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祈骸  作者: 花札大統領
3/6

第三章 名の帳

旧御影商店街の地下には、

地図に載っていない空間がある。


「祈り屋の本部」と呼ばれるその場所へ案内されたのは、

二章の出来事から一週間後の夜だった。


久遠から届いたメールには、


「祈りの構造を、あなたに見せます」

とだけ記されていた。



入口は、閉店した古本屋の奥だった。

埃を被った棚をどかすと、

床に鉄製の蓋があり、

その中央に「名」と刻まれている。


蓋を開けると、

地下へ続く螺旋階段が現れた。

下りていくほど空気が湿り、温度が下がる。

階段の壁には、無数の指跡があった。

――まるで、ここを降りた者たちが“何かを掴もうとしていた”ように。


足元の灰が舞い、

呼吸するたびに喉の奥に鉄の味が広がった。



階段を降り切ると、

そこは広大な地下聖堂だった。


天井は高く、

壁一面に無数の紙が貼られている。

どれも人の名前。


手書きのもの、印字されたもの、切り取られた写真――

それらが何層にも重なり、

まるで「人間の皮膚」で覆われた壁のようだった。


中央に巨大な机。

その上には一冊の分厚い帳面が開かれている。


久遠は、そこに立っていた。

白い外套が、地下の湿気を吸って灰色に濁っている。


「これが、“名の帳”です。」



帳は、思っていたよりも静かだった。

ページをめくるたび、

乾いた音ではなく、呼吸のような音がする。


「これが、人々の祈りの記録か。」

「正確には、“祈りを代償として失われた名”の記録です。」


久遠が指で一つの名前を示す。


山本薫/妹の病気快癒/名削除(薫)


その横に、


状態:奇跡成立/代償確定


「“薫”という文字を削ることで、

 彼女は妹を救いました。

 しかし、それ以降、誰の記憶の中にも“山本薫”という名は残っていません。」


「……死んだのか。」

「いえ、生きています。

 ただ、“名前を持たない生”を生きている。

 本人も、他人も、その名を思い出せないだけです。」


久遠は次のページを開いた。

そこに、見慣れた字があった。


神代蓮司/観測継続中/変化待機


俺は息を呑んだ。

「なぜ、俺の名前がここにある。」


久遠は目を閉じた。

「あなたは“観測者”として、祈りを媒介しています。

 あなたが記事を書くたびに、祈りのデータが世界に拡散する。

 それを“観測祈祷”と呼びます。」


「俺は祈っていない。」

「ええ。だからこそ、あなたは純粋な媒体になれる。

 信じない者の祈りほど、強いものはないんです。」



久遠は机の引き出しを開けた。

中から古びた鍵束を取り出し、

奥の鉄扉を開いた。


「ここが、“祈り屋の始まり”です。」


扉の向こうにあったのは、

古い礼拝堂のような空間。

壁には焼け焦げた十字架がかけられ、

床には無数の名札が落ちていた。


「この教会が崩れたとき、

 信徒たちは“神の沈黙”に絶望しました。

 祈っても返事がない。

 だから、自分たちの中に“神の代わり”を作ったんです。

 それが――“祈り屋”の原型です。」


久遠の声が、少しだけ震えた。


「私は、そのときに生まれました。

 信徒たちが“祈りを記録する存在”を求めたとき、

 この身体が形を得た。

 祈りと記録の残響が、私を作ったんです。」


彼は、自分の胸を指差した。

そこには黒い紋章が刻まれていた。


「これは、“祈り屋の紋”。

 祈りを代行する代わりに、

 名前の一部を焼き付ける印です。」



机の上の名簿が、微かに光った。

インクが浮かび上がり、新たな行が記される。


桜井真理/亡夫の蘇生/代価:名の削除(真)


文字が書かれるたび、

上の層の紙が一枚剥がれ落ち、

灰になって崩れた。


「祈りは、増え続けることができない。

 一つが叶えば、一つが消える。

 それが“均衡”です。」


「なら、俺の“観測”は何を消している?」

「まだ、何も。

 だが――やがて、あなたは誰かの祈りと重なります。」


久遠の言葉は予言のようだった。



そのとき、

地下の空気が突然揺れた。


壁の紙が一斉にめくれ、

ざわざわと音を立て始める。

それは風の音ではない。

名前たちが、呻いている。


“戻りたい”

“思い出して”

“名を返して”


叫びが、重なり、うねり、空間を満たした。

久遠の顔が苦痛に歪む。


「観測が過剰になっている……」

「どういうことだ?」

「祈りが飽和しているんです。

 この街ではもう、“名を支払える人間”が残っていない。」


壁の名前が、一枚、また一枚と剥がれ落ちていく。

灰が嵐のように舞い、

視界が白く染まる。


俺は咄嗟に机に手をついた。

掌に触れた紙が、熱を帯びる。

その瞬間、

帳の中の文字が変わった。


神代蓮司/観測継続中 → 転写開始


久遠が叫ぶ。

「触れては――!」


遅かった。

光が弾け、視界が反転した。



目を開けると、

俺は暗闇の中にいた。


音がない。

風もない。

ただ、遠くで何かが脈打っている。


足元を見ると、

紙が無数に敷き詰められている。

どれも名前が書かれた紙片。


ひとつ拾うと、

そこには「久遠」と書かれていた。


その文字が、

俺の手の中で淡く光り、やがて消えた。


「……名は、呼ばれ続ける。」


耳元で久遠の声がした。

だが姿は見えない。


「あなたの中で、帳は開かれた。

これからあなたが書くすべての言葉が、

“祈りの記録”になる。」


俺は息を呑んだ。

言葉を発しようとした瞬間、

喉が焼けるように熱くなった。


吐き出した息が、

白い文字になって空中に浮かぶ。


【祈り屋/神代蓮司/観測開始】


文字は淡く光り、

空間に吸い込まれた。



気づけば、再び地下聖堂に立っていた。

久遠が俺を見つめている。

彼の目の奥に、恐怖と安堵が混ざっていた。


「あなたは……帳に触れてしまった。

 もう戻れません。」


「どういう意味だ。」

「あなた自身が、“新しい帳”になったんです。

 あなたが見るもの、書くもの、

 そのすべてが祈りとして記録される。」


「俺は人間だ。」

「ええ。だからこそ、祈りを記録できる。」


久遠が微笑んだ。

その表情は、どこか嬉しそうでもあった。


「ようやく、私の代わりが現れた。」



地下の灯りが消えた。

暗闇の中で、

無数の声がささやいた。


“ありがとう”

“ごめんね”

“どうか、忘れないで”


それは祈りでも呪いでもなく、

ただ、人間の残響だった。


久遠の声がその中に混じる。


「これが、“名の帳”の本質です。

祈りを保存することは、

世界を静かに殺すこと。」


「祈りを保存する……?」

「そう。祈りは本来、届かないからこそ尊い。

 でも、あなたたちは届かせようとした。

 その結果、祈りは“データ”になった。

 消せない記録。

 それがこの街の病です。」



地下から戻る途中、

久遠はふと立ち止まった。


「神代さん、もしあなたが“誰かの名”を思い出したら――

 その名は、もうこの世にいないということです。」


「……どうしてそんなことを?」

「名を覚えている者は、

 名のない世界では異物になるから。」


彼の横顔が、

まるで灰に溶けていくように霞んだ。



翌朝。


自分の部屋の机の上に、

昨日までなかったノートが置かれていた。

表紙に「名」と書かれている。

開くと、白紙。


ペンを手に取ると、

指が勝手に動いた。


桜井真理/亡夫の蘇生/代価:名の削除(真)


書き終えると、紙が少し震え、

インクが光に変わって消えた。


ノートの裏表紙に、

新しい文字が浮かび上がる。


【記録更新:観測者 神代蓮司】


俺はノートを閉じた。

指先に残った熱が、心臓の鼓動と重なる。

まるで、ノートの中に“呼吸”があるようだった。



窓の外では、灰が降っていた。

遠くで教会跡の鐘が鳴る。

人の声はない。

ただ、世界そのものが祈っているように見えた。


久遠の言葉が脳裏で反響する。


“祈りを保存することは、世界を静かに殺すこと。”


俺はゆっくりと息を吐き、

ノートに指を置いた。


その瞬間、どこかで誰かが――

俺の名前を呼んだ気がした。


「……れんじ。」


反射的に、返事をしかけた。

だが、喉の奥で言葉が止まった。


返してはいけない。

それが、祈り屋の第一の掟だった。

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