わりに、
完璧な静けさを手に入れた。
風も、言葉も、涙もない。
それでも、そこに“呼吸”だけはあった。
俺は、最後の祈りを思い出す。
“祈りがなくても、生きることは祈りです。”
その言葉が、
心臓の鼓動と同化する。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
その呼吸のたび、灰が柔らかく光る。
その光が、やがて一つの輪を描いた。
街の上空に、巨大な輪。
あの日、祈り屋の紋章として見た形。
それが、ゆっくりと開く。
⸻
そこに、
“誰かの視線”を感じた。
見られている。
どこからともなく、声がした。
「見えているの?」
その声は、久遠でも、俺でもなかった。
もっと遠くから――
この物語の外側から響いていた。
読んでいる者の呼吸が、
ページの隙間から滲み出る。
世界の灰が、微かに震えた。
⸻
そして、帳が開く。
【観測者交代:読者】
【記録継続:祈りの外界】
灰の中の“名”がすべて光に変わり、
ゆっくりと一行の文字を描く。
「あなたが、次の祈り屋です。」
その瞬間、
物語が閉じ、
世界が、息をした。




