第一章 灰の呼吸
最初にその噂を聞いたのは、
夏の終わりの蒸し暑い夜だった。
「夜の零時に旧市街の教会跡で、名前を呼ばれても返事をしてはいけない」
というものだ。
SNSの投稿はたった一つ。
匿名掲示板のスレに貼られた、歪んだ写真の添付。
瓦礫の中に立つ白い影が、こちらを見ている。
コメント欄には「ガチだった」「本物だ」「祈り屋が動いた」など、
半ばふざけ半ば怯えた言葉が並んでいた。
翌日、その写真の撮影者が行方不明になったというニュースが流れ、
都市伝説は瞬く間に広がった。
「あの教会はまだ“祈り”を食ってる」
「夜中に呼ばれたら終わり」
「祈り屋に願えば、名前を失う代わりに奇跡が起きる」
――祈り屋。
その言葉を、俺はそこで初めて見た。
神代蓮司、三十六歳。
地元紙「御影日報」の記者。
普段は市議会や観光課の取材ばかりだが、
たまにこうした“都市伝説案件”がまわってくる。
編集長いわく、アクセス稼ぎになるから、だそうだ。
興味はなかった。
だが、その夜、俺のスマホに一件の通知が届いた。
【御影フォーラム】
「祈り屋に願ったら、兄が帰ってきた」
投稿者のアカウント名は「久遠」。
⸻
旧市街は、地図で見ればただの廃墟群だ。
十年前に土砂崩れで大部分が封鎖され、
残っているのは古い商店街と、黒焦げの教会跡くらい。
夜の十一時、
記者証を首から下げ、俺はその現場へ向かった。
街灯の数は少なく、風はなく、
空にはうっすらと灰のような粒が浮かんでいる。
雪じゃない。
この街ではもう雪は降らない。
焼けた祈りの粉が空から降り、
街の空気を鈍く曇らせている。
人はそれを“灰”と呼ぶが、古い信徒たちは“祈骸”と呼んでいた。
道を進むたび、靴底が灰を踏む音がした。
ぬかるみではない。
軽い粉塵が、まるで息をしているようにうごめく。
かつてこの街の人々は、
神に祈る代わりに“名前”を差し出したという。
教会の鐘楼に名前を刻めば、どんな願いも叶うと。
そして、その名を呼ばれた者は、二度と同じ姿で戻らなかった。
記録のない奇跡ほど、信仰を生むものはない。
⸻
教会跡に辿り着くと、
鉄骨の影が月明かりに浮かんでいた。
壁は半分崩れ、ステンドグラスの欠片が草むらに散らばっている。
扉は存在せず、風だけが出入りしていた。
中へ足を踏み入れる。
空気は冷たく、湿っている。
灰の粒が光を反射して、
まるで空中に漂う魂のようだった。
床の中央に、円形の焦げ跡があった。
チョークではない。焼け焦げた跡だ。
近づくと、足の裏に微かな熱を感じた。
まだ、誰かがここで何かを“燃やした”のだろう。
円の中央に、木片のようなものが立っていた。
祈祷書かと思ったが、違う。
厚い紙の束――名簿のようだった。
表紙に、墨で一文字だけ書かれている。
「名」
その瞬間、背後で何かが動いた気配がした。
風もないのに、灰が舞い上がる。
「……れんじ」
声がした。
女でも男でもない。
空気そのものが名前を吐き出したような声。
振り向く。
誰もいない。
ただ、瓦礫の影に、人の形をした“影”が立っている。
一歩近づいた。
影は動かない。
それどころか、輪郭がわずかに崩れ、灰になって散っていく。
その灰の中に、一瞬だけ瞳が見えた。
銀色の光。
まばたきのように、俺を見た。
「見えているの?」
心臓が跳ねた。
俺は声を出さなかった。
――名前を呼ばれても、返事をしてはいけない。
その噂を、なぜか思い出していた。
灰が静かに床に落ちる。
その瞬間、スマホが震えた。
通知。
【祈り屋からの礼】
差出人は“久遠”。
本文は、たった一行。
「祈りは受理されました。」
⸻
翌朝。
新聞社のデスクで目を覚ますと、
モニターの画面にメールが届いていた。
件名:取材依頼
本文:
「神代様。
貴方の“観測”が必要です。
本日、13時。旧御影教会跡へ。」
署名欄には――祈り屋 久遠。
編集長は「変な宗教に関わるな」と笑いながらも、
俺の顔を見てすぐ真顔になった。
「……おい蓮司、お前、顔色どうした?」
鏡を見た。
自分の瞳の色が、昨夜見た“灰の影”と同じ銀色に濁っていた。
⸻
午後。
再び教会跡へ。
昼間はただの廃墟だ。
しかし、空気が違う。
人がいないのに、誰かの息づかいを感じる。
瓦礫の間に立つ、白い影。
外套を纏った青年――久遠。
「あなたが神代蓮司さんですね」
声は穏やかで、どこか懐かしい響きを持っていた。
「私たちは“祈り屋”と呼ばれていますが、
本当は“観測者”の方が近いかもしれません。」
「観測?」
「ええ。人々の祈りが、いつ、どこで、どんな形で叶うのか。
それを“記録”する仕事です。」
久遠の目は灰色に澄んでいた。
何も映していないようで、すべてを見透かしている。
「昨日、あなたは“呼ばれた”はずです。」
「……あれは、あなたか?」
「いいえ。あれは祈りの残響。
あなたが聞いたのは、“名の声”です。」
久遠は名簿を差し出した。
「ここに書かれた名は、祈りを交わした証です。
名を記すとき、人は“存在”の一部を神に貸し与える。
だから返事をしてはいけない。
呼ばれた瞬間、あなたの祈りが成立してしまうから。」
「俺は祈っていない」
「――いいえ。もう祈ってしまいました。
“信じないでいたい”という祈りを。」
久遠の微笑みは、涙のように静かだった。
その笑みを見た瞬間、胸の奥で何かが溶けた。
恐怖ではなく、懐かしさだった。
「あなたの名は、すでに“帳”に記されています。」
久遠が名簿を開く。
見覚えのある文字があった。
神代蓮司/観測者/祈り受理
紙の上の墨が、微かに滲んでいた。
まるで呼吸しているように。
「……どういうことだ」
「あなたの祈りは、これから始まる世界の観測です。
“祈骸”は、まだ息をしている。」
久遠がそう告げた瞬間、
教会の鐘が鳴った。
灰が舞い上がる。
久遠の姿がその中に溶け、
声だけが残る。
「呼ばれても、返事をしてはいけません。
それが、あなたの仕事ですから。」
⸻
夜。
自宅に戻ると、部屋の空気が重かった。
窓を開けると、灰が舞い込んできた。
白い粉が床に積もり、
それがまるで呼吸をしているように膨らんだり縮んだりしている。
スマホが震える。
通知:
【祈り屋:神代蓮司様 観測開始】
画面が暗転し、
白い文字が浮かぶ。
「見えているの?」
俺はスマホを置いた。
胸の奥で、何かが呼吸している。
そのリズムは、世界のどこかとつながっていた。
そして、俺は気づいた。
――この街全体が、ゆっくりと息をしている。




