【短編】声【ホラー】
注:登場する人名は実在の人物と一切関りはありません。
歳をとってから、深夜に中途覚醒するようになった。
たいていは深夜の1時か2時に一度目が覚める。そのまま眠れない事もあるが、若いときよりも必要な睡眠量が減ったので、あまり困っていない。
10代の頃は過眠症で苦労した。週に1度は12時間以上眠ってしまう。床ずれで褥瘡ができて痛かった。今は眠る時間の長さよりも深さが増したようで、相当大きな物音がしても、地震があっても、全く起きない。そう、起きないのだ。だからあれは最初からおかしかった。
去年の夏、夜中に「お姉ちゃん」と呼ぶ声で目が覚めた。
やけにはっきり聞こえた事、女性の声だった事しか覚えていない。
寝ぼけながら「はいはい」と返事をして起き上がった。襖を開けると、母が寝ていた。あれ、と思って布団に入りなおし、母の寝言か、わたしの空耳か、と思ったところで、
ぞっとした。
わたしは末子だ。
しかし今さっき、寝ぼけてはいても、確かにわたしは「自分が呼ばれた」と認識して起き上がり、返事をした。
なぜ。
翌日、母に「ゆうべ呼んだ?」と聞いたが、母は不思議そうに首を振った。
「まーちゃんと間違えて呼んだとか、それもない?」
「ないわよ。そもそも真由美の事をお姉ちゃんって呼ばないし」
まーちゃんこと真由美は、上京した姉のことだ。確かに母は姉を「お姉ちゃん」とは呼ばない。まーちゃん、真由美、まゆ、いずれにしろ名前で呼ぶ。
「寝ぼけてたんじゃないの」
寝ぼけてはいた。あの時はとても眠かった。それにしても。
「どうして自分の事だと思ったんだろう」
ふと母の表情が強張ったような気がした。
「...それも寝ぼけてたからなんじゃない。洗濯物干してきて」
★★★
後になって思い出した事がある。
今は駐車場になっている場所に、昔、家が建っていて、幼馴染とその家族が住んでいた。
苗字はたしか佐伯で、ご夫妻と3姉妹の女所帯だった。
わたしは真ん中っ子のミツキちゃんとよく遊んでいた。
姉は一番年上のユキちゃんと仲が良かった。
末っ子のハナちゃんとはあまり交流がなかった。
ご夫妻は、旦那さんの事はよく覚えていないが、奥さんはいつもニコニコしていて身ぎれいな、小柄で上品な女性だったと思う。
佐伯家の引っ越しに関して、なぜかわたしは何も覚えていない。
ブルドーザーが地面を掘り返して、大きな桜の木が撤去される光景だけが、ぼんやりと頭の片端に残っている。それ以外が何も無い。ミツキちゃんとさよならをしたときのことや引っ越しの理由について、不自然なほど何も記憶が無い。
佐伯夫人と母は同じ産院で出産した。
不思議な事に、妊娠と出産の時期がことごとく被った。
81年の10月にユキちゃん、9月にまーちゃんが生まれた。
84年の5月にミツキちゃん、6月にわたしが生まれた。
母は、一度も言葉にしたことは無かったが、夫人を嫌っていた。
わたしは、母が夫人を嫌っている事も、理由も、なんとなくずっと気が付いていた。
姉の真由美は一生反抗期みたいな性格で、わたしは常にどこかが病気だった。
ユキちゃんとミツキちゃんは夫人によく似て美しく、礼儀正しく、健康で賢かった。
母は優しいと思う。わたしは一度も「なぜミツキちゃんのようにできないの」と言われたことがない。母はわたしと姉が佐伯姉妹のようになれない事を責めなかった。
母は佐伯姉妹のような娘を育てられない自分に苛立っていた。佐伯夫人のようにになれない自分を責めていた。
2人連続でご近所夫妻と同じ年に子どもが生まれた事について、生前父は「気持ち悪いから3人目は作らなかった」と言っていた。当時はなんのことか分からなかった。思えば未就学児に言う言葉ではない。
母は欲しかったかもしれない。
「3度目の正直」を期待していたかもしれない。
もしそうだとして、それは、その期待は、「やっとまともな子を授かる事」と、「やっとまともな子の母親になれる事」の、どちらだろう。
★★★
目が覚めた。真っ暗だ。きっとまだ深夜だ。
ふと、足元の方の暗がりに目を向け、心の中で呟いた。
(そこに何か居るのだとして、ここはそんなに楽しい場所ではないから、来ない方がいいと思うよ)
襖の向こうで眠っているはずの母の事を考えながら目を閉じた。ミツキちゃんの家の、桜の木。無表情で立ち尽くす母がおもむろに片手で枝に触れ、パキッと折る。5歳のわたしがそれを見ている。
「お姉ちゃん」
そのまま、そこに居な。お姉ちゃんに任せて、ずっとそこに居な。
読んでくださってありがとうございます。m(_ _)m