六節 路地裏にて
椿は昼食を買いに行こうとして、今日もノーマンに会うだろうかとふと思った。ストーカーされているので会う確率は高いだろう。
「そろそろ本気で断らないとな」
呟いて家を出る。以前も告げたが、椿にはアディアという本命がいる。ノーマンにどれだけ迫られても応えることはできない。勿論不倫をする気もない。きっぱり断って初恋を忘れてもらいたい。
商店街の近くまで来ると、予想通りノーマンが現れた。
「椿、今日は元気そうだな! 昨日は突然倒れてびっくりしたぞ」
快活に笑うノーマン。椿は彼の腕を掴み、近くの細い路地に引き摺り込んだ。驚くノーマンを壁際に追い詰め、顔の横に手をついた。さすがのノーマンもびっくりしている。
「いきなりどうした」
椿は指先でノーマンの鎖骨をなぞり、喉仏に触れ、つうと顎の下まで撫でた。ノーマンは自然と喉を晒す格好になっている。戸惑い、赤くなっているノーマンを下からじっと見つめた。
「前も言ったけどさあ、俺には本命がいるの」
喉をくすぐってみると、ノーマンはびくりと震えて顔を動かした。逃げようとしているが、壁についていた手で頬に触れた。距離の近さにだいぶ照れているようだ。普段は変態だが、本当はこういうことに慣れていないのかもしれない。
「つ、つばき」
「本命がいるからおまえには応えられない。分かったか? 返事は?」
「俺は諦めない」
「困った奴だ。このままだと俺はおまえを傷つけないといけなくなる」
首を鷲掴みにするとノーマンははっとしていた。脅したくなかったが仕方ない。自分たちに未来はないのだから、何がなんでもここで終わらせるのだ。
「もう俺の前に現れるな。でなければ」
喉を掴む手に力を入れようとした――その時だった。
「っ……椿……」
「えっ」
ノーマンが目に涙を浮かべていた。まさか泣くとは思わず、ぎょっとして手を離した。ノーマンは項垂れてぽろぽろと涙を流していた。
「おまえ感情の振れ幅大きすぎだろ。そんなに泣くことか」
「椿が酷いことを言うから……! どうして現れるな、なんて言うんだ! 悲しい!」
「いや、でも」
「さっきまでエッチなことをする雰囲気だったじゃないか!」
「そんなわけあるか!」
とんでもないことを大声で言われ、椿は慌ててノーマンの口を塞いだ。路地のすぐ傍を通る人々がひそひそ話しながらこちらを見ている。男同士の修羅場だと誤解されている。これは完全に想定外だ。焦っていると、ノーマンが椿の手を引き剥がして叫んだ。
「すごく期待したのに酷い!」
「俺にそういう気はねえよ。あれはおまえの急所を突く為に――」
「下から見上げてくる椿はものすごく色気があってときめいた。抱きしめていいか?」
「この状況でよくそんなこと言えるな」
一周回ってすごい。呆然としていると、ノーマンは涙の痕を拭き、急に椿の肩を押した。今度はノーマンが椿を壁際に追い詰め、逃げ道を塞ぐように両腕を顔の横についた。椿と違うのは、照れすぎて顔が真っ赤になっているところだ。
「椿……俺はおまえのことが好きだ」
椿は冷静に返した。
「知ってるよ。散々言われたから」
「本命がいても、王都にいる間は口説かせてほしい」
「何を言って……」
「王都を出たら二度と会えないかもしれないだろう」
椿はノーマンを見上げて沈黙した。ノーマンはこれまでと違い、とても苦しそうな顔をしていた。
「俺は一応護衛士で、椿も多分どこかで戦闘行動をしている。身体つきを見れば分かる。俺たちは他の人より死に近い」
「…………」
「椿が本気で嫌ならもう会わないが、そうでなければ……望みがなくともいい、恋を続けさせてくれ」
ノーマンは椿の肩に額を押し付けてくる。ノーマンはすべて分かった上で「恋」をしていたらしい。遠い学生の頃の初恋の続きを。
「でも、逆につらくないか。俺はおまえに応えられないんだぞ」
「可能性はゼロじゃない。残りわずかな可能性に賭ける」
「賭けても無駄だ」
「無駄かどうかはまだ分からない」
さりげなさを装って抱きしめようとしてくる。椿はノーマンの腕を掴んで押し留め、下から睨みつけた。
「俺が何言っても聞かないんだな。悪い奴め」
「椿だって俺をいつまでも誘惑する悪い奴だ」
「誘惑してねえよ」
つい苦笑してしまった。どうやらノーマンはこれからも椿に恋をして、隙あらば口説こうとするらしい。拒絶した方がいいと思うが、王都にいる間だけなら問題ない気もする。
椿はノーマンと見つめ合った。ノーマンの青い瞳は緊張や照れでうっすら涙目だった。椿はノーマンの額を指で弾き、腕の中から逃げ出した。
「王都にいる間だけだぞ」
ノーマンはぱっと瞳を輝かせていた。
「ありがとう! 好きだ!」
不毛な恋だというのに、眩しく見えるほど嬉しそうな笑顔だった。
ノーマンは困った男だが、底抜けに明るくて良い奴だ。だからといって惚れることはまずないが、嫌な気持ちにはならなかった。