第二章 贖罪の儀
御影市には「信仰施設」という言葉が似合わない。
この街で祈る者たちは、誰も“神”の名を口にしない。
祈りは祈りのままに漂い、
受け取る相手のいないメッセージのように空を彷徨っている。
祈り屋――
その曖昧な存在が、
いつの間にか街の生活の中に紛れ込んでいた。
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ある日、編集部に封筒が届いた。
宛名は俺の名前。
差出人は記されていない。
中には古い写真が三枚。
1枚目は、戦前の御影教会。
2枚目は、瓦礫の中で祈る白い外套の人影。
3枚目は――俺自身だった。
教会跡で、灰の中に立つ俺の姿。
撮られた覚えはない。
裏面には日付と、短いメッセージ。
「贖罪は始まっています。」
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取材を続けるうちに、“祈り屋”たちが拠点にしている場所があると聞いた。
旧御影商店街の奥、
元クリーニング店の跡地。
昼でも薄暗く、
店先には“祈り受付”と手書きの紙が貼られていた。
中に入ると、
無言の人々が並んでいた。
一人ずつ、
奥の部屋で何かを“支払って”出てくる。
手には白い封筒を持っているが、
誰も開けようとしない。
俺は列の最後尾に立った。
受付の男は、古びたスーツにマスクをつけていた。
声は穏やかで事務的。
「ご希望の祈りを選んでください。」
カウンターにはメニューのような紙が並んでいる。
【失くした人を取り戻す】
【痛みを癒やす】
【過去をやり直す】
【名前を捨てる】
「最後のは?」
「……重い祈りです。」
男の視線が、俺の首元の記者証に一瞬止まった。
「記録をお持ちの方は、祈れませんよ。」
「なぜだ。」
「観測者の祈りは、世界を変質させるからです。」
その言葉を聞いた瞬間、
背中に冷たい汗が流れた。
「あなたの取材は、もう始まっているはずです。」
受付の奥から、
白い外套の影が現れた。
――久遠だった。
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「ここは、“祈りの残響”を処理する場所です。」
久遠が言った。
彼に案内され、
裏手の部屋に入る。
壁一面に紙が貼られていた。
どれも、手書きの願い。
“息子を助けてください”
“罪をなかったことにしてほしい”
“忘れたい”
久遠はそれらを、
一枚ずつ丁寧に取り外しては、
白い箱の中に入れていった。
「私たちは、祈りを叶えるのではありません。
祈りを沈めるのです。」
「沈める?」
「祈りは、放っておくと人を壊します。
願い続けることは、呪いと同じ。
だから、代わりに“祈る”者が必要なんです。」
「代わりに祈る……それが祈り屋?」
「ええ。あなたたちは“奇跡”と呼びますが、
本当は、忘却の儀式です。」
久遠の声は静かだった。
しかしその奥には、どこかに哀しみがあった。
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机の上に、
開かれた古いノートが置かれていた。
タイトルは「贖罪録」。
中には、名前と、祈りの内容、そして“消失日”が記されていた。
山野祈子/母の病気が治りますように/記録削除済
木村徹/罪を忘れたい/名抹消済
神代蓮司/観測継続中
自分の名前を見つけた瞬間、
指先が震えた。
「……俺の名前が、なぜここにある。」
「あなたは“呼ばれた”からです。」
「誰に。」
久遠は、少しだけ目を伏せた。
「この街に。
御影市そのものが、祈りを記録する装置になっている。
あなたは、その観測者に選ばれた。」
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久遠の話を、
最初は信じなかった。
だが、その夜――
取材ノートを開くと、
自分が書いた覚えのない文字が並んでいた。
“祈りは神代蓮司を媒介として成立した。”
“贖罪は進行中。”
ノートの端から灰がこぼれ落ちる。
床に落ちた灰が、
指の形を作って消えた。
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翌日、俺は再び久遠に会いに行った。
「祈りを沈めるって、具体的にどういうことだ。」
「見せましょう。」
久遠は、俺を廃教会の地下へ案内した。
そこには巨大な石盤があった。
無数の名前が彫られている。
それは墓碑ではなく、
**“祈りの契約書”**だった。
「祈りは、名前を削ることで発動します。」
「……名前?」
「人の“名”は、その人の存在の座標です。
それを一部でも削ると、世界の因果がずれる。
その歪みの中で、“奇跡”が生まれる。」
久遠は指で、自分の胸元をなぞった。
外套の下の肌には、
焼けたような痕があった。
「私の名も、ここで削られました。」
「それが、祈り屋になる代償か。」
「いいえ。贖罪です。
私は、祈りを管理するために作られた存在。
神ではなく、ただの記録です。」
その言葉を聞いたとき、
俺は彼が人間ではないことを理解した。
久遠は、“祈りの記録媒体”だった。
人の祈りを代行するうちに、
自我と記録が混ざり合い、
人格として形成された“残響”。
「あなたたちは祈る。
けれど、その祈りがどこへ行くかを知らない。
祈りは神に届かない。
ただ、街の記憶に溜まるだけです。」
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久遠は祭壇に手を置いた。
灰が舞い、冷たい光が立ち上る。
「これが、贖罪の儀です。」
祭壇の上には、一冊の名簿。
そこに新しい名前が書き込まれていく。
見たことのある顔が浮かんだ。
昨日、祈り受付の列に並んでいた人々。
【願い成立】
【代価:名の一部削除】
「祈り屋の“奇跡”は、こうして生まれる。
だが、奇跡を重ねるほど、
世界は自分の名前を忘れていく。」
久遠の声が震えた。
「人は、忘れられることを恐れる。
だから、祈り続けてしまう。」
「お前は、それを止められないのか。」
「止められません。
私は“祈りを記録するための意志”だから。」
久遠はゆっくりと俺の方を見た。
「あなたは、まだ祈っていませんね。」
「祈らない。」
「それが、最も強い祈りです。」
その瞬間、鐘の音が鳴った。
地下の空気が震え、
壁の文字が一斉に崩れ落ちた。
灰が舞い、
久遠の姿が薄れていく。
「忘れないでください。
あなたが書く記事の一文一文が、
祈りの延命になる。」
「俺は記者だ。記事は、記録のために書く。」
「だからこそ。
記録は、祈りと同じです。
“残したい”という欲望ですから。」
久遠の声が、灰の中に溶けた。
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地上に戻ると、
夜の風が生ぬるかった。
スマホの通知が鳴る。
【祈り屋ニュース】
《祈り屋に依頼した男性、病気の妻が奇跡的回復》
《代価は「名前の一文字」? SNSで拡散中》
画面の下に、自分の記事が引用されていた。
いつの間にか、俺が“祈り屋を肯定する”記事を書いたことになっていた。
覚えがない。
だが、署名は確かに俺のものだった。
その記事の最後の一文に、
俺は息を呑んだ。
「祈りとは、忘却の中で生まれる再生である。」
――それは、久遠の言葉だった。
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夜更け。
部屋の隅に、封筒が落ちていた。
例の写真が入っていた封筒と同じもの。
中には一枚の紙。
【贖罪完了】
【観測継続】
その下に、黒いインクで名前が書かれていた。
神代蓮司
だが、“代”の字が、滲んで消えていた。
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翌朝、目覚めると、
スマホの連絡帳から一人分の名前が消えていた。
昨日まで確かに存在した、同僚の記録。
写真も、メールも、何も残っていない。
世界が少しだけ、軽くなった気がした。
それが恐ろしくて、同時に――美しく思えた。




