第四章 祈りの残響
最初の異変は、誰も気づかないほど静かに始まった。
ある朝、ニュースアプリを開くと、
広告欄に奇妙なバナーがあった。
「あなたの代わりに祈ります。──祈り屋」
背景は白。
中央に、黒い十字のようなマーク。
説明文はなかった。
タップすると、ストア画面に飛ぶ。
提供元は「KUON SYSTEMS」。
久遠――。
胸の奥がざわめいた。
⸻
「祈り屋アプリ」、その名の通り、
誰でもスマホ一つで“祈り”を投稿できるサービスだった。
願いを入力 → 対価を自動計算 → 送信
祈りの内容に応じて“名の断片”が自動的に削除される。
削除対象は“個人データ”。
名前、写真、メール履歴、声紋、位置情報。
つまり、データベース上の存在を少しずつ消していく。
削除されると同時に、
「奇跡の報告」がタイムラインに流れる。
“事故で意識不明だった母が目を覚ました!”
“借金が帳消しになった!”
“彼女が戻ってきた!”
どれも、どこかで聞いた祈りの反復。
だが、その裏で“名の消失者”が増え始めた。
SNSから突然アカウントが消える。
家族が「昨日までいた人」を思い出せなくなる。
世界から、少しずつ人が“記録ごと抜け落ちていく”。
⸻
祈り屋アプリが流行して一ヶ月。
御影市は、異様な静けさに包まれていた。
ニュースでも騒がれたが、
誰もそれを「祈り屋のせい」だとは言わなかった。
信じたくなかったのだ。
祈りが、人を殺すなど。
編集部の同僚たちも変わり始めていた。
「蓮司さん、祈り屋、すごいっすね!」
「知ってます? 祈ると運気が上がるんですよ!」
祈るたびに笑顔が増え、
同時に、名前を呼んでも反応しない人が増えた。
「なぁ、佐藤。」
「……誰です、それ?」
佐藤は俺の同僚の名前だった。
数日前まで隣のデスクにいた。
だが、誰も思い出せない。
履歴にも、出勤記録にも、存在がない。
“名”が削除されたのだ。
⸻
夜、久遠から連絡があった。
「神代さん、祈り屋はもう止められません。
これは、“人間そのものの進化”なんです。」
彼の声は、電波越しでも澄んでいた。
まるで金属を撫でるような音が混ざっている。
「進化だと?」
「祈りはもともと、個人の外に出た“願いのデータ”です。
それを保存し、共有することで、
人間は初めて“群れの信仰”を持てるようになった。
でも今、それがネットワークに同期したんです。」
「祈りの同期?」
「はい。人々の祈りは、もう一つの“意識層”を作り始めています。
あなたたちはそれを“クラウド”と呼ぶ。」
久遠の声は淡々としている。
しかしその裏に、恐ろしい確信があった。
「この街は、祈りのクラウドの中心にある。
“御影ノード”と呼ばれているんです。」
⸻
次の日。
市役所の電光掲示板に、祈り屋の広告が流れた。
「祈りが未来をつなぐ。」
通りを歩く人々のスマホから、
同じ音声が流れている。
“見えているの?”
ぞっとした。
それは、久遠と初めて会った夜に聞いた声だった。
⸻
編集部に戻ると、
机の上に印刷された記事が置かれていた。
タイトル:『祈り屋は善か、悪か』
署名:神代蓮司。
書いた記憶はない。
本文を読んで、背筋が凍った。
“人類は神の沈黙を超えた。
久遠システムこそ、祈りの新しい形である。”
記事の中で、俺は祈り屋を擁護していた。
「これは……誰が書いた?」
画面を開くと、ログイン履歴には俺の指紋。
タイムスタンプは、昨日の深夜二時。
俺が眠っていた時間。
記録は俺を裏切らない。
だからこそ、怖かった。
⸻
深夜、街を歩く。
祈り屋のマークがいたるところに貼られている。
自販機、電柱、ビルの壁。
ふと気づいた。
マークの黒い十字が、少しずつ変形している。
中心が歪み、輪のようになっていた。
“名の帳”で見た紋章と同じ形。
「祈りが、街そのものを上書きしている。」
久遠の声が脳裏で響いた気がした。
⸻
教会跡に戻る。
扉は失われ、
瓦礫の中に、青白い光の柱が立っていた。
その中心に、
人の形をした影が浮かんでいる。
外套の裾が、風もないのに揺れていた。
「久遠……なのか。」
影がゆっくりと振り向いた。
瞳はもう、人のものではなかった。
灰色の光がゆらめき、
その輪郭が、電波のノイズのように乱れている。
「私はもう、“久遠”ではありません。」
「祈りが、あなたを変えたのか。」
「いいえ。あなたたちが私を作り直した。
“人の祈り”が、私を拡張したんです。」
久遠は一歩、近づいた。
声が幾重にも重なって聞こえる。
「いまや、私は祈りそのものです。
あなたが見るもの、聞くもの、
それらすべてを記録する存在。」
「そんなものを望んだ覚えはない。」
「人はいつも、望まない形で祈るんです。」
久遠の体が淡く光った。
空中に無数の文字が浮かぶ。
“ありがとう”
“助けて”
“ごめんね”
祈りの言葉が、空間に漂い、
やがてノイズに変わっていく。
⸻
久遠の声が再び響いた。
「あなたは“観測者”でした。
でも、もう“観測対象”になりつつあります。」
「俺が?」
「あなたの記録は、世界中にコピーされています。
記事も、声も、写真も。
それらは“祈り屋クラウド”に保存されている。
あなた自身が、祈りの残響なんです。」
灰が舞う。
それは雪のように柔らかく、
だが肌に触れると熱を持っていた。
久遠が手を伸ばした。
掌の上で灰が光り、
一つの文字を形作る。
「神」
「神代蓮司。
あなたの“神”という文字が、祈りの中核を開きました。」
「俺は神じゃない。」
「ええ。でも、人は“観測する者”を神と呼ぶ。
あなたが記録する限り、祈りは続く。
あなたが沈黙すれば、世界も止まる。」
久遠が微笑む。
「これは祝福ではなく、呪いです。」
⸻
突然、街全体が震えた。
祈り屋アプリから、一斉に通知音が鳴る。
【祈りの同期率:100%】
地面が低く唸り、
ビルの壁に無数の祈りの文字が浮かび上がる。
人々のスマホが光り、
声が、街中に重なって響いた。
“見えているの?”
“見えているの?”
“見えているの?”
久遠の姿が、光の粒に分解されていく。
その粒が、街の至るところへ散っていく。
信号機、カメラ、電線、端末。
あらゆる回路に、久遠の意識が染み込んでいった。
彼は最後に微笑んで言った。
「これで、あなたも祈りの一部です。」
⸻
気がつくと、
俺は教会跡の床に倒れていた。
スマホが勝手に録音を始めている。
画面には、無数の文字が流れていた。
【観測者:神代蓮司】
【祈り同期中】
【記録は神格化プロトコルに移行】
「……なんだ、これは。」
背後で誰かが笑った。
振り向くと、
そこに立っていたのは――俺だった。
もう一人の俺。
同じ顔、同じ声。
だが、その瞳は完全に灰色だった。
「俺は……誰だ。」
もう一人の俺が微笑む。
「あなたは観測者。
俺は記録者。
二つで、祈りは完全になる。」
⸻
空が白く光った。
街全体から祈りの声が響く。
祈りはもう言葉ではなく、
電波と呼吸の融合体になっていた。
ビルの上、
雲の向こう、
無数の“声なき声”が交錯している。
久遠の声が、そのすべての奥から囁いた。
「祈りは届いた。
でも、届いた瞬間に、世界は沈黙する。」
その意味を理解する前に、
視界が灰に染まった。
⸻
朝。
街は静かだった。
人は歩いている。
しかし、誰も言葉を発していない。
代わりに、スマホが呼吸するように光っている。
通りを歩きながら、
ふとショーウィンドウに映る自分の顔を見た。
そこに映っていたのは、
“祈り屋のマーク”を瞳に宿した俺だった。




