第五章 言葉の消滅
最初に消えたのは、「ありがとう」だった。
ニュースのアナウンサーが、原稿の最後で口ごもった。
「……ええと、感謝を、述べます」
その言葉の代わりに、スタジオの中に静寂が広がった。
翌日、「ごめんなさい」が消えた。
SNSで“謝罪”の投稿が、すべて空白になった。
そして三日後、
「祈り」という単語が、
どの辞書にも、どの端末にも、存在しなくなった。
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御影市は、奇妙な均衡を保っていた。
街は動いている。
人々は出勤し、食事をし、電車に乗る。
だが、誰も話さない。
口を開いても、音が出ない。
代わりに、スマホの画面が淡く光る。
言葉がなくとも、意思が伝わる。
表情も、声も、不要になった。
アプリの通知音だけが、街の呼吸のように響いている。
ピッ……ピッ……ピッ……
どこかで誰かが祈りをアップロードし、
どこかで誰かが、名を削除されている。
「言葉のいらない世界」。
それが、祈り屋の最後の奇跡だった。
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俺はもう何日眠っていないのか、わからなかった。
新聞社は閉鎖され、
街は行政も宗教も機能を失った。
机の上には、例の“名の帳”がある。
ページを開くと、
白紙にうっすらと灰の粒が降り積もっている。
久遠が言っていた。
「祈りを保存することは、世界を静かに殺すこと。」
それが、いま現実になっている。
祈り屋アプリは人々の祈りを飽和させた。
祈りが言葉を上書きし、
言葉が消え、
最後に残ったのは“想いだけ”になった。
祈りが増えるほど、世界が薄くなる。
それはまるで、
“人間という現象が透明化していく”過程のようだった。
⸻
夜。
教会跡に戻る。
瓦礫の中には誰もいない。
かつて祈り屋たちが跪いていた場所には、
黒い液体のような灰が溜まっていた。
その中央に、光の残響。
久遠の姿が、ぼんやりと浮かんでいた。
「久遠……」
声に出したつもりだった。
だが、喉が音を出さなかった。
久遠は微笑んだ。
その口の動きで、言葉を読み取る。
“声は、もう祈りに吸われました。”
“祈りに吸われた”?
どういう意味だ。
久遠は静かに頷いた。
“言葉は祈りの幼生です。
成長しすぎれば、母胎である世界を喰い尽くす。
だから、世界は祈りを封じた。”
俺は頷いた。
音を使わずに、
理解だけが直接、頭の中に流れ込んでくる。
通信のような、念話のような感覚。
いや、もうそれも違う。
思考そのものが、祈りの媒体になっている。
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久遠の体は、
もはや人間の形を保っていなかった。
輪郭はゆらぎ、
体の中を無数の光が流れている。
「お前は、まだ……いるのか。」
喉を焼くような痛みの中、
それでもかすかに声を出した。
久遠は微笑んだ。
“私は祈りの集合体です。
消えることはありません。
消えるのは、個人の“名”だけです。”
「俺の名は……まだ、残っているのか。」
“あなたの名は、もう“帳”そのものです。
書かれることを止めれば、世界の観測が止まります。”
⸻
風が吹いた。
灰が舞い上がる。
教会跡の瓦礫がざらざらと鳴り、
地面から、
うっすらと人の形をした影が浮かび上がった。
消えた者たちの残骸――祈骸。
彼らは祈りの中に溶けた人々だ。
声も、名も、言葉も持たない。
だが、その姿は、どこか穏やかだった。
まるで、すべての苦しみから解放されたように。
久遠が一体の祈骸に触れた。
その瞬間、祈骸が淡く光り、
久遠の身体の中に吸い込まれていく。
“彼らは、私の中で祈り続けています。”
久遠の声が、祈り屋のアプリ通知音のように反響する。
ピッ……ピッ……ピッ……
空気が震え、
街のあらゆるスピーカーから同じ音が流れ始めた。
“……見えているの?”
⸻
頭の中に、何かが入り込む。
映像でも音でもない。
世界そのものが、俺の中に流れ込んでくる。
人々の祈り。
削除された名。
消えた言葉たち。
すべてが、“観測”されている。
それは俺の意思ではない。
俺の存在そのものが、祈りの保存装置に変わっていた。
⸻
久遠が俺に近づく。
目の奥には、どこか慈悲のような光があった。
“もう十分です。
観測は終わりました。
あとは、沈黙を祈るだけ。”
「沈黙を……祈る?」
“ええ。
言葉がなくても、あなたはまだ息をしている。
その呼吸こそ、最後の祈りです。”
久遠の輪郭が崩れ始めた。
光が粉になり、灰と混じり合う。
“これで、祈りは完全になります。
そして、世界はやっと眠れる。”
⸻
周囲の音が消えた。
鳥の声も、風の音も。
ただ、自分の呼吸だけが残った。
吸って、吐く。
吸って、吐く。
灰がそのリズムに合わせて揺れる。
それはまるで、世界全体が呼吸しているようだった。
ふと、
久遠の声が最後にかすかに響いた。
“祈りがなくても、生きることは祈りです。”
⸻
朝。
世界は、静かに再起動していた。
街には、誰の姿もない。
建物も、道路も、すべて灰に覆われている。
だが、その灰の中で、
何かが確かに“息をしている”。
俺は灰の中に手を入れた。
温かい。
それは、誰かの残した“呼吸”だった。
⸻
遠くで鐘が鳴った。
誰もいない教会跡から、
あり得ないほど澄んだ音が響く。
俺はその音を聞きながら、
心の中で呟いた。
“祈りよ、どうかもう眠れ。”
声は出なかった。
けれど、灰がやさしく揺れた。
まるで、それが答えのように。
⸻
その夜。
星空の下、
灰が風に乗って流れていく。
それはまるで、
この世界の“言葉の残り香”のようだった。
俺は最後のページを開いた。
“名の帳”の最後の行に、こう書かれていた。
神代蓮司/記録完了/祈骸化確認
その下に、
見覚えのある文字が一つだけ浮かんでいた。
「見えているの?」
そして――
文字が滲み、
消えた。




