第三章 名の帳
旧御影商店街の地下には、
地図に載っていない空間がある。
「祈り屋の本部」と呼ばれるその場所へ案内されたのは、
二章の出来事から一週間後の夜だった。
久遠から届いたメールには、
「祈りの構造を、あなたに見せます」
とだけ記されていた。
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入口は、閉店した古本屋の奥だった。
埃を被った棚をどかすと、
床に鉄製の蓋があり、
その中央に「名」と刻まれている。
蓋を開けると、
地下へ続く螺旋階段が現れた。
下りていくほど空気が湿り、温度が下がる。
階段の壁には、無数の指跡があった。
――まるで、ここを降りた者たちが“何かを掴もうとしていた”ように。
足元の灰が舞い、
呼吸するたびに喉の奥に鉄の味が広がった。
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階段を降り切ると、
そこは広大な地下聖堂だった。
天井は高く、
壁一面に無数の紙が貼られている。
どれも人の名前。
手書きのもの、印字されたもの、切り取られた写真――
それらが何層にも重なり、
まるで「人間の皮膚」で覆われた壁のようだった。
中央に巨大な机。
その上には一冊の分厚い帳面が開かれている。
久遠は、そこに立っていた。
白い外套が、地下の湿気を吸って灰色に濁っている。
「これが、“名の帳”です。」
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帳は、思っていたよりも静かだった。
ページをめくるたび、
乾いた音ではなく、呼吸のような音がする。
「これが、人々の祈りの記録か。」
「正確には、“祈りを代償として失われた名”の記録です。」
久遠が指で一つの名前を示す。
山本薫/妹の病気快癒/名削除(薫)
その横に、
状態:奇跡成立/代償確定
「“薫”という文字を削ることで、
彼女は妹を救いました。
しかし、それ以降、誰の記憶の中にも“山本薫”という名は残っていません。」
「……死んだのか。」
「いえ、生きています。
ただ、“名前を持たない生”を生きている。
本人も、他人も、その名を思い出せないだけです。」
久遠は次のページを開いた。
そこに、見慣れた字があった。
神代蓮司/観測継続中/変化待機
俺は息を呑んだ。
「なぜ、俺の名前がここにある。」
久遠は目を閉じた。
「あなたは“観測者”として、祈りを媒介しています。
あなたが記事を書くたびに、祈りのデータが世界に拡散する。
それを“観測祈祷”と呼びます。」
「俺は祈っていない。」
「ええ。だからこそ、あなたは純粋な媒体になれる。
信じない者の祈りほど、強いものはないんです。」
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久遠は机の引き出しを開けた。
中から古びた鍵束を取り出し、
奥の鉄扉を開いた。
「ここが、“祈り屋の始まり”です。」
扉の向こうにあったのは、
古い礼拝堂のような空間。
壁には焼け焦げた十字架がかけられ、
床には無数の名札が落ちていた。
「この教会が崩れたとき、
信徒たちは“神の沈黙”に絶望しました。
祈っても返事がない。
だから、自分たちの中に“神の代わり”を作ったんです。
それが――“祈り屋”の原型です。」
久遠の声が、少しだけ震えた。
「私は、そのときに生まれました。
信徒たちが“祈りを記録する存在”を求めたとき、
この身体が形を得た。
祈りと記録の残響が、私を作ったんです。」
彼は、自分の胸を指差した。
そこには黒い紋章が刻まれていた。
「これは、“祈り屋の紋”。
祈りを代行する代わりに、
名前の一部を焼き付ける印です。」
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机の上の名簿が、微かに光った。
インクが浮かび上がり、新たな行が記される。
桜井真理/亡夫の蘇生/代価:名の削除(真)
文字が書かれるたび、
上の層の紙が一枚剥がれ落ち、
灰になって崩れた。
「祈りは、増え続けることができない。
一つが叶えば、一つが消える。
それが“均衡”です。」
「なら、俺の“観測”は何を消している?」
「まだ、何も。
だが――やがて、あなたは誰かの祈りと重なります。」
久遠の言葉は予言のようだった。
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そのとき、
地下の空気が突然揺れた。
壁の紙が一斉にめくれ、
ざわざわと音を立て始める。
それは風の音ではない。
名前たちが、呻いている。
“戻りたい”
“思い出して”
“名を返して”
叫びが、重なり、うねり、空間を満たした。
久遠の顔が苦痛に歪む。
「観測が過剰になっている……」
「どういうことだ?」
「祈りが飽和しているんです。
この街ではもう、“名を支払える人間”が残っていない。」
壁の名前が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。
灰が嵐のように舞い、
視界が白く染まる。
俺は咄嗟に机に手をついた。
掌に触れた紙が、熱を帯びる。
その瞬間、
帳の中の文字が変わった。
神代蓮司/観測継続中 → 転写開始
久遠が叫ぶ。
「触れては――!」
遅かった。
光が弾け、視界が反転した。
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目を開けると、
俺は暗闇の中にいた。
音がない。
風もない。
ただ、遠くで何かが脈打っている。
足元を見ると、
紙が無数に敷き詰められている。
どれも名前が書かれた紙片。
ひとつ拾うと、
そこには「久遠」と書かれていた。
その文字が、
俺の手の中で淡く光り、やがて消えた。
「……名は、呼ばれ続ける。」
耳元で久遠の声がした。
だが姿は見えない。
「あなたの中で、帳は開かれた。
これからあなたが書くすべての言葉が、
“祈りの記録”になる。」
俺は息を呑んだ。
言葉を発しようとした瞬間、
喉が焼けるように熱くなった。
吐き出した息が、
白い文字になって空中に浮かぶ。
【祈り屋/神代蓮司/観測開始】
文字は淡く光り、
空間に吸い込まれた。
⸻
気づけば、再び地下聖堂に立っていた。
久遠が俺を見つめている。
彼の目の奥に、恐怖と安堵が混ざっていた。
「あなたは……帳に触れてしまった。
もう戻れません。」
「どういう意味だ。」
「あなた自身が、“新しい帳”になったんです。
あなたが見るもの、書くもの、
そのすべてが祈りとして記録される。」
「俺は人間だ。」
「ええ。だからこそ、祈りを記録できる。」
久遠が微笑んだ。
その表情は、どこか嬉しそうでもあった。
「ようやく、私の代わりが現れた。」
⸻
地下の灯りが消えた。
暗闇の中で、
無数の声がささやいた。
“ありがとう”
“ごめんね”
“どうか、忘れないで”
それは祈りでも呪いでもなく、
ただ、人間の残響だった。
久遠の声がその中に混じる。
「これが、“名の帳”の本質です。
祈りを保存することは、
世界を静かに殺すこと。」
「祈りを保存する……?」
「そう。祈りは本来、届かないからこそ尊い。
でも、あなたたちは届かせようとした。
その結果、祈りは“データ”になった。
消せない記録。
それがこの街の病です。」
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地下から戻る途中、
久遠はふと立ち止まった。
「神代さん、もしあなたが“誰かの名”を思い出したら――
その名は、もうこの世にいないということです。」
「……どうしてそんなことを?」
「名を覚えている者は、
名のない世界では異物になるから。」
彼の横顔が、
まるで灰に溶けていくように霞んだ。
⸻
翌朝。
自分の部屋の机の上に、
昨日までなかったノートが置かれていた。
表紙に「名」と書かれている。
開くと、白紙。
ペンを手に取ると、
指が勝手に動いた。
桜井真理/亡夫の蘇生/代価:名の削除(真)
書き終えると、紙が少し震え、
インクが光に変わって消えた。
ノートの裏表紙に、
新しい文字が浮かび上がる。
【記録更新:観測者 神代蓮司】
俺はノートを閉じた。
指先に残った熱が、心臓の鼓動と重なる。
まるで、ノートの中に“呼吸”があるようだった。
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窓の外では、灰が降っていた。
遠くで教会跡の鐘が鳴る。
人の声はない。
ただ、世界そのものが祈っているように見えた。
久遠の言葉が脳裏で反響する。
“祈りを保存することは、世界を静かに殺すこと。”
俺はゆっくりと息を吐き、
ノートに指を置いた。
その瞬間、どこかで誰かが――
俺の名前を呼んだ気がした。
「……れんじ。」
反射的に、返事をしかけた。
だが、喉の奥で言葉が止まった。
返してはいけない。
それが、祈り屋の第一の掟だった。




